カレー大好き桜子さん――新宿三丁目 雑居ビル地下のスープカリー
新宿は三丁目が好きだ。美味しいものが一番集まっているからである。
いやいやそこはゴールデン街だ、とか、思い出横丁にこそ真の美食がある、とか、反論する人はそれぞれだろう。だが、扇桜子にとって、新宿における食の聖地とは三丁目なのだ。
この日、桜子は主人を送るでもなく、一人で新宿まで来ていた。ちょいとした業務の一環で、永田町まで出る用事があったのだ。本来は彼女の雇い主が果たすべき用事だったのだが、彼はあいにくの多忙で、メイドの桜子がメッセンジャーを務めることになった。
業務は滞りなく終わり、今は新宿をぶらついている。もちろんメイド服でだ。
いかにも降り出しそうな曇天。梅雨らしい空模様ではあるが、まだカサは要らなそうだ。
「はて、何を食べようかしら」
そんな一人ごとが、口をつく。
三丁目をぶらついていた桜子は、明治通りのあたりまで出てきてしまっていた。右手側にはビルの合間から、巨大な鉛筆のようなドコモタワーが、その威容を聳え立たせている。
このまま、明治通りを左に曲がっても良い。引き返して新宿通りの方まで出ても良い。あっちには中村屋がある。いや、そこまで戻るなら、紀伊国屋の裏手側から、隠れ家的な名店であるガンジーを訪れるのも良い。
「(って、結局カレーばっかりだ)」
桜子は自分の頭を小突いた。
「たまにはカレー以外のものも食べないと……」
前に進むなら、焼肉の長春館が選択肢にあがってくる。創業60年を超える老舗中の老舗だ。比較的リーズナブルな値段で、本格的な炭火焼肉を楽しめる。
少し歩くが、歌舞伎町方面まで下って、四川料理の川香苑というのも、悪くはない。
気取った店ばかりでなくともよい。そっちに向かうなら、富士そばというチョイスだってある。
それともここは、ラーメンを食べに行くべきかしら?
もしここに桜子の主人がいれば、『桜子さん、さっきから脂っこい選択肢ばかりだね』と言ったことだろう。
こと、食に関して、迷おうと思えばいくらでも迷えるのが新宿だ。
くるりと桜子が振り返る。チェーン店で良いのなら、それこそこの辺にも良い店はたくさんある。
たとえばそう、そこにあるゴリラの看板が印象的な……。
「ゴーゴーカレー……」
またカレーである。くぅ、と桜子の腹が鳴った。
「(ああ、まずい……。お腹が、カレーに合わせて調整されている……。カレーナイズされている……)」
身も心もターメリックに支配されていく。桜子は腹の虫を諌めた。
確かに気持ちはカレーに傾いている。そして、ゴーゴーカレーは美味い。
だが湿度と不快指数の高いこの今、金沢カレーの濃厚でどろりとしたルーは、少しばかり、重い。おまけに桜子は、ゴーゴーカレーにいったら必ずトッピングてんこ盛りの“メジャーカレー”を頼んでしまうのだ。これは良くない。
「(桜子、屈しちゃダメ。きっともっと、ベストなチョイスがあるはず……!)」
桜子は腰に手をあて、ぐるりと周囲を見回した。
そして、視界にふと入ってきた単語がひとつ。
そこには、『札幌スープカリー専門店』とあった。
ご当地カレーという概念が存在する。インドカレーでも、欧風カレーでもない。日本各地の文化に根差した独特のカレーだ。ゴーゴーカレーだって、典型的な金沢カレーの一種である。
スープカレーと言えば札幌だ。汁気の多い、さらさらとしたカレー。今の季節にはぴったりと言えよう。桜子はこの際、またカレーであるという事実には目を瞑ることにした。
その店は、雑居ビルの地下にあるらしい。桜子はうきうきとした気持ちでエレベーターのボタンを押した。
店をカレーに決めた途端、全身が実家に帰ったかのような安心感、充足感を得られたのだ。口では何と言おうと身体は正直である。桜子の肉体はカレーを欲していた。
エレベーターが地下に到着したその瞬間、桜子は思わず声をあげた。
「うわっ」
ごちゃっ。
やけに狭苦しい通路が、開いたエレベーターの前にはあった。
右手にも左手にも、手狭な床には荷物が敷き詰められている。厨房のほのかな温度は、どうやら右側から漂ってきているらしい。果たしてどちらに進むのが正解かしら、と一瞬躊躇する桜子だが、左側に店の名前が入ったマットを見つけて、安堵する。
「うわー、狭いなー……」
身体を横にしたまま、カニ歩きで通路を進んでいく。桜子が扉に手をかけると、中から元気な声が聞こえてきた。
「いらっしゃいませー!」
店内には意外と、女性客の姿が多い。昼休み中の会社員だろうか。桜子は、店員に案内されるまま、手前の席にゆっくりと腰を下ろした、
カウンター席の前にはディスプレイが置かれ、トゥーンアニメが流れている。良い雰囲気の店だ、と桜子は思った。
まぁまずはメニューだ。注文だ。
「どれどれ……。むっ」
桜子は目を見張った。まずメニューの左側を席巻する写真の数々。スープカレーの上に載ったカラフルな具材。
チキンスープカレーやポークスープカレーなど、カレーの種類は多彩だ。ざっと見て10種類以上。加えて、ルーの種類をベーシックな黄やトマトベースの赤など5種類から選べ、さらに辛さは10段階。そこに20種類近いトッピングを選択できる。
「(すきっ腹のカレー好きに、これは……残酷だ……)」
口の中に溜まってきた唾を、ごくんと飲み込んだ。こんなの迷うに決まっている。
「(待って……!? ルーには更に+100円でエビスープを追加可能……!?)」
桜子はだいたい、最初に入った店ではベーシックなカレーを頼むと決めている。下手にごちゃごちゃと、トッピングを載せるべきではないのだ。特に温泉卵など、ルーの味に手を加えかねないものは厳禁である。
そのセオリーに乗っ取るのならば、ここはスタンダードとうたわれている黄色スープをメインに頼むべきだ。
だが、だがしかし、ここに立ちはだかる“エビスープ”という強大な壁! インドにはプローンマサラというカレーがある。プロンとはエビのことであり、カレーの中に潜むこのぷりっぷりの感触が桜子の心を奪ったまま離さない。もちろん、ルーにはエビの出汁が出ているのであり。
そう、エビの出汁がカレースパイスに合うことは、あのプローンマサラが証明している! しかしエビスープを混ぜるのであれば、ルーのベストチョイスは黄色ではない。
コクたっぷりの黒? あるいは豆乳ベースの白? いずれも違う。桜子の見立てでは、エビスープにバッチリとハマるのは、あっさり味のトマトベーススープ、“赤”だ!
トマトベースの赤色ルーに、エビスープ! 考えただけで涎が止まらない!
「(美味しい……! 絶対美味しい……!)」
しかし、初めて入ったお店なのだ。しのごの言わず、まずはスタンダードな味わいを楽しむべきだ。
「(る、ルーのことはしばらく置いておこう……)」
他に決めるべきことはたくさんある。カレーの種類とか、辛さとか、トッピングとか。
辛さは1だ。まずはその店が一番提供したい辛さを堪能する。辛いのが苦手な人のために、更に10段階辛さをマイナスできるらしいが、かといって極端に辛いカレー、というわけでもないだろう。
問題は種類とトッピングである。桜子はメニューを開いたまま、口元に手をやって真剣に吟味する。
ひき肉とチーズ、ひき肉とコーン、ひき肉と納豆、ベーコン、ベーコンキャベツ。
カレーの種類はどうやら、具材をある程度決め打ちできる要素らしい。だが、ここに書かれている具材の多くは、トッピングで追加可能だ。
ともなれば、ここもあまり、迷う要素ではない。メニューの左上に書かれたチキンスープカレー。これでいこう。チキンは骨付きと骨なしが選べるらしい。これはかなり迷った。骨付きは食べにくそうなのだ。だが、写真に写っているのは骨付きの方なので、こちらにしようと心の中で決める。
あとはトッピングだが……。
「あ、すいません」
隣の席で、会社員と思しき女性が手を挙げていた。
「ひき肉とコーンのカレーで、ルーは白、辛さは普通の……」
よどみない注文の仕方だ。頭の中で正解への道筋ができている。
だが、ここでじっと見ていたのが良くなかった。注文の用意ができたのかと勘違いした店員が、伝票を持ったままこっちにも来てしまったのだ。
「あ、え、あ、えっと」
まだトッピングで悩んでいるどころか、ルーも決めきれていなかった桜子は、慌ててメニューに視線を落とす。
「申し訳ありません、まだでしたか?」
「い、いえっ! 注文します!」
ああ、バカ。桜子は自分を叱責する。こんなタイミングで注文をはじめてどうするの。
「チキンスープカレー、えぇっと、骨付きで。スープは……赤のエビスープ、あと辛さは普通で……」
言ってしまった。いきなり王道から横道に逸れたルーを頼んでしまった……。
だがここまでくれば、止まることはできない。桜子はメニューを見ながら、トッピングの注文を開始する。
「えぇと、ジャガイモ、ナス、たまご……」
「ジャガイモ、ナス、たまごは元から入っていますがよろしいですか?」
「えっ、そうなんですか!? えっあ、えっと、じゃあ……」
まったくスタイリッシュではない注文の仕方だ。桜子は恥ずかしさのあまり、なかば自棄になる。
「フライドオニオンとフライドガーリック、山芋、えぇと、あと焼きチーズ! あとカボチャ!」
「カボチャは元から入っておりますがよろしいですか?」
「じゃあいいです!」
注文を復唱した店員が厨房の方に引っ込んでいくのを見送ることなく、桜子は両手で顔を覆った。
「桜子、あなたはバカよ……」
まだ注文が決まっていない内に勢いで頼むなど、この手の選択肢が豊富な店では決してしてはいけないことだ。
ルーとトッピングの相性も考えず、とりあえず美味しそうなのばかり頼んでしまった。それでも、おおかた外していないとは思うのだが。しかし山芋はどうだろう。桜子の見立てでは、カットされた山芋が入っているだけだと思うのだが、すりおろされて入っていては困る。ルーの味を阻害してしまう。
ついついテンパって、そこの確認も怠ってしまった。カレーとは、一期一会なのに……。
「先にライス失礼しまーす」
そう言って、店員は平たい皿に盛られたサフランライスを運んできた。
「(おや……?)」
桜子はそこで驚いた。ライスの上に、茶色く細やかな“何か”が載っている。それは、黄色い台座の上で、何やら香ばしい匂いを発していた。
「(へー、フライドオニオンはこっちにつくんだ)」
これは嬉しい配慮だ。フライドオニオンは、そのサクサクした食感も合わさってこそ楽しめるものである。スープカレーに入っていては、すぐにふやけてしまうだろう。
やや落ち込んだテンションは、少しばかり上向きになる。テーブルの上を確認する余裕がでてきた。お冷用のピッチャーはあるのだが、福神漬けが見当たらない。スープカレーにはあまり使わないものなのかしら、と、桜子は首を傾げた。
「お待たせしました。チキンスープカレーです」
店員が、深めのどんぶりに入ったカレーを、桜子のもとに運んでくる。
「(おおっ……!)」
桜子はその中身を覗き込んで、改めて感嘆を発した。
赤いスープの中には、大ぶりりな骨付きチキンがごろっと入っている。もちろんそれだけではない。にんじん、ナスの上から、フライドガーリックと香菜が散らされていた。そして、これまたせんべいのように大きな焼きチーズが、どんぶりの縁に身を寄せるようにして突き立っている。
これは、美味しそうだ。
というか、美味しい。美味しいと思って注文したのだ。そうでなくては、困る。
「いただきます」
思わずその一言が口から漏れ、桜子はスプーンを取った。まずはスープカレーをすくい、ライスはとらずにそのまま口に運ぶ。
「(うん、やっぱり美味しい!)」
期待を外さない、ベストなマッチング! 僅かな酸味を残したあっさり目の味わいと、エビスープのコクは反目し合わない! ルーの辛さ自体も控えめで、ちゃんと味を楽しめる。
2すくい目は、ちゃんとライスと一緒に口に運んだ。スープがじんわりとサフランライスに染み込むが、その上に載せたフライドオニオンまでは到達しない。絶妙な食感のまま、頬張る!
ああ、これこれ。これだ。これこそが、求めていた今日のカレーだ。
勢いに任せた注文は、間違いではなかったのだ。
さらに嬉しかったのは、骨付きチキンをスプーンで突っつくと、肉の筋に合わせるようにして、肉がばらばらと解けていったことだ。綺麗に肉の剥がれた骨が、そこから顔を覗かせる。骨に残った肉を齧りとるために、みっともない真似をしなくて済む。
味も申し分ない。わずかに塩味が効いているので飽きが来ないし、それにしても自己主張は控えめなので、安心してスープを楽しめる。ナスやにんじん、カボチャにしても同じことだ。
山芋はやや厚めにスライスされた状態でそのまま入っていた。シャクリとした食感が、これもさらさらしたスープカレーのあっさりさとよく合う。
そして何より焼きチーズだ。骨付きチキン同様の存在感を放つそれを見ていると、居酒屋で頼んだスープにお焦げが入っていたときのことを思い出す。
箸をとって、焼きチーズをつまみ上げる。スープに浸かっていた下の方は、思っていたほどふやけてはいない。口に運ぶと、サクリとしたスナックのような食感と共に、チーズの甘さとスープの味わいが広がって行く。
「はぁ~……ん」
思わずうっとりして、頬に手をあててしまった。
なんて幸せなスープカレー。しかし、忘れてはいけない。これはあくまで、この店のスタンダードではない。
カブトではなくガタック。電王ではなくてゼロノス。そういったポジションのカレーだ。この店の真髄を味わい尽くすためには、主役カレーを食べなければお話しにならない。つまり、ベーシックな黄色のカレーだ。
だが、それは今でなくとも良いだろう。
今はこの名バイプレイヤー、あるいは第二の主役とも言うべき赤のエビスープを、すべてを忘れて味わおう。
桜子は、数分前の己の選択に感謝をしながら、もう一度焼きチーズをかじった。
このカレー屋さんのすぐ近くにインドカレーの名店があることを後日知りました。