僕の癖
「今日は、私も行くわ」
数日後。再び夜半にチャイムが鳴った時。
妻は、マチルダさんに、そう告げた。
困ったように僕を見る、マチルダさん。
「ミリー。だから、メリーは……」
「この子は今日は隣に預けることになってるの」
なんだと。
やられた。妻は本気だ。
「で、ですがその、馬は二頭しか……」
慌てたマチルダさんが遠慮がちにそう言うと、妻はきっと睨んだ。
「ご心配なく。馬も準備してあります。今晩だけ村長に貸してもらったの」
なっ。そこまでするか……。
「だがミリー。こないだも言ったが、危険なんだ。こう言っちゃなんだが、今の君じゃ足手まといだ」
「わかってるわ。だから、戦いに行くと言ってるわけじゃない。あなたが戦うのも止めはしないわ。ただ、ついていくだけ。ドラゴンが本当にいるとわかったら帰るわ」
「疑うのか?」
「ええ。あなたはその女と浮気をしている。ドラゴンなんていないのよ。違うかしら?」
「違う」
「じゃあ、ドラゴンを見せて」
微笑み。それはしかし、全てをシャットアウトする笑顔だった。
どうやら本気のようだった。
さすがに僕も声を荒げる。
「ぼ……僕を信じてはくれないのか!?」
「……」
妻は、冷ややかな目で僕を見た。
「あなたのことは、あなたが思っている以上に、私、わかっているのよ。あなた、知ってた? 自分の癖」
「癖?」
「あなたはね、キスをした後、それを思い出しては自分の鼻の頭をかく癖があるのよ」
え…………癖?
「き、キス?」
「そうよ。私とキスした後だけじゃなかったみたいね」
「そ……そそそ、そんなバカな。そんなバカな。癖だなんてそんな、何の根拠もない……」
「そうね。根拠としては薄いかしら。でも、疑うに足るとは思わない? だから、逆に私が信じられるようにして欲しいの。本当にいるっていう証拠を見せてよ。ドラゴンが」
「……」
くそっ。僕は折れるしかなかった。
「わ、わかったよ。じゃあついてくるがいいさ。だが、約束してくれ。ドラゴンが現れたら、すぐに下がって、けして戦場に近づいたりしないと。危険なんだ。間違っても僕が戦ってるのを見届けようなんてしないこと。いいね」
「わかったわよ。約束するわ」
*
三頭の馬で、雪の薄く積もった道を歩く。さく、さく、と音がする他は何も聞こえない。
会話もない。
妻はただ黙ってマチルダさんをずっと睨んでおり、マチルダさんは困ったような顔で、こちらも終始無言。僕は僕で、うまく妻の疑いの目を真相から遠ざけられるだろうかと心配していた。
目的地についてしまった。
「ここなの? そのドラゴンが出る場所っていうのは」
「そう……です。この先です」
マチルダさんが指差した先は、山間の林道を抜けて降りてくる道。獣道だが、何度か巨大な生き物が行き来したせいで付近の草木がなぎ倒され、だいぶ太い道になっている。
「じゃ、待とうかしら。ドラゴンが出るのを」
「ミリー。できれば今からでも引き返してくれないか。やはり、危険だ。万一ドラゴンが二人のほうに襲いかかってきでもしたら、守りながら戦うなんてできないんだ」
もちろん、二人がドラゴンに襲われるなんてそんなことが起こらないのはわかっていた。
「そうですよ、ミリーさん。私と一緒にもっと離れましょう。私もいつもここまでは来ないんです」
マチルダさんも口添えしてくれるが、妻はがんとして動かなかった。
「そうはいかないわよ。ちゃんとドラゴンが姿を見せてくれるまでは帰りませんからね」
「……」
やはり、そう来るか。
じゃあ、仕方がない。
見せるしかない。
*
ぐかぁああああ……。
「来た」
どす、どす、どす、どす、どす。
すっ。
僕は素早く剣を抜く。
「えっ 嘘 で」
妻の言葉を最後まで待たず、僕は駆け出した。剣を構えて。待ち受ける。
グァアィイイイン!!
響いたのは、ドラゴンの牙と僕の剣がぶつかりあう、重い音。
「逃げましょう!!! 奥様!!!」
マチルダさんの声が聞こえた。
「え、ええぇえ!? 本当に!? 嘘ぉ!」
妻の悲鳴が聞こえた。
……よし。
慌てて二人が逃げていくのを、視界の端に確認した。
ふん。
そんなに慌てて逃げなくても、心配ないのに。
こいつは僕を標的にまっすぐに向かってきた。逃げる二人には目もくれない。わかっているのだ。目の前で剣を構えるこの僕が、全力で向かうべき相手だと。
人の背丈の、ゆうに二、三倍。その腕と足は丸太よりも太く、黒い鉤爪は長剣より長い。緑に輝く鱗は矢も槍も通さない。
最強の、魔物。ドラゴンだ。
「さあ、来い!」