私、死んでもいいわ
初めまして、佐伯さんと申します。
現在、高校二年です。生涯二作目の作品となります。
趣味で書いている小説ですが、なんとか読んでみていただけたらと思います。
そして意見や感想や文句などいただけましたら本当にうれしいです。
「あれ? 大城君じゃない。どうしたの、こんなところで」
「いや、ちょっとね。大した用じゃないんだ」
それだけ言うと彼はすたすたと歩いて行ってしまった。どことなく逃げているようであった。
キーンコーンカーンコーン。
「はいそこまで。はい、そこペンを置きなさい。置け。それでは一番後ろの人から番号順になるように後ろから集めてきてください」
初老の教師が、そんなことを叫んでいる。あと五年で定年かと思われる男性教諭である。だがその必死で張り出している声も、生徒たちの安堵の溜息や歓声で打ち消される。
今日は、期末テストの最終日。そして今はその三時間目の終了。つまりは期末テストの終焉を告げるチャイムが鳴ったところだ。
七月もつい先日始まり、テスト中もお構い無しにアブラゼミとミンミンゼミとツクツクボウシが引っ切り無しに鳴いていた。おまけにそれらの音と誰かのくしゃみが折り重なり、ある種の交響曲を奏でていた。
非常に迷惑だった。
だがテストは終わっても今日の放課にはまだならない。しっかりこのあとも、七時間目まで授業が詰まっているのだ。
七時間目の授業は数Ⅱだった。なんかもう、さっぱりわからない。どうしてあの数式が円を表すのか。あれがわかるやつは、しっかり仕組みを理解してあの数式を使っているのか、はたまた暗記して訳も分からずつかいこなした気になっているのか、是非ともみんな後者であることを願う。
とそんなことを考えしいしい、トイレに向かう。
用を足していると、坊主がのびまくって少しいびつになった髪型の少し小太りのやつが入ってきた。
ポケットが異様に膨らんでいる。そのポケットではいかにもキャパテシーオーバーな何かが入っている。
何より歩き方が変だった。お尻を突き出すようにして、歩いてきた。よほど我慢していたのか。それとも腹痛いのか。
こいつ、名前何だったけかなぁ。
そしてその小太りは、個室に入った。
「ほっ、おう……」
俺から思わずそんな声が漏れた。ずっと我慢していたのだ。今の声、あいつに聞かれはしなかったか。
そして俺の下腹部のジョウロから水が涸れる前に小太りは個室から出て行ってすたすたと行ってしまった。水も流さず、手も洗わず。本来のトイレでの本分を果たしに来たのではなさそうだった。
それともかなり常識外れな非潔癖な人間なのか。どちらかだ。
それに奴は帰る時は歩き方が正常だった。当たり前か。
トイレから帰って机で帰る用意をしていると、誰か男が俺の机の前で立ち止まった。
「よう、諒。帰るべよ?」
俺は、顔を上げそいつの顔を一瞥することもなく話しかけた。放課後に俺に寄って来るやつなどそう多くはない。
彼は、かぶりを振りながら、こう言った。
「いや、ちょっとしゃべってこうぜ。和希」
別に俺も特段急いで帰る必要も無かったので、その話に乗ることにした。
姫野諒は、中学の時からの同級生であり、高校と中学両方の入学式の席が隣だったなど何かと縁のあるやつなのだ。
諒はれっきとした帰宅部であるが長身であり、それだけならまだしも、諒の知識の深遠さは計り知れないものがある。この前など、地理の授業中に七回も地理担任の田町先生の授業の間違いを指摘し先生を閉口させていた。
そして、それにも拘わらず、彼は所謂イケメンというやつでもある。
平凡な思考をする頭であれば、数多くの花々を自分のものにし弄ぶこともできたであろう。だが、彼の時折見せる哲学的・頽廃的な思想を知った女子は大方遠ざかっていく。
何故諒がそうなってしまったのかというと、よくわからない。それが中二の時だったことは確かだ。
その時諒は「死んだ」としか言わず何のことかさっぱりわからなかった。
それから諒は探し物をして生きている。それが、生きがいなのだそうだ。それがあの時からの姫野諒の生き方だ。
「本当に欲しいものはどんなに努力しても手に入らない」
というのが彼の口癖である。
因みに、その欲しいものであり探し物は『愛』だそうだ。以前、そうゆう風に諒が真面目な顔で言っていたことが思い出される。もっとも、この時は中二の時だったから、例の痛い病に侵されていての発言だとも思われるが。
「どう? 和希は星とかはよく眺める方かい? 最近はカノープスが……」
雑談とはいってもいつも、一方通行である。だがそれを嫌だとは思わない。諒の話は概して面白い、彼は本当によく物事を知っているし考える。そしてそのおかげで俺の賢さパラメータも上がっていくという寸法だ。勿論、それだけで付き合っているわけではない。
余計な言は無しにしても、彼とは純粋に友達である。少なくとも俺はそう思っている。
「それでね、そのプロキシマ・ケンタウリがね……」
プロシマと健太とウリが一体どうしたのだろう? どうやら星の名前らしいがさっぱり今日の話は分からない。
「よっ。何の話してんのかな?」
「おお、いいところに来たね、オキタサン」
「もう、オキタじゃなくてオキタマだってば!」
聞き慣れた声が耳に心地よい。
オキタサンと呼ばれた女子生徒は右手に見覚えのある文庫本を持ちながら寄ってきた。俺の貸した本である。
「よお、マナミ。相も変わらず今日も壊れたスピーカーみたいにうるさいな」
「相変わらず愛想のない男ね。それにマナミじゃなくてナミだから」
まだ一応訂正は入れるのだなと、思わず感心する。もう十年ぐらいマナミと呼んでいるのに。
先ほどから目の前で騒いでいる女、オキタマナミは俺の十年来の幼馴染である。因みに、漢字で書くと置賜奈未である。苗字が置賜で名前が奈未だ。
「どうせまた華のない話でもしてたんでしょ? そんな陰気くさいお二人さんに面白い話があるわ! 聞きたい?」
陰気くさい、か。俺には当てはまると思うがはたして諒は……。
どうだろう、女子にはそう見えるものなのか?
「えー。せっかくこれから幻の赤色巨星ベテルギウスについて話そうとおもってたのに、ねえ?」
俺に同意を求められても困るんだが。第一、ベテルギウスは幻なんかじゃないぞ。冬になれば今でも僕らを見守ってくれている。最近は少し暗くなったが。
でも、もしかすると今頃は超新星爆発を起こしてしまっているかもしれない。諒はその意も含めて言っているのかもしれない。
俺は訂正することもなく、沈黙を以ってマナミに水を向けた。諒が少し悲しそうな顔をしている事は気にしない気にしない。
じゃあ行くわよ、とでも言いだしそうな目つきをしてマナミは話を始めた。
「最近、私のおねえちゃんに赤ちゃんが生まれたことは、言ったわよね?」
「なるほど! その子がかわいいんだね!」
と、殊更に明るく俺が言う。
マナミの話にはそんなに期待していない。
「……ふざけないでよ」
諒には見えないように鬼のような形相で凄まれた。
般若かよ。
「違うの。それで東松屋に赤ちゃん用品なんか買いに行ったのよ。姉について行ってね。そしたらね、うちのクラスの大城君が居たの」
特段不思議でも面白くもないじゃないか、とは言わなかった。だが言ったら面倒だ、それぐらいわかっている。俺も大人になったものだ。
東松屋は赤ちゃん用品全般を司る、中型の店舗を構えたチェーン店である。とある世界では同じような品ぞろえで、西松屋なるお店もあるとか、ないとか。
「その話のどこがおもしろいんだい?」
と、諒が言う。俺の気持ちを代弁してくれた。俺がそんなことを口に出したら、今日の帰り道が億劫になってしまう。ありがとう諒。あとで何か奢ってやろうかな。うまい棒でもどうだ?
「人の話は最後まで聞きましょう。それから評価してほしいものね。そう、それでね、その大城君が一人で東松屋に部活帰りに来てたの。どう、不思議じゃない?」
「えっ。部活って昨日は禁止じゃなかったかい? 和希?」
「ああ、そうだテスト期間で禁止なはずだ。それでも部活やっていたのは大方、野球部かバスケ部なんかの強化指定の部活じゃないのか? マナミ、そいつは何部だ?」
「野球部よ。なに、今日のあんた冴えてるじゃない。明日は雪かしらね」
マナミが厭味ったらしく言う。
「あいにく雨らしいぞ」
「ほんとの天気なんか聞いてないわよ!」
「まあまあ、夫婦喧嘩は僕のいない時にやってもらえないかなぁ。流石の僕だって少し寂しくなるものだよ。それとも、僕は石になるかそれともドロンした方がいいかな?」
いけしゃあしゃあと諒の口をついて出たこれらの言葉に、流石にマナミも顔を赤らめて反応する。
そんなマナミを見ているのはとても楽しい。これからも近くで見ていたい。
だが、最近はそれだけでは物足りなく感じてきている自分も居る。マナミに対する自分の気持ちが、自分でもよく分からなくなっていた。
断わっておくが、マナミと付き合っているわけではない。その断りは自分自身に対しても言っている気が、口をついた後に、した。
まだぴいぴいと喚いているマナミをなだめる意味を兼ねたように、
「うん、でも、確かに興味深いね。うん、興味深い。部活帰りの汗にまみれた高校球児が七月の、赤く染まった西の空を背に、ヒグラシ鳴き荒ぶ中を自転車漕いで東松屋へ。なかなか風流だねぇ。いや、シュールレアリスティックかい?」
と、とてもわざとらしく大仰にうなずきながら諒は言った。……ヒグラシは鳴き荒ばないと思うが。
一応、納得はしていないように見えながらも納得したようなので(こうゆうのを、確かトートロジーとでも言っただろうか。いや違うな)まあよしとしよう。
「それより、オキタサンがさっきから持ってる本。何?」
「あーあー、これね。そうそう、これを渡しに来たのよ、私。はいよ、ありがとね」
「ダジャレ? おっもしろいなぁマナミは」
と、おちょくりを入れてみたが人間の最も酷い感情『無関心』で返された。
これを渡しに来たのよ、私。我ながら陳腐だ。
苦笑しながら本を受け取る。本の表紙には、『三四郎』と『夏目漱石』の明朝体が踊っている。これは俺の本。
諒が興味津々に、俺の受け取った本をのぞき込む。
案の定、仰々しく驚いた。いや、ふりをした。わざとらしい。
「いやーさすがだねぇ。オキタサンは漱石も読むのかい? 僕はてっきり現代大衆文学の虫だと思ってたよ」
「あながち間違ってないよ? いつもはこんなの読まないもん。たまたま、現代文で夏目漱石の『吾輩は猫である』の授業やってるからカズ君に借りたんだ」
漱石を、こんなの、だと。流石はマナミだと思う。
んまあ高校生なんてそんなものかと思っていると、どうやらその漱石が諒の地雷を踏んだものらしい。
「漱石かぁ。漱石と言ったら『今夜は月が綺麗ですね』だよね。そうだろ? 和希」
無論、諒の言いたいことは分かっていた。だがしかし今、何だろう、マナミの前では言いたくなかった。
勿論、マナミは知らなかったであろう。
「あれ? 和希知らないのかぁ、ダメだなあ」
と、諒が下卑た笑みを浮かべながら言った。多分、こいつは俺の気持ちを日頃から見抜いてこの話を始めたのだ。
余計なお世話を、と思った。
だが心の隅っこに小さく感謝の気持ちも座っていたことは無視しよう。
諒が続ける、
「これはね? 夏目漱石版『I love you』の日本語訳でね? どう、日本人らしいすばらしく迂遠で婉曲的な表現だと思わないかい?」
マナミにしては珍しく、目を輝かせて
「へぇ! ロマンチックね! 私も誰かに言われてみたいものだわ」
とあんまり無い胸の前で祈るように手を組ませながら、天を見つめ言った。
わざとらしい。いつもの諒の仰々しさを、ささやかながらにお返ししたのか? 多分ほんとは、目も輝いてなんかいないだろうに。俺は破顔した。
「そうなんだよ! ロマンチックでしょ?
これを二葉亭四迷も訳していてね。彼にかかれば『I love you』も『私、死んでもいいわ』になってしまう」
マナミは心なしか、表情が翳ったように見えた。
「私は、そっちの方が、好き、かな」
と、ボソッと呟いた。
「なんかこう、燃えるようでいてクールなとこがいいよね! 僕もこっちの方が好きかなぁ。
因みに、オキタサンならなんて訳す?」
マナミは、この話を聞いた時から考えていたのだろうか。
一瞬も間を置かずに、言い放った。その言葉には、何かを切裂くような鋭さがあった。
「私を愛して! かなぁ?」
切裂かれたものがわかった気がした。俺の中の方にあるものだ。心なしかその言葉は俺に向けて言っているようにも思えた。
それはないか、それは自意識過剰というやつだ。慎まねばならん、慎まねばならん。
「『I love you』が『Love me!』か。オキタサンらしいや! うん、それもいいなあ。じゃあ、和希なら何て訳す?」
お前に言う気はない、というかマナミの前では言いたくない。今は何かだめなのだ。
そんなことを考えていると、流石は諒。
「まあ、和希はそんな柄じゃないしねぇ。本気で訳されたら引くよ?」
言いたい放題だが、まあありがたい助け舟だ。
待てよ、こんな話に持っていったのも諒じゃないか。善悪は表裏一体ってか?
「あんたには『Love』なんかより『gray』とか『plain』の方がずっとお似合いだものね」
「はいはい、そうですね。どうせ薄味な灰色野郎ですよ」
「いや。和希にはやっぱり『dull』かなあ。それとも『boring』も」
「うるせぇ。それより、お前はどうなんだよ。諒」
諒にも一応訊いては見たがまともな返答があるとは思っていなかった。話の順番的に振っただけだった。
諒は少し考えてから、案の定こう言い放った。
「そんなの知りたかったら、僕に愛されてみな! そしたら。何遍でも言ってやるよ。Fuck you!!!」
だそうである。俺もマナミも無言で顔をしかめていることしかしなかった。それが諒の扱い方だ。
「そんなことより本題に戻ろうぜ」
ああ。そうだった。
思えばかなり脱線してきてしまったものだ。俺は三四郎をバックにしまって、二人に向き直った。
「何が変だって。ねえ。大城君は一人で部活帰りに野球部のユニフォームを着たまま、東松屋に御来店、何かを買ってそそくさと出て行ってしまった。と。奇妙じゃないって言ったら嘘になるわよね?」
「うーん。なるほど、確かに変かもしれないね。まず、第一に服装だね。あとは部活帰りって点と。うーん、こんなもんかな」
いやいや、一番大事なことを忘れているだろう。
「そもそも、なんで東松屋なんかにいたのか、それを忘れてないか?」
諒は少し渋面になって、僕としたことが! とでも言いたげな表情を浮かべた。そして、
「僕としたことが!」
と、言った。
単純な奴め。
「そうなのよね。まず、そこが一番おかしいでしょ?」
まだ諒はぶつぶつ言っていた。
が、
「まあ、そんな恰好で東松屋に行ったということは、きっと大急ぎの用があったんだね。
例えば、夏季限定ブルーハワイ味おしゃぶり発売! とか限定五十台生産! フェラーリ風ベビーカー! とかかなぁ」
と半分意見、半分冗談じみたことを言った。切り替えが早い。
「そうだな。マナミの話からすると分かることは、彼は急いでいたということ。それと、恥を忍んででも買いたかったものだろう。普通はユニフォームでお店には入ろうとは思わないだろ。ましてや、東松屋ならなおさらだと思う」
諒の冗談は、無視した。
だがそれもいつものことだ。諒の冗談は分かりやすい時とそうではない時がある。今回は前者だった。
「そうね、そういわれてみると確かに急いでいたように思うわ。私とも一言か二言しかしゃべらなかったし。それですぐ行っちゃったしね。
それにしても不慣れって感じだったかな。早歩きで色んな売場を回っていたわよ。それで、多分、一点だけ何か買っていったわね。うんうん、レジ打ちもすぐだったみたいだし」
「よく見てんだな?」
とは言わなかった。
一言か二言しか? それで充分だろうに。
マナミの視線が他のやつの所に行くとなるともやもやする。落ち着かない。
それはいいとして。うーん。つかめない。いまいち、何かがひっかかっている。
「タマゴボーロが好きすぎて、とか?」
今何か言ったか、諒、しばくぞ。なにがタマゴボーロだ。
それは、諒が好きそうな言葉を用いればオッカムの剃刀というものだろう。
一応、考察はしてみるが。
「可能性としてはゼロじゃあないけどな。諒。
でもそれなら、迷わず一直線でタマゴボーロまで行くはずだ。他の何かでもそうだろう。もう少し考えて発言しないと、恥をかくぞ」
諒は、飄々とした顔で俺の言葉を受け流す。いや、受けてすらもいないかもしれないが。
マナミに水を向けてみる。
「それより、マナミはなにかわかったかい?」
「いや、なんにも。ただお買い物頼まれただけじゃないのかなぁって」
まあそれが、一番妥当な考え方だろう。だがそれにも、一般的に考えると矛盾があることを俺は知っている。
まあ、一般的な家庭に大城君が育っているならばの話だけれども。
「じゃあ、何を買物で頼まれたと思う? おしゃぶりかい? おむつかい? 大城君の家に赤ちゃんもしくは、未就学の子供がいるなら話は別だ。だがまさか十五歳近く離れた兄弟姉妹がいるとも思えないな」
これには諒も同意の色を示した。
そしてマナミは同意を示しつつも唇を噛んで、少し悔しそうにした。
そんなマナミは本当に良い。ずっと、ただ、その表情を隣で見られたら、と。
マナミは何も反駁してこなかったので、そういった話を聞いたこともないのだろう。
買い物説は却下だ。
「大方、彼女とヤって子供でもできたんだろうさ!」
と、諒。
殆どやけくそだな。
マナミは最上級の侮蔑と卑下の視線を諒に突き刺している。いいぞ、もっとやれ。
今の言葉は、マズかった、とそんな顔を諒もしている。
そもそも、彼女なんて……。
そういえば、大城君のビジュアル的イメージが自分の中にないことを今更ながら気が付いた。
そもそも彼のこと視界に入れたことがあるのか。俺は。
ここは尋ねるしかない。
「大城君ってどんな奴? 見た目とか。ここまで話してきてゴメン、誰だかわからないんだ」
それには、諒が軽蔑の視線を俺に送ってきた、ように思う。
「なんだ、和希。大城君も知らないのか。あのちっさい奴だよ。薄情な人間だなぁ。隣のクラスのやつぐらい覚えとけよ」
そんな事言われたって、俺が悪いのか? 目立たないあっちが悪くないか? いやそもそも善悪の問題じゃないか。
「じゃあ名前、諒は知ってんのかよ?」
「それは、ねぇ、うーん? アレックス?」
もういい、色んな意味で悪かった大城君。諒も謝っとけ。
「大城君は、少し太っていて背が小さくてちょっとかわいい男の子よ。けっこう女子からは人気よね。『小動物』って呼ばれてるわ」
「『小動物』……って。それさ、かわいい、の意味がちょっ、ちがぅ?」
怖いことを言うな、諒。
「それって、かわいがってる、ってこと? イタッ!」
それ以上は何も言うな、諒。海が青いのと同じように男は女には勝てん。
そんなことより。
マナミをして「かわいい」と言わしめた男を俺が知らないなんてな。
「いま、少し太ってるって言ったか?」
「ええ、そうよ。ポチャッとしてるわ」
なるほど。うん。野球部らしい小さい奴なら、今日一度会っている。多分。ただ、かわいくはなかった。
「そいつなら、多分さっき会ったな」
「どうしてそれを早く言わなかったんだい? まさか、重要じゃないと思ったとは言わせないよ」
俺だって、さっき思い出したんだい。
無言を以って、諒には応えておく。
「なぁ、マナミ。そいつ今日変な歩き方じゃなかったか?」
マナミは一瞬かぶりを振りかけたが、何かを思いついたようなそぶりを見せて、訝しげながら、
「ずっとじゃなかったわ。
でもね、体育の後の帰り道だけ歩き方がおかしかったのは覚えてるわ。なんか、こう、お尻を後ろに突き出して。それ見て、かわいいかわいいってみんな言ってたから。
てか、なんで知ってんの? それがどうか?」
と。
俺は、さっきのトイレの出来事を簡単に説明した。
「じゃあ、そのポケットに入ってたものが東松屋で買ってきたものなんじゃないかな?」
諒も同じ意見か。そうとも限らんが、俺もそうおもっていたところだ。
「うん、確かにそうだと思うな、私も。たぶんなんかの痛みを消す薬とかじゃないのかなぁ。足か腰かな。あっ、でもそれならドラッグストアとかに行くわよね。うんうん。私も少しは要領を得てきたかな」
話しながら頭の中を整理する。
「なるほど。多分、何かの痛みを消す何かなんじゃないか。
そうでなきゃどうして変な歩き方になるんだろう。
そしてそれならかなり即効性のあるものだろう。そして東松屋で買えるもの。いや、あそこでしか売っていないのではないか。他で売っているのなら、わざわざ東松屋に行く必要もない」
あの時は、かなり我慢していたのか、おなかが痛いのかそんなことを考えていたがそうではないであろう。何か別の痛みか、それに準じるもの。
口に出しながら俺は続ける。
「彼は、俺の小水が出し終わる前に、ことを済ませ個室から出てきた。その時にはもう、既に痛みが消え去っていたと考えてもいい。わずかな時間で使用できるものを、買っていった、多分、そうだ」
そして個室から出てきた彼は、既に普通の歩き方をしてすたすた行ってしまったのだ。
諒が、腕を組んでニヤニヤしていることには気が付かなかった。
そしてその視線が時計の方に向いているということにも。
「いやぁ。案外イイ線突いてるんじゃないかなぁ?
でも、お手上げかな?」
「どうゆうことだ」
大体のことは道半ば、それも終盤で終わってしまうのが常である。そしてこの時ばかりが例外ではなかった。
「下校時間です。下校時間です。ただちに教室に残っている生徒は校門を出なさい。繰り返す。ただちに……」
「どうやら推理ゲームの時間も終わりのようだね」
仕方ない、時間が来てしまったらしょうがない。か。
嫌々ながら、俺とマナミも帰り支度を始める。教室を出る。戸締りもしっかりと確認した。俺たちが最後に教室を出たので、明かりも消した。
階段を下りながら、でもまだ考えてみる。諒はとっくにさじを投げてしまったようだが。
「それにしても、まあまあのとこまで私たち行ったんじゃない? もう少しで、大城君が何を買ったのかつかめそうだったのになぁ。どうせまだカズ君は考えてるんでしょ?」
俺は、無言を以って肯定の意を示した。
全く。別に、帰り道でも考えられるというのに。
……やはり一区切りつけるべきなのか?
いつのまにか、階段を降り切って昇降口にところまで着いていた。
「ああぁ、もぅ。痛いんだよなぁ」
「何のことだい、オキタサン?」
「靴よ、靴。今日に限って、なぜか靴擦れしてきちゃったんだよね、登校中に」
「ん? 靴ズレだって?」
とは思ったが、口には出さなかった。
「オキタサン。それ、Tマーク入ってないよ? それオキタサンのローファーじゃないんじゃない?」
「んげっ。兄貴のだ。最悪だーよー。水虫うつっちゃう」
「えっ。オキタ兄、水虫持ちなの? ガチかー」
冗談らしい。マナミが笑いながら首を振って訂正していた。
昇降口を出る。マナミの歩き方が靴擦れのせいでおかしい。大城君とは違うようだが……まあ痛そうだ。
「まあいいじゃないか。明日大城君に聞けばさあ」
諒が歩き出しながら言う。
「えぇ。それもつまんないよ。やっぱ私たちだけで解き明かしたかったじゃない? それに大城君、教えてくれるかな?」
「えぇ、どうしてだい? オキタサン」
「だーかーらー。トイレでなにかやっていたんでしょ? あんまり女の子には言いたくないことなんだろうなぁ。って思ったの。
それに、相手が直視するのも憚られる美少女じゃ、尚更でしょ?」
咄嗟に俺はその反駁が口をついて出た。流れ出るように。
何年も繰り返してきたそのやりとりを、俺は無意識のうちに条件反射で行っている。それはマナミも行っているものだ。
もしそうだとするならば、俺の最近のこのマナミに対するもやもやと同じような感情をマナミも持っていることになるのではないか?
まあそれはいい。今は。
「美少女って誰だい? そっちの方が大城君の買い物より、遙かに謎じゃないか。もし居たとしても、違う意味で直視できな、ぐはっ!」
マナミのアッパーをモロに腹に喰らった。あのころと変わらない。
そのアッパーのおかげか頭の中の霞が、さあっと引いて行ったように思えた。
靴擦れ、東松屋、部活帰りの急用変な歩き方、そして女子に知られたくない……。
「……もし、あいつだけじゃなかったら……」
そう。なんとなくわかった気がした。だが、それには確固とした証拠がない。実際の変な歩き方を見てみれば完璧なのだが……。
「おい、諒。野球部のグラウンドは確か校門を出て左だったよな?」
すると、諒は薄ら笑いを目元と口元に浮かばせたかと思うと、それが人の悪い笑顔に変わった。
「ははぁ? さては和希、なにかわかったね」
それには応じない。
「ええっ! カズ君分かったの? すごーい、さすがカズ君!」
マナミが純粋に人を褒めるとは珍しい、ましてや俺だぞ。
だがそれで浮かれてはいられない。
まだ快刀乱麻をぶった切った訳じゃない。
俺はすぐに付け足した。
「まだ、あくまでも仮説だ。確かな証拠は見つかってない。ただ、あの時大城君がこれを買ったって仮定すると、すべてが説明できる物が見つかっただけさ」
少しかっこつけすぎたか? まあいいさ。
マナミの目は、爛々と、早くグラウンドへ行こうと言わんばかりに輝いている。
一方の諒は、肩をすくめるようにして、
「まさか、和希がねー」
などと、少し悔しそうに言う。
まあいい、早く行こうか。
野球部の練習は、最後のランニングに差し掛かっていた。そこで俺たちが見たものは、俺の予想通りの光景だった。
「なに、これ……これ?」
「ははぁ。でもこれだけじゃあ、いまいちわからないよ。和希」
やはり、俺の予想通りだった。
グラウンドにいたのはお尻を後ろに突き出すようにして変な走り方で走っている野球部たち。
それは、部員の四分の一ほど。
変な走り方で走っているのは、やはり大城だけではなかった。複数いたのだ。
「ちょっと、説明してよ、カズ君」
「じゃあ結論から始めるぞ。いいか、大城が東松屋で買ったものは、ベビーパウダーだ。そして、この野球部たちを変な走り方にさせているのは、恐らく、『股ズレ』だろう」
案の定、マナミはぽかんとした表情を浮かべている。そして、そのまま固まった。
諒は、少し考えてから、なにやらすべての合点がいっている様子で、うんうんと頷いている。
やっと、マナミが口を開いた。
「ベビーパウダーって、あれでしょ? 赤ちゃんの肌がかぶれないようにかけるあれでしょ? 姉ちゃんの赤ちゃんにも使っているわよ。でも、そんなに野球部の肌って弱いものなのかしら。案外、繊細でナイーブなのね、男の子は」
この期に及んでも、まだ多少の毒舌が出るところがマナミらしい。うーん、ぶれないぞ、この女は。
もう少し解説してやろう。
「いや、ただ皮膚の表面に汗かいただけじゃあせいぜい汗疹程度だろう。そこでズレが重要になっている。汗かいた後に体を動かすから、関節周りの皮膚と皮膚とがこすれあって、さらには汗で濡れているからね。ひどくかぶれるんだそうだよ。
そして、体の中で最大の関節、股関節周りも例外じゃあ、ない」
これには、マナミも得心した様子だっだ。
「僕の考えは、こうだ。季節柄、日ごろの練習で汗をいっぱいかくのだろう。ましてや、小太りの大城君のことだ。脂肪があるから人一倍汗はかくし、人一倍こすれるだろう。そうなってくると、やはり大城君の生活にも支障をきたすほどの痛みが出てきたはずだ。だから彼は、練習帰りに東松屋に寄ってあるものを買っていこうとした。あまり他の人には知られたくなかったであろう。痛い部位が部位だしね。
……そしたらそこで、知り合いの絶世の美少女と出会ってしまった」
「私のことね」
そこは口を挟まなくてよかったとこなんだが。
「彼は、そそくさとブツだけ買って早々に東松屋を出ていくことにした。何を買ったかを知られるのはまずい。そうして、その美女との会話を、イタッ、簡単に済ませてベビーパウダーを買って出てきたと。ここまではいいかい?」
途中、蹴られた。流石にしつこかったか?
諒は得意顔で何やら嬉しそうに、うんうんと同意する。
「それで、家に帰って、早速ブツを使用。効果が切れたり、汗をかいたりしたらまた粉をつける。学校でも同じことだ。俺が放課後のトイレで見たものは、きっとそれだったんだろう。あの時、確かに大城は水も流してなければ手も洗ってもいない。
どうだ?」
俺は一通りの推理を述べた後、なんだかとてもすがすがしいような気持ちになってきた。そして、どこからともなく自信が涌いてきた。不思議な気持ち。
こうゆうのを達成感というのだろうか。
異論があるなら受けてたとう、諒よ、マナミよ。案の定、何も反駁してこなかった。
俺はその沈黙を同意と受け取ると、バックを担ぎ直し。帰路に就こうとした。その後ろを諒とマナミも付いてくる。
「ブラボー! お見事だったよ、和希。まさか和希に教わることがあろうとは。でも、どうしてベビーパウダーなんて気が付いたんだい?」
俺は帰り道を歩きながら答えた。
「それはちと違うな。何が違うって順番だ。俺はベビーパウダーよりも先に股ズレの可能性を考えた。マナミの靴ズレから思いついたことだ。あと恥ずかしいってとこからもだ。
閃きばっかりは能力とかは関係ない、運だからな。今日はついてたよ」
「あれ? 私って役に立っちゃったのかなあ? てゆーか、私居なかったらカズ君もわかんなかったよね。私が解いたようなものじゃない? うんうん」
マナミは笑いながらそういった。本気で言っていないことは分かっていたが、辟易したような顔をして俺も一応は応戦する。
「そもそも、お前が居なければこんな面倒にはならなかったのにな」
だが、それはありえないことだ。マナミが居ないなんてことはありえないことだ。マナミが居ない世界にはきっと俺もいないだろう。
「まあいいじゃないか和希。まあまあ楽しかっただろ? いいキルタイムにもなったし。実際一番楽しんでいたの、お前だしな」
そうかい、俺は楽しんでいるように見えたか。俺は主観より客観を重んじる人間だ。無論、時と場合によってだが。だから諒がそう言うならそうなのであろう。
ただ、意外だった。
それから、徒然と特に得るところのない会話をして諒と別れる交叉点まで着いた。
「じゃあな! 和希、また明日な。今日は、お前の意外な一面が見られたよ」
俺も適当に別れの挨拶を告げて、帰路に就こうとした。
でもそれはいつもの帰路にではなかった。
顔を上げると、赤らみ始めた西の空が。
「ちょっと遠回りして行かないか?」
そんな言葉が、気が付いたら勝手に俺の口をついて出た。
「お前、案外重いんだな」
ひざ裏をつま先で蹴られた。俺は今、マナミを負ぶっている。なぜというと。
「遠回りしていくなら負ぶっていってよ、私は足が痛いのよ? 紳士なら、ね?」
だそうである。俺が紳士なのではなくマナミがお嬢様なのだ。
いや女王様か。
俺とマナミの住む住宅地を抜け、やがてその北縁にたどりつくとそこからは県境の田んぼが広がっている。
因みに俺とマナミの家は斜向かいである。
景色の開いた場所に出た。
この周辺ではマナミとよく遊んだものだった。
田んぼは一キロ先ぐらいまで続いていて、その先の国道のバイパスと立体交差した東武線の線路を境に消失している。
そして左奥には金山が、そして正面には赤城山が君臨している。
俺は、ここから見る夕日が好きだ。マナミとは何回もここから夕日を眺めている。
そして俺が珍しくも好きだと言える場所である。
『好き』
という感情はいまいちわからないが、ここは好きなのである。
水の張った田んぼに反射した夕日の橙が、やがて燃えるような赤になり、紫になり、群青となり、やがて夜が訪れる。
そうなるまでマナミとはよく遊んだものだ。
だがその頃の感情とは、明らかに今の俺のそれとは違う。
金山に落ちてゆく夕日もあのころと変わらない。人の心とは違って、何年経っても夕日は変わらない。
だが、夕方、橙から紫を経て群青へと移り変わるその景色を見ていると人の心のようでもあると感じるのである。
夕日は俺にそんな矛盾を投げかけてきた初めての存在だ。
「マナミ、ここらへんでいいか」
ありがと、と言ってマナミは背中から降りた。
そして不意に、
「カズ君」
と声をかけられた。
彼女の方を見ると、なんだか悲しそうな顔をしている。だが、その瞳にはなにか決意のようなものが感じ取られた。
「マナミって呼ぶの、そろそろ無しにしない? 私の名前は、奈未、なの。他の人間からは良くっても、カズ君にマナミって言われると……」
思いがけず、中二のころ、諒の言っていた言葉が思い出された。いまはああでも、昔の諒は煮え滾っていた頃もあったのだ。
今はそれを隠していてなかなか見せようとはしないだけだが。
「なんで『愛』を探しているかって? 人生ってのはね、いいかい? 『闘い』なんだよ。そう戦さ。何と戦うか? それは寂しさとか孤独ってやつだよ。人は一人じゃ生きてゆかれないからね。
それにこんな言葉だってある。
『人生とは長い長い、孤独との戦いである』
ってね。無論これは僕の考えた言葉だが……。
うん、まさに『愛』だよ。『愛』。これこそが、人生において最高に必要なものじゃないかな……。
一度はそれを得た気がしたんだ。でもさ、そんなの独りよがりの勝手な思い込みだったんだ。だから僕は『愛』を、『真実の愛』探し求めているんだ……」
そのとき、俺は諒のことを笑った。げらげらと。何を言ってるんだ、こいつは、と。
その陳腐な言い回しを俺は笑った。
だが、今はその話を笑うことができない。笑えない。全く笑えない。
「わかった。奈未。悪かったな」
かの文豪、夏目漱石は「I love you」を「今夜は月が綺麗ですね」と訳したそうだ。
もしそれを、その言葉を、俺が訳すとしたら俺はきっとこう言うだろう。
「夕日、綺麗だな」
と。
そしてその言葉は自然と口をついて出ていた。
奈未はその言葉の意味を測りかねたように、キョトンとした表情を浮かべている。
だがやがて、正面から俺の目を見据えた。何もかもを見透かし、そして見定めているかのような目だった。
ようやく彼女はおもむろに口を動かそうとした。がうまく声にならなかったようだ。
それもいつしか、音声を伴い始めた。
「私は、ずっとね、今まで……ね」
そして、目線を俺から外し紅に染まった赤城山の方を向いた。
奈未の横顔、紅く夕日に染められた奈未の頬を見つめていた。
ずっと、そうしていたい、このまま見ていたい、ただそれだけでいい、そう願った。
見つめて居た紅い頬に一筋の液体が流れた。
「私はずうっと……今まで……いつ死んでもよかったのよ?」