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「結美」・「成美」

 そうだった。思い出した。「結美」という名前は、私の本当の名前だ。戸籍上の名前と言ってもいい。家庭や学校では、「結美」「結美ちゃん」と呼ばれていた。

 いつからだろう。自分の中で意識的にか無意識にか、入れ替えていたのだ。「結美」と「成美」という二人の女性を―

 本来の正確は「結美」だった。大人しく従順で自己主張が上手くできない性格だった。明るく真面目で人当たりがよかった。誰にでも優しく、自己犠牲ももしかしたら厭わない性格だった。父に殴られても、物言わず生活してきた。父の要求のままに勉学に励み、好成績を取り続けた。ほのぼのとした本や映画を好み、淡い色合いの服を好んだ。膝丈のフレアスカートや上品なブラウスやジャケットを好んで着る。

 そんな「結美」が虐待、いじめを受け、どこかで自分を否定するようになったのだ。

 自分がこんな性格だから父親に殴られるのだ、抱き上げてもらえないのだ、褒めてもらえないのだ、捨てられたのだ―こんな性格だから、こんな人間だから誰も助けてはくれなかったのだ、旧友に裏切られたのだ、教師にも無視されたのだ、級友に無視されたのだ、写真にすら残してもらえなかったのだ―

 自分の生活していた狭い世界では「自分」しか見つめる余裕がなかった。あの頃の私の世界は家庭と学校だけだった。その二つに居場所がなかった。相談相手も、頼りになる相手もいなかった。

 いや―助けてくれるのは、助けてくれたのは一人いた。「わたし」だった。

 「私」の現状のことなら「わたし」が一番よく知っている。ただ―聞いてほしかった。だから、「相談者」が必要だった。


 いつからだろうか。「私は大丈夫」。この言葉を口癖のように言い出した頃からだろうか。そう、「大丈夫」だった。「相談者」がいたからだ。

 いつの間にか、自分で勝手に作り出したのだろう。「成美」という女性を―

 「成美」は気が強く、自立しており、粘り強く、打たれ強く、逞しく生きていける性格だった。メイクや服装も黒を基調としたファッションで、他者からの影響や干渉を受けない―そんな人だった。

 私―結美が憧れていた性格を持った人が成美だった。私が生まれ変わりたかった人生を歩める人が成美だった。成美のような性格だったら、こんなにも傷つかなかったかもしれない、父からの暴力にも負けなかったかもしれない、学校を思い切って辞めてしまう勇気が持てたかもしれない―堂々巡りの思考回路から次第に完全な自己否定に陥ってしまったのだ。

 自分を嫌い、憎み、消し去りたかった。自分という器そのものが煩わしかった。だからこそ―「成美」を誕生させた。「結美」としての生活が「成美」であれば良いと願いに願った結果だった。

 「結美」が築いていくはずの生活―未来を「成美」として生きたかった。独りでも強く、逞しく、堂々と生きたかった。

 しかし、どこかで私―「結美」という人間が誰かの記憶に残ってほしい。誰かと同じ空間に存在してみたい。誰かの支えになってみたいと願った。結美という自分を誰かの姉あるいは母のような存在として成り代りたかった。

 かつて散々、徹底的に無視され存在を否定され続けた結果なのだろうか。父親にすら見てもらえず、虐待を受けた結果だろうか。誰か一人でもいい。誰かにとってかけがえのない存在になってみたかった。

 自分の中で辻褄を合わせたかった。そのために、作り出した「成美」がいじめを受けた、虐待を受けたという過去に作り直した。自分の忌々しい過去を第二の自分・成美に押し付けたのだ。そうすることでいじめや虐待を受けた成美に寄り添い、支える結美を演出できたのだ。これでなんとしても胸の悪くなる記憶をすり替えてしまいたかった。

 そうすることしか思い浮かばなかった。



 ひとしきり笑い終わり、父に視線を戻す。血塗れになったスーツに目を落とす。しばらく父に構っていなかったので、父はやや冷静さを取り戻したようだ。立ち上がれはしないものの、私を気丈に睨み返している。

 この相手を蔑むような色、貶めようとする色、自分と一線を引こうとする色―

 あぁ、この色―この目だ。

 私の大嫌いなこの「目」―

 高校でも散々浴びてきたこの目。何故この高校に存在しているんだと問い質されているような目。

 この目さえなければ―

 私はナイフに持ち替え、ことさらゆっくりと父に近づいた。手に光るナイフを見て父は突然後ずさり出した。足を負傷しているため、満足に動くことができない。そのことがさらに彼を追い詰める。父の脇にしゃがみこむ。怪我をしていない方の手で私を押し退けようとする。張り手のように向かって来た手に対して素早く垂直にナイフを構える。見事に手の平が、ナイフにまっすぐに向かい、串刺しになった。彼の目には、自分の手の甲からナイフの切っ先が生えているように見えることだろう。

 言うなれば自分の行動の結果なのだが、彼の絶叫は凄まじかった。ものすごい力で身を引こうとする。その力でナイフが持っていかれそうになるが、両手で握り締めた。嫌な音がして父の手の平からナイフが抜けた。ナイフが抜けたことで、出血が増した。恐怖も倍増されたのだろう、転げまわって苦しんでいる。

 肩の辺りを蹴飛ばし、倒れ込んだ父に馬乗りになり、仰向けに寝かせた。膝や足を使って彼の手を抑えて組み伏せた。

 ナイフを持ち直し、父の左目の下瞼に切っ先を当てた。彼はギャーギャーと喚いているが、もうその悲鳴も快感に変わりつつあった。

 ―これまでの狩りでもそうだった。

 悲鳴を聞きたいわけではなく、私の作業に対する反応が聞きたかったのだ。

 もしかしたら、私が行なってきた狩りの目的は、復讐もあっただろうが、単に復讐だけならば、あんなにもいたぶるようなことはしなかっただろう。復讐だけが目的ならば、斧で首を切断してもよかったのだから。

 おそらくそうなのだ。反応がほしかったのだ―

 彼の左目下瞼に当てたナイフをそのまま上へとスライドさせた。ギュッと閉じられた上下の瞼の間を縫うようにナイフが滑り込んでいく。固く閉じられた瞼がナイフに持ち上げられ、目を逸らそうとしているのか、黒目が限界まで上を向いている。

 やや斜め方向に力を加える。

 初めは弾力のある球面にナイフが滑ったが、力を加えていくとまるでナタデココを刺しているような感触がした。(この目が…)眼球から、赤、透明、白濁…さまざまな液体が溢れ出した。(この色この目この色この目!)球体の中に詰まっていた液体が流れ出すと眼窩で眼球が萎んでいるようだ。父は、最大級の悲鳴を絞り出す。手は私に押さえられているから原形をなくした眼球を覆うことができず、駄々をこねる子どものように足をバタバタさせる。顔や上半身も左右に激しく揺さぶろうとするからナイフが思いもよらぬところに刺ってしまいそうだ。

 「ねぇねぇ。目にナイフ刺さったら痛いの?どんな感じなの?刺さったことないからわからないんだよね。ね。教えてよ」

 彼は呻いたり叫んだりで全く応えてくれない。

 両手を押さえつけていた足に力を加える。一旦彼から離れる。自由になった両手でなくなった左目を抉っているかのように顔に爪を立てて呻き続けている。

 ナイフの貫通した左手でなくなった左目を覆い、残った右目で私を睨みつけている。驚愕と絶望、憎悪と恐怖。入り混じった視線が向けられる。―右目がなくなったら、見えないもんな…

 とりあえず右目はおいておこう。

 私は立って父を見下ろす。

 目を合わせたまま移動し、床に無造作に置いてあった斧を持つ。バットを持つように端をもち、床を引き摺って父の前まで戻ってくる。斧を持つ私を見て、彼の目から憎悪の色は消え失せた。そんな気迫も失せたのだろう。左目から手を離し、立ち上がるということを忘れたかのように越しを抜かしたまま、両手をついてぎこちなく逃げようとする。

 カッと目を開き、左足首に斧を振り下ろす。一瞬にして骨まで断ち切られた。足首から先のパーツは、主人を失い、あらぬ場所へ飛び、指先をわずかに痙攣させて動かなくなった。足首だけのパーツと本体からはおびただしい血が流れ出し、赤い水たまりを作っている。

 まだそんな元気があったのかと思うほどの絶叫が喉から絞り出される。

 私の側からは、肉の断面図、骨の断面図、血管や筋肉がぐちゃぐちゃと絡み合ったおぞましいものがよく見える。

 ―あれ?あぁ、もうあの頭の違和感がない…

 あの「何かを忘れているような」違和感は、父の悲鳴、叫び、呻きを聞く度…父の体から赤い血が流れ出すのを見る度にまるで効果音が実際にスピーカーから流されているのではないかと思うくらいにスーッ…と消えていったことに気付いた。

 やっと解放された。「私」と「わたし」のアンバランスから。

 「結美」と「成美」の奇妙な一致と不一致から。

 不可思議な「結美」の二重生活から。

 「成美」との、あのマンションでの暮らしは楽しかった。共に食事をし、買い物に行き、どうでもいいような話をし合い、酒を飲み珈琲を飲み…


 あぁ―私は、こんなにも弱い人間だったのか。

 架空人物と暮らしたいほどに…


父の姿がやけにぼやけて見える。いつの間にか涙が溢れていた。

 何故泣く必要があるのだろう。何に対して泣いているのだろう。

 流れる涙と比例するように、彼への憎しみ、憤り、恨みがまた膨れあがってきた。父は、私などには目もくれず、左右で長さの変わった足にバランスを崩しながらも後ずさる。いつしか私から思ったより離れてしまった。離れたといっても、所詮この地下室内だ。どこへも行けはしない。

 右手に斧、左手に拳銃を持って父に近づく。か細い女のような悲鳴をあげ、後ずさる速度をあげる。左手の拳銃を構え、父の右膝を正確に撃つ。膝蓋骨いわゆる「膝の皿」が砕けた。曲げたり伸ばしたりができなくなったのだろう。足を使っての後ずさりもできなくなり、這っての移動になったが、「移動」というよりは、単なる「蠢き」だった。まるで芋虫のようにその場でうねうねとうねっているようだ。

 充分与えられただろうか。死への恐怖や過去への後悔、未来への絶望や生への執着、そして、自分の力ではどうしようもできないという無力感を―

 父の息は荒いが小さくなってきた。もうすぐ死ぬだろうか。

 あぁ―父も人間だったのだな…

 父も体を銃で撃ち抜かれたら痛みに悶え、ナイフが手を貫通すれば悲鳴を上げ、足首というパーツを失えば狂人となる。

 今までの獲物と何一つ変わらない。

 軽い失望と共に、安堵、達成感…ある種の燃え尽き症候群のような感覚に襲われた。

 対象者全員への復讐を終えた―はずだ。

      動物―小さな―

      お…さん……

 頭の中で光が弾け飛んだ。アメーバのように形の定まらない光の集合体が一気に増殖し、頭を覆い尽くした。脳漿が溢れ出すようだ。脳が膨れ上がるようだ。自然に笑いが込み上げる。私もどこか調子の狂った笑いを漏らしていた。

 全てが鮮明に脳裏に写し出された。もし、これが私の臨終の瞬間であれば走馬灯とでも言うのだろうか。まるで八ミリフィルムを映写機にかけて映画を観ているように、今まで忘れていた全てのシーンの断片が思い起こされた。そして―その思い出した全てのシーンの意味を第三者の視点に立って見ているようだ。

 私が私の過去の行動を客観的に見つめている―と言えばいいだろうか。

 父の屍を目の前に、床に座り込んで目は床あるいは壁の向こう側を見つめる。焦点が合わず、瞬きもできなかった。

 脳の思考回路が完全に停止してしまったようだ。世界全体の時間が止まったかのようだ。時計を見れば、針はちゃんと動いてはいるから、時間は確実に過ぎていくのだが、それに自分だけ取り残された気分になった。

 血塗れの死体の前で考え続けた。

 結局私は何をしたかったのだろう。

 復讐をした後、何をしたかったのだろう。復讐をしてよかったのだろうか。これから私はどうなるのだろう。

 私は―つまるところ「普通」に暮らしたかったのか?

 高校のことを忘れ、父のことを忘れ、父の新しい妻や娘のことを知らぬまま―

 ね。成美―

 成美、もう家に帰ってきたかな。

 ねぇ成美、きょうの晩ご飯なににする?なんだか今日は気分がいいから、料理頑張るよ。なにかリクエストある?

 成美、お酒作るの上手だから、夜、なにかカクテル作ってよ。楽しみにしてるよ。

 成美―私、どうしたんだろ。涙出てきたよ。止まらないなぁ。ねぇ成美。私今日ちょっと遅くなるかもしれない。久しぶりにね、父さんに会ったの。父さんね、今新しい奥さんとその娘さんと暮らしてるからもう会えないかもしれないから、今日が最後だと思う。

 それでね成美、私、成美に言ってなかったことがあった。

 私が昔父に殴られたりしてたってことは言ったよね。それが何年も何年も続いて、多分私、どこかが壊れちゃったんだと思う。殴られるだけの生活が嫌になったんだと思う。自分より弱いものをずっと探してたんだ。

 ―犬って、人間によく懐くでしょ?昔住んでた家の近くに野良犬がよく来てたの。それでね、その中でも一番小さな犬―チワワだったかなダックスフンドだったかな?その子をね、殺しちゃったの。最初はおもちゃとかで遊んでいたんだよ。でもね、一回その犬に引っ掻かれたことがあったの。そのときにね、父さんの顔が思い浮かんだの。父さんが私にしていたように殴ったり、棒で叩いたり、お湯をかけたりしちゃったの。そうするとね、虐待を受けているのは私だけじゃないって思って安心できたの。最低だね私って。大嫌いだった父さんに似たのかな?それも嫌だけど…

 犬をいじめているときね、当然犬は鳴くでしょ?そうしたら、私のことに気付いてくれてるって思えたの。母さんもね、父さんに従ってばっかりで助けてくれなかったんだ。母さんにとって私は透明人間だったんだ。

 母さんにだけは私を見てほしかったんだ。私のことを見てほしかったんだ。それが望めないって理解できたのは、案外早かったな。中学生かもしれない。いじめは高校生の頃だけど、両親のことは、中学生のときにはもう気付いてたんだ。でもね、まだまだ期待してたみたい。頑張れば見てもらえるって…

 成美…驚いた?私がこんな人だって知ってどう思う?一緒には暮らせないって思うかな…

 それはそれで仕方ないって思う。でも、嘘は吐いてないよ。

 成美―楽しかったよ。一緒にご飯を食べて、作って、お買い物に行って、ランチして、お酒飲んでお喋りして…

 今までにやってみたかったことが、成美とできたんだ。

 私、成美といたときね、嫌なこと思い出したりしなかったの。成美のおかげだよ。成美は強くて、逞しくて、かっこよくって…私、成美みたいになりたかったの。だから成美といると、自分も強くなれた気がしたんだ。


 成美―ありがとう。

 さ よ な ら ―

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