最後の獲物―
この頃、結美の職場が忙しいようだ。新しい店舗を開店させたらしく、新人社員やパートスタッフの研修や準備に駆り出されているらしい。朝には会えるのだが、夜はなかなか会えなくなった。
ある夜、一人で夕食を摂っていた。一人だったので、白米と味噌汁と野菜の煮物だけ作って、黙々と食べていたら、結美が突然帰ってきた。(今日は遅くなるって言ってたのに…)廊下をのそのそと歩いてくる。両手をだらりと下げ、酔っているのかのようにふらふらとして、顔も床しか見ていないようだ。体調でも悪いのかと思い、どうしたの、大丈夫?と尋ねた。結美は立ち止まり、ゆらりと私の顔を認めると、子どものように首を傾げた。そして―
「成美…あなたは誰…?私の名前は…?」
と弱々しくしかしはっきりと聞こえる低い声だった。
「結美?何言ってるの?結美っ?」
「成美」と、はっきりと私の名前を呼べているのに「あなたは誰?」とはどういうことだろう?「私は誰?」も意味がわからない。
…よっぽど疲れているのか?いや、いくら疲れていても自分が誰かわからないなんてことは有り得るのだろうか。病院に連れていった方がいいのだろうか?
「ね、結美。もう寝よ?ゆっくり寝て、明日考えよ?」
今なら、結美のためにできることなら何でもしてやりたい。今まで結美は母あるいは姉のような存在だった。結美も妹のように可愛がってくれていたのだ。
結美はふらふらと部屋に入っていく。ドアの手前で立ち止まり、
「私が…私が……してあげたの」
と呟いた。
翌朝、結美はなかなか部屋から出て来なかった。
朝十時になっても起き出してくる様子はない。いつもの結美は、遅くても八時には起きて、新聞を取り、珈琲を飲みながら読むのがいつものことなのに…
さすがに遅すぎると思い、結美の部屋をノックした。が、反応はない。悪いなと思いつつ、そっとドアを開けあまりの光景に呆然となった。
結美の姿がないのだ。ベッドも使った形跡もない。それどころか女性ならば大半の人が毎日使っていそうな化粧水や乳液、ヘアアイロンやカーラー、化粧品や小物といったものが見当たらないのだ。なにやら恐ろしくなり、三面クローゼットの二面を勢いよく開けた。クローゼットには、いつも結美が着ているような上品なブラウスやジャケット、スカートがきれいにハンガーに掛けられている。クローゼットの下部にプラスチックの引き出しがあり、その中に下着やTシャツなどがきちんと畳んで入れてある。特に少なくなったという印象はない。
残りの一面のクローゼットを開ける。ここにはカバンや帽子、ストールなどの小物がしまってある。カバンも無くなっているものはない。大きなスーツケースもあるしボストンバッグもある。結美が夜中にこっそり出ていったということはなさそうだ。
では、結美はどこに行ったのだろう?
いつ結美が帰ってきてもいいように、掃除をし、食事を作っておいた。しかし、一向に帰ってくる気配がない。携帯に電話やメールを送ったが返信はない。
何か事故か事件にでも巻き込まれたのか…?
そして―結美がいないとわかってから数日経った頃、タイミングが悪いとも思うが、ついに見つけた。
最後の獲物を見つけた。ずっとずっと探し続けていた獲物だ。何年も前に私の前から姿を消した。一時は生死すらもわからなかった。
五人目の獲物を見つけてからというもの、必死になって獲物の現在の状況を調べた。この時は、音信不通の結美のことも当然気になっていた。しかし、狩ることを優先しようと決めた。
獲物は今年五十一歳になる。二十四歳年下の妻と、三歳になる娘の三人暮らしだ。都心の高級住宅街に四年前、この二十四歳年下の妻と入籍したときに家を建てている。高級外車に乗り、毎週日曜日は家族を連れてドライブに行ったり、家で子どもと遊んだりと、家族サービスに撤しているようだ。職場は、某有名外資系企業の重役だ。どうやら、あれから職も変わったようだが、この妻がその外資系企業社長の令嬢のようだ。お見合いパーティーで知り合い、交際を経て、社長に気に入られて最短ルートで出世したようだ。
以前のような、妻を溺愛するあまり、娘に暴力を振るっている様子はなさそうだ。娘―子どもは自分から妻を奪ったという馬鹿げた思考はなくなったように見える。娘をアクセサリーのようには扱っていない。周りの子どもより優れているか否か―そんなことには関心がないと見て間違いなさそうだ。自分の子どもは、ただ愛する。そんなところだろう。今では自分の妻を、娘を愛している―良き夫、良き父親に映る。
この、絵に描いたような善良な初老の男性。
私の父だ―
五人目の最後の獲物は、私の父親だ。
(思い出したでしょ?)
(結びついたでしょ?)
―お…さん…?
獲物のことを考えると、いつも例の頭の違和感に襲われた。
なぜだ?父のことを忘れていたわけではない…はずだ。
(随分時間がかかったね)
父の姿をあの日―結美とレストランでランチをしたあの日、渋滞に巻き込まれたときに犬を連れた家族を見た。あの初老の男性が父だった(はず)。何故か初めはあの男性と父が結びつかなかった。
私の記憶の中の父と、車から見た男性は「別人」だった。私はあんな風に父に抱かれたことなどないのではないだろうか。私とさして年の変わらない女―妻?恋人?
母を捨て、私を捨てた男が今、あんなにも幸せそうに笑っている。
それだけで充分だ。
―殺す理由には。
父は、ほぼ毎日決まった時間に帰宅する。午後七時半。私が彼のことを調べ出してからというもの、遅い日は何度かあったが、これより早く帰宅したことはない。朝は八時に車で出勤する。彼の自宅から職場まで車で三十分というところか。高級外車のため、街中でもよく目立つ。尾行には最も向いていない車種だろうが、こちらが尾行するにはもってこいの車だ。
平日も、職場以外のところに行くこともない。家に帰ってきてから出かけるようなこともない。休日は、大体家族サービスもしくは、会社の人間とゴルフに出かける。出張のようなものもほぼないと言っていいだろう。今までの獲物の中で一番行動パターンがわかりやすい人間だ。
二十七歳の妻は専業主婦のようだ。肩甲骨あたりまで伸ばした髪を赤みが強い茶色に染め、緩く巻いている。二十七歳という年齢の割りに落ち着いたファッションだ。決して地味ではないが、年相応の服装であれば、もっと若く見えそうだ。子どもがまだ小さいということもあってか、習い事にも通っていない。子どもを週に二日ほど、プレ幼稚園に通わせていてその間、母親同士で喫茶店などで時間をつぶしている。その後に、スーパーやデパートに買い物に行く。子どもには洒落た服を着せ、ブランド物の服を多く買っている。
出来合いの惣菜などは買わないようだ。毎日夫に手作りの弁当を持たせている。
三歳になる子どもは、いつも可愛らしい服を着せてもらっている。父親が帰宅し、チャイムを鳴らすと母親と常に一緒に出迎え、抱き上げてもらうと、嬉しくてたまらないといったように笑っている。この年頃の女の子は、父親が大好きなのが普通なのだ。抱き上げる父親も嬉しそうな顔をしている。子どもは、毎日のように母親と買い物に行く。聞き分けの良い子のようで、泣き喚くようなことはない。両親の自慢の子どものようだ。
この子は私の腹違いの妹にあたるのか―。
一人っ子だった私は、年下の子と接する機会がなかった。もし、こんな形で見つけていなければ…そう思ったことも何度かあったものだ。
しかし―そんなことは言っていられない。
やっと招くことができた。この日のために、あの地下室をきれいに掃除してあったのだ。客人を招くためにわざわざ階上からコンセントを引き、湯も沸かすこともできるようにしたのだ。
獲物は、昨日ここに来た。
いつものように車で帰宅するところを狙った。家の手前の信号で止まったときに運転席の窓をノックし、道を尋ねるふりをして窓を開けさせた。夜だから道がわからなくなったと言うと、疑いもせず「この辺は入りくんでてわかりにくいんですよ」とまで言った。どうやら私が娘とは気付いていないようだ。
顔を乗り出すや否や、私はポケットに忍ばせていたスタンガンを彼の首筋に当てた。彼のがっしりとした体が痙攣し、やがて動かなくなった。開いている窓から手を入れ後部座席のドアを解錠した。運転席のシートを倒しておき、後部座席のドアを開け私が中に入る。倒したシートの上を滑らせて彼を後ろに引っ張り上げる。これで運転席が空き、座れるようになった。
高級外車を運転し、あの山間部の地下室まで運び入れる。人通りがないと言ってもいいこの地域は本当にありがたい。
一階部分はずるずると手を引っぱっていけばよかったのだが、地下室にいくための階段は苦労した。起きて騒がれたら力では負けてしまう。最初にクロロホルムを嗅がせ、工事現場で砂の運び入れなどに使われる台車に彼を乗せ、階段の縁に車輪を引っ掛け、慎重に手前に引く力を加えながらゆっくりゆっくり降ろしていった。
なんとか地下室の床に彼を降ろすことができた。
いざというときのために、スタンガンを上着のポケットに入れておく。
床に横たわる獲物の顔を覗きこむ。
―こんな顔だっただろうか?こんな穏やかな顔つきだっただろうか?白髪の混じったロマンスグレー…そんな形容が似合う初老の男性―この男が私の父親―?いかにも高級そうなスリーピーススーツを見事に着こなし、口元に目立つ皺さえも紳士てきな雰囲気を醸し出すこの男が私の父親―?
しかし、似ていると言えば似ている。大きい目をはっきりとした二重瞼、高い鼻―やや日本人離れした顔立ち―確かに昔は父そっくりだと言われてきた。
父親の横に座り込み、しばらく顔を見ていた。二人きりになるのは何年ぶりだろうか。
私の高校でのトラブルがきっかけで失踪したとき以来だから…九年ぶりか。
九年という時間が、この男をこんなにまで変えたのか。何があったというのだ。今では妻を愛し、大切にする夫。娘を愛し、守る父親。九年前は独占欲が強く、プライドの高い夫。娘に嫉妬し、暴力を振るっていた父親。
私とあの三歳の女の子。何が違うのだ。母とあの二十四歳年下の妻。どこが違うのだ。何故私たちはあんな苦痛を与えられていたのに、今の母子はあんなにも恵まれているのだ。
あの若い妻が有名企業の社長令嬢だからか。あのわずか三歳の子どもがその子どもだからか。確かに私の母は「普通」の大学を卒業し、「普通」の中堅企業に就職し、共通の友人の紹介で父と知り合い、恋人同士となり、結婚した。そして二年後に私が生まれた。その私は、父の高い要求に応えようとした。成績でもトップを取ろうと勉強した。父に認めてもらいたかったのだ。褒めてもらいたかったのだ。けど、どんなに好成績を取っても、父が褒めてくれることは一度もなかった。父は母のことしか見ていなかった。そのことで母に嫉妬したりはしなかった。父に見てもらえない寂しさや不満他者に向けられることなく、ただただ自己に向けられた。自己否定を繰り返し、父に褒めてもらえないのは自分が「いけない子」だからだ。父は、自分とそっくりな男の子が欲しかったからだ。そういうふうに自分に無理矢理言い聞かせ、自分の環境を納得させようとしていた。
そんな幼少期を強いた男が、今目の前にいる。




