〔2〕
いつ眠りに落ちたのだろう。
最近の熱帯夜で寝不足が続いたためか、今朝はうっかり寝坊してしまった。
寝ぼけ眼で目覚ましを見ると、既に九時を過ぎている。今日の夏期講習が午後からでよかったと、アカリは胸をなで下ろした。
素麺を茹で、一人で早めの昼食を済ませて学校に向かった。
昨日の夕立のおかげで、今日はいくらか涼しく感じる。この分なら嫌な満留の授業も耐えられそうだった。
ほんのちょっとだが、ユウコと予習をしたのでテストも安心だ。
正門を入り三年生用昇降口に来た時、異変に気が付いた。
講習開始時間に、早過ぎも遅すぎもしないはずだった。それなのに、誰もいない。
各クラスの靴箱を覗いたが、空だった。
昨日、夕立の時に感じた胸騒ぎ。
西校舎二階にあがり、夏期講習が行われる一番奥の多目的室前に立った。
いつもざわついてるドア向こうが、しん、としている。
小さなガラス窓から中を覗いた途端、反射的にドアを開いた。
「うそ、誰もいない……」
講習を受ける生徒が自分で並べる学習机は、後ろに全て片付けられていた。
きっちりと窓は閉められ、一台しかない扇風機は止まっている。先生も、生徒も、誰もいない。
教室変更が、あったのだろうか? 何も連絡は聞いていない。
東校舎一階の、職員室まで走った。
一礼も忘れ、風通りを良くするため開け放してある入り口から飛び込んだ。
数名の教師と事務の若い女性が驚いた顔を上げる。その中に満留がいた。講習後に受ける十五分テストの採点中だ。
「あっ、あのっ、今日の英語の夏期講習は?」
満留の眉根に深い皺が寄り、白く濁った眼球がジロリとアカリを睨んだ。
「夏期講習は、午前八時四五分からです。残念だけど桜井アカリさんは、無断欠席扱いになりました。これで推薦は流れたわね?」
「だって、そんな、いつに変更になったんですか? ボク……えっと、私、聞いてないんですけど?」
テスト問題に視線を戻し、満留は興味なさそうに呟いた。
「連絡は昨日の午後、私が全員に電話しました。桜井さんの家は二回も電話したのに、誰も出なかったのよ? 二度目は夜七時近くだけど、いったい、どこで遊んでいたのかしら?」
その時間は、大雨のため〔D・マート〕に足止めされていた。
母はパートで二十時近くまで帰らない。父も大雨のために電車が止まり、遅くに帰ってきたのだ。
「ユウコは? 海老塚さんは今日来たんですか?」
「当たり前です、彼女はあなたとは違いますからね。来なかったのは、桜井さんだけです」
目の前が、真っ暗になった。
なぜユウコは、教えてくれなかったんだろう?
いや、アカリが知らなかったとは思わないだろう。教室にいないと気づいても、校内は携帯電話禁止だ。連絡することが出来ない。
「なんとか……なりませんか?」
「なるわけ無いでしょう? まったく、最近の子供は甘える事ばかり考えて、イヤラシイったらありゃしない」
他の教師に聞こえないように満留は、語尾を小さく呟いた。
何を言っても無駄だ。
全身から力が抜けていった。
職員室を出たアカリは、重い足取りで西校舎の三年生用昇降口に向かった。
すると、誰かの足音が追いかけてくる。
誰だろうと思い振り返ると、顔を真っ赤にして息を切らせた満留だった。
まだ何か言いたいことがあるのだろうか?
もしかして助けてくれるかもしれないと、アカリは淡い期待を抱いた。
しかし、口の端を歪め満留が言い放った言葉は、アカリをさらなる絶望の淵に突き落とすものだった。
「そうそう忘れてた。実は先生、留守電は入れないで海老塚さんに伝言頼んでおいたのよ。聞いてなかったということは、海老塚さんは伝えてくれなかったのかしら? ところで、あなたが推薦から落ちた代わりに、海老塚さんが特進コースの推薦に入ることが決まりました。自分が推薦取るために、故意に教えなかったとしたら恐ろしいけどねぇ……」
下品で、汚らしい顔で、満留が笑った。
この教師は、それだけを言うために、わざわざ人気のない場所まで追いかけて来たのだ。
アカリの胸に、ムカムカしたモノが込み上げてきた。吐き気がする。
これほど人を傷付け不快にする人間など、存在するものか。
メイという少女が言う通り、満留は鬼に違いない。
そう感じた時、アカリは信じられない言葉を口にしていた。
「アンタの顔見てると虫酸が走る……死ね」
自分自身の発言に驚くアカリに向かい、満留が会心の笑みをもらした。
歪んだ欲望に満たされた微笑み。
アカリは理解した。満留は、この言葉を待っていたのだ。
おぞましい寒気が、全身を駆け抜けた。
一秒でも早く、逃げ出さなくては。
全速力で昇降口まで来ると、靴の履き替えももどかしく校舎から飛び出した。
真夏の日差しに白く輝くグラウンドと、どこまでも高く真っ青に澄み切った空が別世界に思えた。
つい先ほどまでいた世界は、汚れて歪んだ、醜い世界だった。
涙が溢れてきた。
走って、走って、走り続けて、いつの間にかアカリはメイと出会った神社に来ていた。
酸欠で悲鳴を上げていた肺に、清浄な空気が流れ込む。
「メイ、メイ、いたら返事してっ!」
アカリは、この神社にいるとは限らない宰河原メイの名を叫び続けた。
走りながら乾かした涙が、また溢れ出す。
メイなら、きっと説明してくれる。異形のモノ、満留の正体と、アカリを苦しめようとする理由を。
「メイっ!」
「さすがに足が速いね、桜井アカリ。学校から追いかけてきたのに追いつかない。同じ陸上部でも、私は棒高跳びだったから無理ないか」
背後の声に振り向くと、ブナの木にもたれかかって宰河原メイが立っていた。
オジゾー君と紹介された青年も、一緒だ。
「え、陸上部? 棒高跳び?」
陸上部の単語に反応して、助けを求め泣き喚いていた事を一瞬忘れた。
「そう、生きてた頃、総体で関東大会まで行った」
「あっ!」
アカリは思い出した。
去年の夏、中学校総合体育大会に棒高跳びで出場した女子中学生が、その年の秋にマンション五階から落ちて意識不明の重体になったニュース。
「もしかして、あの自殺じゃないかって騒がれた人? 生きてたんだ……元気になって良かったね!」
現状を忘れ、よく知りもしない女子中学生の無事を喜ぶアカリに、メイは苦笑した。
「根っからの善人だね、桜井アカリ。だから満留に狙われるんだよ。それに何度も言うけど、私はもう死んでる」
「うそ、だって……」
「〔賽の河原〕って、聞いたことある? 私は一度死んで、その場所に堕ちたんだ」
悪戯っぽく、メイが笑う。
こんな時に冗談でからかうなんて、意地悪な子だ。アカリは怒った。
「デタラメばっかり、言わないでよっ! 本当のことを教えて!」
メイは、もたれかかっていたブナの木から離れてアカリに近付き、顔をのぞき込んだ。
太めのきりっとした眉に、まなじりが切れ上がった意志の強そうな目。細い鼻筋と、小振りでぽっちゃりした唇。
息が掛かるほど近く見つめ合うと、宰河原メイが綺麗な子だと気がついた。
「見て? 私には、口がないんだ」
言われてアカリは、見つめ合う視線を下にずらす。
「うあっ!」
つい、さっきまであった口が、ない。
その代わりに、ミミズが横に這うような痛々しい傷痕があった。
「驚いた? 他人が見ているのは、偽物の口なんだ。気持ち悪いから、普通に見えるようにしてる」
アカリが瞬きした間に、メイの顔は普通の綺麗な顔に戻っていた。
まるで狐につままれた気分である。
でもこの神社は稲荷神社じゃない、天神様だ。
「わけわかんない……」
「だから、私の話を最後まで黙って聞いて、桜井アカリ」
ニヤニヤと、メイが笑った。
わき上がる疑問を弾丸のようにぶつけたいところだが、話を聞いてからの方が良さそうだ。
アカリは渋々、頷いた。
「噂の通り、私は自殺した。マンション五階にあった、自宅リビングのベランダから飛び降りたんだ。運良く植え込みに落ちて、身体は擦り傷程度で済んだけど、気を失ってたから頭を支えられなくて縁石にコツン。意識不明の昏睡状態になった」
メイが探る目を向け、続きを聞く気があるか確かめた。
アカリはゴクリと唾を飲む。
どうやら、ここから先が大事らしい。
「生と死の境界線に、一本の河がある。向こう岸に渡ったら最後、二度と戻れない黄泉の河。気が付いた時、私はその河の畔に立っていた」
「……〔三途の川〕って言うんでしょ? マンガで読んだことあるけど、ホントにあるんだ?」
「人によっては、谷だったり花畑だったりするらしいけど……。景色に関係なく、死んだ者は境界線の手前で〔受容の刻〕を過ごし、死を受け入れる準備をするんだ。でもそこには〔羅卒〕という恐ろしい鬼がいて、転生に必要なだけ徳を積めなかった者や、業に蝕まれた者を苦しめる。〔賽の河原〕の〔賽〕は、裁きの〔裁〕。苦しんで贖罪を遣り遂げた者だけ、オジゾー君が河向こうに渡してくれるんだ」
改めてアカリはオジゾー君をマジマジと眺めた。
人間味を感じないほど整った美しい顔に、坊主頭は実にもったいない。
オジゾー君はアカリの視線に気が付き、にっこり微笑んだ。
胸の奥底まで、温かい物で満たしてくれる笑顔。
頬が紅潮し、一瞬、意識が幸せの彼方に飛んだ。
アカリは急いで、気持ちを現実に切り替える。
「じゃあ本当は〔賽の河原〕にいるはずのメイが、なんでこの世界で鬼と格闘してるの?」
急にメイは、悲しそうに顔を歪ませた。
何か話したくない事情があるようだ。しかし覚悟を決めたのか、厳しい顔つきでアカリを見た。
「それは……前にも話したけど、〔羅卒〕に奪われた〔業〕を取り返すため。奴らは私から奪った〔業〕で現世に渡り、心の弱い人間を死に向かわせる。境界に墜ちた人間の〔業〕を、また別の〔羅卒〕が奪い現世に鬼が増えていく……私の犯した罪のために起こる、悲しい死の連鎖は私が終わらせなきゃいけない。だからオジゾー君は、鬼退治のため一時的に私を黄泉から連れ戻した」
この神社でメイが鬼を倒した時、「両腕を取り戻した」と言った。
メイが説明を始める前に見せた、思い出すとゾッとする口の無い顔。満留を倒せば、本当の口が戻るのだろうか?
アカリには、まだ解らないことが多すぎた。
なぜ自殺したのか聞いてみたかった。
でも聞いては、いけないような気がした。メイがとても苦しんでいると、アカリには解ったからだ。
あんなに恐ろしい鬼と戦ったら、怖いに決まっている。殴られたら、痛いに決まっている。
それでもメイは、どうしても逃げられない事情があるに違いない。
「解ったよメイ……満留がその、鬼とかいうヤツで、ボクが死にたくなるように、わざと意地悪をしているんだよね? それから、メイが何かを取り戻すために戦っているって事も。ボクなら大丈夫、あんなヤツの思い通りになんか、絶対ならない」
初めてメイが、明るい笑顔を見せた。
先ほどまでの大人びたニヤニヤ笑いが、仲の良い友達に見せる素直な笑顔になる。
「アンタは強いね、桜井アカリ。でも油断しちゃだめだ、〔羅卒〕は簡単に獲物を諦めない。きっとまた、罠を仕掛け追い詰めてくる。人に化けている満留が鬼に戻らなければ、私は討つことが出来ないんだ。正体を現すまで頑張ってくれる?」
「メイが鬼を退治してくれるんでしょ? なら、頑張るよ!」
アカリの言葉にメイは、目を丸くして驚いた。
それから少し赤くなって、下を向いた。
「アカリの強さが……私にあればよかったのに」
風と混じりあい、やっと聞き取れるほどの呟き。
メイの足下に、ポタリと何かが落ちた。
オジゾー君がそっと、メイの頭を撫でた。