薄闇夜の出会い
細く尖った月が、逢引きを促しているかのような薄暗い夜だった。
町を風が吹き抜けていく。
「いたぞー、西だ!」
風の通ったあとに男たちの声が響く。そしてたくさんの足音が続く。
誰にも聞こえなかったが、確かに舌打ちの音がした。
すると風はスピードを上げて、一直線に町の外へ向かう。
二重に張り巡らされている獣避けの柵を、ふわりふわりと飛び越える。
町を出ても止まることはない。さらにスピードを上げて森へと飛び込む。
木々の隙間を右へ左へ、器用にすり抜けていく。
しかし突然、小さな影が飛び出してきて、避ける間もなく衝突した。
「痛っ」
と声を上げたのは、小さな影の方であった。
風は大きくバランスを崩しながらも、地にも木にもぶつからず空中に静止した。
止まったところで風の主が姿を現す。
女性だ。黒い衣にとんがり帽子といういでたちの妙齢の女性が、箒に跨っている。
彼女は文句の一つも吐いてやろうと振り返って、目を見開いた。
「あんた、ゴブリンの癖に人の言葉を話せるのかい?」
緑色の肌をした魔物が、激痛に転がっている。
ゴブリンと言えば最弱クラスに分類される魔物だ。力も弱いし知能も低い。
それが痛いと繰り返しているだけにしても、言葉を発しているのだ。
緊急時だろうと驚きを隠せるものではない。
しかし、頭の片隅に冷静さの網を常に張っている彼女の目は、遠くに松明の炎が揺れているのを捉えていた。
再び舌打ちをすると、手を魔物の方に伸ばす。
強引に足を掴み、箒に跨らせる。
魔物の腰が箒に落ち着くのを待たずに、急発進して一気に加速する。
重量が増えた影響もなく、スピードをグングン増していく。
遠くに微かに見えていただけの松明の炎も、あっという間に見えなくなった。
森を抜けたところで高度を上げ、大空へ消えていった。
目を覚ました魔物が、最初に感じたのは柔らかさと暖かさだった。
ベッドも布団も知らない彼が、気持ちいいと感じたのは、生まれて初めてのことだったかもしれない。
「あぁ、目が覚めたんだね。良かった。痛いところはないかい?」
ぼんやりとした頭で、優しげな声を聞く。
痛いところと言われてなんとなく、何かに轢かれたことを思い出す。
無意識に利き腕のことが一番気になったのか、仰向けのまま右腕を挙げてみる。
「う、うわぁ、俺の腕が!」
腕とともに浮き上がる布団を見て、魔物は思わず声をあげた。
自分の腕が何か得体の知れない柔らかいものに変わったと思ったのだ。
「バカだねぇ。布団かぶってるだけじゃないか。落ち着きなよ」
もう一度優しい声が聞こえたと思うと、手が伸びてきて布団をめくり上げる。
その下から自分の上半身が姿を現し、ほっとして身体を起こす。
「なんで人間が?」
身体を起こすと目の前に声の主が見えた。
何もかもわからなかったが、口を出た質問はまずそれだった。
「私はフーリエ。あんたは?名前とかある?」
「名前?俺はゴブリン」
「それは種族としての呼び名でしょ。個体としてのあんたの呼び名は?」
「個体?俺は俺。そしてゴブリン。それ以外にはない」
フーリエは浅く溜息を吐いた。
少しがっかりしたが、予想していたことではあった。
それに何より会話が成立している興奮。
自分のことを俺って言ってる!!などと叫びたいのを我慢していた。
そういう全てをひっくるめた小さな溜息だった。
「ないと不便だろ。私は人間だが、おい人間なんて呼ばれても、無視するぞ。誰のことを呼んでるかわからんからな。
あんたも同じ。ゴブリンなんて山ほどいるんだから、ちゃんと区別した方がいい」
ゴブリンの頭は少し混乱していた。
彼の疑問は何一つ解決していないのに、よくわからない新たな提案をされているのだ。
「じゃあ、私がつけてやろう。ブルなんてどうだ?」
その呼び方にではなく、名前というものがまだピンときていないゴブリンは無言のままだ。
それを勝手に肯定と受け取って、フーリエは話を続ける。
「よし、決まりだ。今からお前はブルだ」
「ブル、俺」
そう呟いた彼を見て、フーリエは満面の笑顔を浮かべた。
「さて、状況を整理しないとあんたも不安だろ、ブル」
フーリエはわざわざ名前を呼んだ。定着するまでは多少必要以上に呼んでやるつもりだ。
ブルは違和感を感じる余裕もなく首肯した。
「私がちょいと急ぎ目で森の中を飛んでいたら、あんたが突然飛び出して来たのさ。それで、避ける暇もなくドーン!
そのことは悪かったと思ってるよ。で、あんたがものすごく痛がってたから、そのまま死なれでもしたら気分悪いと
思って、私の家に連れてきたってわけ。とりあえず大した怪我はなさそうで一安心だな」
ゆっくりと頷き、うーんなどと言っているブルの仕草は人間と大差ない。
彼はほとんどの事情を飲みこんだ。
「飛んでたって?」
ブルは鳥や虫以外に空を飛ぶ生き物を見たことがなかった。
目の前の人間が、羽も生えていないのに飛ぶなんて、とても理解できない。
「ん?あぁ、私魔女だから。ほら」
フーリエはそういうと傍に立てかけてあった箒に手を伸ばし、箒を空中に浮かせてみせた。
「一人前の魔女は箒で空を飛ぶもんだよ」
そして箒に跨り、部屋の中をゆっくりと飛び回る。
大きく口を開いたまま、首を一生懸命動かして彼女の動きを追うブルの様子は、人間でなくても興奮しているとわかる。
「良かったらあんた、私の弟子になるかい?弟子はとらない主義だけど、今はちょっと力が必要になりそうだし、あんた面白いし」
魔女という職業柄、魔の力に接する時間が長い。その経験から、魔物と言っても全てが悪とは限らないと考えている。
ましてやブルとは話し合うことができる。ここまでのやりとりと、彼の様子から弟子にしてもいいかもしれないと思ったのだ。
「弟子?」
「そう。食料を調達したり、掃除したり、色々手伝ってもらう代わりに魔法を教えてあげようってこと」
その言葉にブルの顔色が変わった。緑色からビリジアンぐらいにはなっただろうか。
フーリエは顔色の変化には気付かなかったが、嬉しそうな表情ははっきりとわかり、彼女の表情も自然と緩んだ。
「魔法を・・・。俺、弟子になる」
そう言って目を輝かせているブルからは、魔法を使って悪事を働こうというような感じも受けない。
純粋に魔法に興味を示しているという表情だ。
それを見てフーリエの中で、ゴーサインを出していいという確信が生まれた。
「よし、いい返事だ。明日から魔法だけじゃなくて、色んなことを教えてやる。しっかりついてきな」
「おー」
こうして、世にも珍しい美女と魔物の師弟が誕生したのだった。