〔1〕
オジゾー君に「メイに知らせに行くから、先に学校へ向かえ」と指示されたアカリだが、何かが納得いかなかった。
メイも、自分も、ユウコも、誰かの思惑で動かされている気がするのだ。抗うことの出来ない、大きな力。
逆らえない運命……。
形の定まらない疑問と不安を振り落としたくて、全力で走った。
息を切らせながら学校の正門に飛び込むと、今まで見た事が無いほど紅く大きな太陽がグラウンドの向こうに沈むところだった。
校舎の背後に這い寄る闇が、オレンジ色の光をゆっくり追い出していく。
二つの色が混じり合い、美しくも禍々しい緋色に染まった校舎屋上に人影があった。
アカリは一番近い昇降口に飛び込み、上履きのないまま階段を駆け上る。
「ダメ、ユウコっ!」
今まさに、屋上の手すりを乗り越えようとしていた海老塚ユウコが振り返った。
「ボクなら大丈夫だよ! 悪いのは満留なんだ、ユウコは悪くない! だから危ないことはやめて!」
ユウコは柵に足をかけたまま、小さく首を振る。
俯いた顔に前髪が掛かりよく見えないが、西日を受け光っているのは涙だ。
「ゴメンね、アカリ。アタシ……本当は一般受験に自信が無かったんだ。でも親は、絶対にK高校じゃなければダメだって言うから満留に相談したんだよ。そしたら夏期講習の時間変更連絡を回す時間に、アカリを外に誘いだせって言われた。アカリの家は共働きで誰もいないから、連絡がつかなくても仕方ないからって……」
あの、大雨が降った時間だ。
帰宅時間にうるさいユウコが帰りたがらず不思議に思ったが、そういうことだったのか。
「その事ならもういいよ、実はボク、他に行きたい高校があるんだ。だから、推薦の事は気にしなくて……」
どうしたらいいか解らないアカリは、思い付きの嘘をつく。
メイが来るまで時間を稼がなくてはならない。
しかしユウコは、ぐっと身体を前に突き出した。
「もう遅い……なにもかも、自分のせいなの。満留は、アタシがアカリにしたことを先生やクラスメイトや親に話すって。どんな言い訳しても無駄だって。身勝手なアタシを誰もが笑うだろうって……だから家にも帰れない、学校にも来られない、どこにも隠れることが出来ない、行くところなんて無い!」
「いやっ! やめてっ!」
ユウコの身体が前のめりに傾いた瞬間、アカリは夢中で腰に飛びついた。
だが小柄なアカリに対してユウコは大きく重い。
支えきれずに引きずられ、身体は重力から解放された。
「メイ……!」
死を覚悟したアカリは、メイの名を呟いた。
自分にも友達にも無力で、何も出来ずに死ぬのが悔しかった。
理不尽な悪意を向けられ、負けてしまうのが悔しかった。
自分に力があれば、友達を苦しめる鬼なんか退治してやるのに!
「一緒に、鬼退治しようか?」
「へっ?」
気が付くと、アカリはユウコの腰を抱いたまま屋上のコンクリート床に寝ていた。
意識を失いグッタリのし掛かるユウコの下から這い出し、周りを見渡してから顔を上げる。
頭上には、メイの笑顔があった。
「キミの声は、届いたよ。さあ鬼退治を始めよう!」
メイが両腕を大きく広げた。
しゃら……ぁああんっ……。
瞬きの間に、メイの右手は金属の棒を握っていた。
幾重にも重なった輪が美しい音を奏で、場の空気を浄化する。
そして射貫くような視線の先に、満留が立っていた。
「最近の子供は、本当に我が儘で生意気で、思い通りになりゃしない!」
満留のこめかみがメリメリと音を立てながら縦に避け、黒く捻り曲がったツノが血を滴らせながら突き出した。
生徒達が「中年パーマ」と揶揄する白髪交じりの髪が腰まで伸び、昔話の絵本で見た山姥そのものの姿だ。
正体を現した鬼は、目に留まらない速さで跳んだ。
と、認識した時には既にメイの背後を取り、固く組んだ丸太のような腕を後頭部目掛け振り下ろしていた。
間髪の差で床を蹴り、身体を回転させたメイの踵が満留の顎を砕く。
口と鼻から血飛沫を吹き出しながら、満留は醜く潰れた顔を歪ませて笑った。
「裁の地蔵め……なかなか手強い守人を送り込んできた」
メイの突きが、満留の脇腹を貫いた。
直後、金属棒を引き抜き次の攻撃体勢を取ろうとしたが動けない。
満留が金属棒を掴み、自らの身体に喰い込ませながらメイを引き寄せているのだ。
懐まで引き寄せると、鷲掴みにした頭に指をめり込ませた。
「うっあああっ!」
メイの悲鳴が、アカリの胸を裂いた。
額から流れ出た血が、制服の白いシャツを朱く染め上げる。
「メイっ!」
力も、武器もない自分は、どうしたらメイを助けてあげられるのだろう?
目眩がした、何も出来ないなら、逃げても許されるかもしれない。
「応援……して、アカリ。私に強さを……わけて」
かぼそいメイの声に、アカリは我に返った。
一瞬でも、逃げようと考えた自分はなんて卑怯だろう。
唇を咬んで、大きく息を吸い込む。
「そんな醜い化け物になんか、負けるなメイ! ぶっ潰せ!」
怖い、でも、ユウコやメイを傷付け苦しめた存在は許せない。
アカリの応援で、メイの目の色が変わった。
床を踏みしめ、満留の腕を掴むとじりじり引き剥がす。
その細腕のどこに力の源があるのだろう、互いに満身の力を込めた均衡はメイに軍配が上がった。
とうとうメイは満留の腕を引き剥がし、しっかり手首を掴むとハンマー投げのフォームで勢いよく床に叩き付けた。コンクリートの破片が、四散する。
「やった! いけっ、メイっ!」
喜々として叫んだ瞬間、重大な事実を思い出してアカリは息を止めた。
この戦いが終わったら、メイは……?
コンクリートの上、仰向けに沈んだ満留に歩み寄ったメイは、両手両足の付け根を金属棒で砕いた。
そして胸を跨いで仁王立ちになり、アカリに顔を向けて寂しそうに微笑んだ後……。
ゆっくりと満留に視線を戻し、金属棒を高く掲げた。
戦意を失い、動かない塊となった〔羅卒〕を冷たく見下ろし、顔面目掛けて棒を突き立てる。
中空に、亀裂の走る音。
満留の姿をした鬼は、断末魔の叫びと共に霧散した。
「メイ……」
アカリは、放心して立ち尽くすメイに駆け寄り強く抱きしめた。
抱き合ったまま、二人は崩れるようにその場に座り込む。
「終わった……これで私は全部取り戻せた。これでやっと、河を……渡れる」
「嫌だっ! 行かないでよ、メイ! なんとかしてよっ、オジゾー君!」
オジゾー君なら、何とか出来るのではないか?
すがる気持ちで姿を探したが、何処にもいない。
アカリの腕に寄りかかるメイが、どんどん重くなっていくのが解った。
「メイ……ボクはどうしたらいいか分かんないよ。だって満留を倒さなければ、もう少し生きていられたのに……でも、それじゃメイの戦いは終わらなくて……でもでも、死んじゃ嫌だ!」
最後の力を振り絞り、メイは顔を上げてアカリに微笑んだ。
「ありがとう、アカリ。本当は私、迷ってたんだ……このまま最後の〔羅卒〕を見逃したら、現世にいられるかもしれないって。でもアカリは、私が鬼を倒すまで頑張ると言ってくれたよね? 私を信じてくれた。だから私は、犯した罪から逃げずに立ち向かおうと思った」
ぐらりと頭が落ちた。
アカリの腕の中で、一つの輝きが急速に光を失いつつある。
アカリにはそれを、止める術がなかった。
「アカリと……競技場で会いたいな……そしたら……」
血塗れだった額が何事もなかったように綺麗になり、メイが取り戻した本当の唇が最後の吐息をついた。
頬に伝う、一筋の涙。
メイの身体は一瞬軽くなり、やがて深く深く、アカリの胸に沈んでいった。
「メイ……メイっ! メイィっ!」
メイの身体を抱きしめ、アカリは声が涸れるまで叫び続けた。