3-6
貸馬車屋からの、帰り道。
両手で彼のシャツの裾を掴み、クリューはてくてく道を行く。
ふくれっ面がしぼまないのは、片方の頬に、大きな飴玉が口の中に入っているせいで、もう片方がしぼまないのはただの気まぐれなのだ。別に何かを不満に思っているというわけではないのだ。そうなのだ。
ときおりこちらを窺う目が、「邪魔だ」と言いたそうなのはわかっていた。でも、手放すことはできなかった。もう、彼から離れる度胸なんてなくなってしまっていたからだ。
そしてそれを、スプートニクもわかっていたらしい。「しかたねェな」と言った。
「ほら」
「…………」
そして彼の手が、彼女の固く握った手に触れる。クリューは導きに応じて、右手でスプートニクの中指を、左手で人さし指を握った。同時に少しだけ、心の重みが軽くなって、ふくれっ面の片方がしぼむ。
だが視線は上げられなかった。眉間の皺も、吊り上がった下唇も、自分の意思ではもとに戻すことはできず、不思議な手繋ぎのままで、道を行く。
と、スプートニクが呟くように、言った。
「気は済んだか」
「……はい」
「宝石みたいな希少品を売買するにはな、いろいろな手間がいるんだ。価値の算定、鑑定書や鑑別書、そういうのをきっちり揃えて正しいルートで流通させてやる必要がある。逆に言うと個人取引は難しいな、普通の人間なら、さっきみたいに『どこから持ってきたのか』と勘繰りたくなる」
「はい……」
項垂れながら答え、ふと思う。
「……でも、あの人たちは……」
言いかけてやめたのは、彼女の前の『雇用主』のことだった。彼らはそんな手段を持たずとも、クリューの宝石をどこかで売りさばいていた。
だから不思議に思ったが、最後まで言わなかったのは、知ったところで意味のないことだと途中で気付いたからだ。あの男たちと同じ生き方なんてしたくなかった。
その思いはスプートニクにも届いたのだろう、言葉の意味を察した彼は多くを語らず、
「ああいう輩には、ああいう輩のためのルートっていうのがある。素人が手を出すべきじゃない、忘れろ」
と、言った。
そのとき喉の遺物を感じて、足を止めた。彼の手から右手を離すと、ポケットからピンクの縁取りのあるハンカチを取り出してけほけほと空咳をする。スプートニクは、屈んでそんな彼女の背を撫でた。
やがて口から話したハンカチに埋もれていたのは、二つの宝石だった。……二つ同時にとは珍しいなと思ったが、よくよく見ると片方はハンカチにくっついている。クリューが摘んで取り上げると、糸くずがたくさん表面についていた。それは宝石ではなくて、今の今まで頬を膨らませていた甘いもの――飴玉だった。
もう一度口に入れようか迷っていると、スプートニクが「やめとけ」と言ったので、地面に落とした。そのうち鳥か虫かが食べるだろう。食べかけだけど、とても美味しいから、きっと喜ぶ。
宝石だけを中に残して、ハンカチをしまい、再び歩き出す。両手が空になって寂しさを覚え、スプートニクの手を探すと、彼の両手はすでに各々スラックスのポケットにしまわれている。でもどうしても、それが欲しくて諦められず、クリューは彼の左腕を引っ張って手を取り出すと、また両手で握った。スプートニクは一瞬眉を顰めたけれど、黙ってクリューの望む通りにしてくれた。
そうして暫く、無言のままで歩き続ける。
やがてスプートニクが、ぽつりと、呟いた。
「婚約の件、な」
「え……」
彼の方からそれを話してくれるなんて思っていなかったから、クリューはとても、驚いた。彼女が何を悩んでいるのか、とうに気付いていたということか。
「スプートニクさん、こんにゃく、って……」
「最初は気付かなかった。気付いた後は、気付かないふりをしようと、思ってた」
だけど、お前がこうまでするなら仕方ないな。ぼやくように言った。
彼は足を止め、クリューを見下ろした。スプートニクの手に、少しだけ力が入って、クリューの胸がずきりと痛む。続く言葉は聞きたくなかったけれど、逃げ場なんて、今さらどこにもない。泣きそうな気分で、彼の瞳を見返した。
……けれど。
やがて彼が、気まずそうに告げたのは――
「結婚、したい奴がいるんだろう?」
「え」
――クリューのまったく予期していなかったものだった。
しかしスプートニクは、彼女の驚きなど意識の外で。
「お前が今日、挙動不審な様子を見せて。ここ数日のことと併せて、いろいろ考えた。で、結論としては。……俺に紹介するタイミングを計ってたんだろう? でも、言い出せなくて、俺から離れればいいってアンナのアドバイスを真に受けて、考えたのは駆け落ち、ってところじゃ――……なんだ、その顔」
そこまで語ってようやく彼は、二の句を継げなくなったクリューに気付いた。口がぱっかり開いてしまっていることに、言われて初めて気づいて、慌てて閉じる。
「違うのか」
「え、あの」
突然のことで思考が追いつかず、否定できないことを、別の意味と取ったらしい。
「俺も鬼じゃない。まだガキなんだから、きちんと子供らしく清い付き合いをするなら何も怒りゃしねェよ。だが、保護者に紹介もできねェで、許される努力もせずにただ家出の算段って言うのは――」
「ち、ちょ、ちょっと待ってください!」
確かに婚約者のことで悩んでいた。誰にも、スプートニクにも言えなくて、どうしたらいいか悩んでいたのは確かにそうだ。大好きで、いつか結婚したくて、ずっと一緒にいたい人がいるのも、そうだ。でも、でも――
――ちょっと違う!
「あの、あの、クー、結婚はしたいです」
「だろう。でもな――」
「でも、違うんです!」
自分が彼以外の誰かのことを好きでいるなんて、誤解されるのは嫌だった。ばさばさとかぶりを振る。
「悩んでるのは、クーのことじゃなくて……」
誰にも言わないでね。約束が、耳の奥に蘇る。
けれど約束とスプートニク、どちらが大事かなんて、天秤にかけるまでもない。その言葉は、口からするりと漏れ出でた。
「す、スプートニクさんの、こんやくさ、しゃん」
噛んだ。
けれど意味は伝わったはずだ。
婚約者さん。すると彼は眉を寄せた。が、怒っているわけではないようだ。
「……俺の?」
自らの鼻先を指して尋ねる彼の声は、いつになく抜けたものだった。
クリューはそれにぶんぶんと、大きく首を縦に振るが、スプートニクは呆れた様子で、
「なんだ、それ」
と、問いを返した。
「え、あれ……い、いないん、ですか」
「何が?」
「いるでしょう?」
「だから、何が」
「婚約者、さん」
今度はちゃんと、噛まずに言えた。
けれど彼の眉間の皺は深くなる。
「いねェよ。俺の婚約者? 誰にそんなこと言われたんだ」
「え、で、でも」
「お兄ィさんは一線は越えません」
…………。
じっと見つめていると、やがて目を逸らした。
「一線は越えても、おいおい慰謝料の発生する契約はしません」
言い直した言葉に、説得力は、あった。
女性にだらしのない彼だが、そういうところはしっかりしている。
「誰が言ったんだ、そんなこと」
「ふ、ふぁんしょんさん、が」
「――ファンション?」
黙っているように言われたこと、忘れたわけではなかった。けれど。
でも、もう、内緒になんて、できるわけがなかった。
繰り返されたその名前に、何か異質なものが混じっていたことはわかっていた。けれど今は、堰を切ったように溢れてくる想いを間違えずに口にすることだけで、クリューには精一杯で。
「ふぃ、フィーネチカで、魔法使いに襲われて、そのとき、助けてくれた女の人が、ファンションさんで、そんで、そんで」
つっかえながらもクリューは、ずっと心に秘めていたものをなんとか話した。悪い魔法使いにも怯えなかったこと、とても優しい人だったこと、誰かに似た面影があったこと、彼女がスプートニクの婚約者を名乗ったこと。
すべてをスプートニクは聞いてくれた。感情が極まって、やがてぽろぽろと涙が零れる。道行く人がときどきこちらを見て歩いていくが、それもあまり、気にならなかった。一言一言に、そうか、そうかと頷いてくれるのがとにかく嬉しかった。
「でもファンションさん、誰にも言わないでねって、だから言えなくて……ごめんなさ、ごめ、き、きら、嫌いにならないでぇぇ」
「なんねェよ。その程度で」
と呆れたように言うが、彼の瞳には、何か妙な光がちらついて見えた。憂いのような疑心のような――クリューが動向を窺っていると、やがてスプートニクは声なく唇を動かした。それは、あの人の名前だったように見えた。
「なァ、その女、どんな奴だった」
「……やっぱり、お知り合い、なんですか」
呻くように尋ねると、スプートニクの瞳がまた、揺れる。
けれど今度の沈黙は短くて、答えもはっきりとしていた。
「いや。俺の故郷の八百屋店主の親友の娘の恩師の従妹の家の隣に住んでたポチの子供の里親の叔母の名前と同じだったから偶然だなと思っただけだ」
「そうなんですか。世間は狭いんですね」
「いや案外広いと思うぞ?」
それはともかく、と空いた手を仰ぐように振って話が続く。
「それで? そいつ、なんて言ってた――いや。確かにそいつは、『スプートニクの婚約者だ』って言ったんだな?」
首肯しようと頭ごと視線を下に向けたとき、そうではないと思い出した。そうではない。正確には、
「これから自分の婚約者が、クーのことを迎えに来る、って……」
「なんだ」
と、スプートニクの肩が下がった。
「それじゃ、俺じゃないかもしれないだろう」
「え?」
「お前を保護してくれるように誰かに頼んだけど、そいつより先に俺が来たんじゃないのか」
―― 一瞬、思考が止まる。
スプートニクの婚約者。その言葉の持つ衝撃に、それ以上考えが及ばなくなっていたけれど、言われてみれば、確かにその可能性もあった。他の誰かが来るより先に、スプートニクが見つけてくれたという可能性。
何故それに気付かなかったのだろう? クリューはまばたきをして、改めてスプートニクを見た。彼はクリューの頭では到底及ばないくらいいろいろなことを考える人だが、今の彼が彼女を邪険にしていないことくらいはわかった。クリューの握った手を軽く振って、「第一に、だ」と続ける。
「第一。そんな強い魔法使いが、結婚相手に俺みたいなのを選ぶかね……前に言わなかったか、魔法使いは魔法使いとしての才や血統のために、好き合ったもの同士でなくても結婚するって。そういう奴らが俺みたいな普通の、ただの商人を」
選ぶと思うのか、お前は。そう言われて、クリューは自分の胸の中で、何かがストンと落ちるのを感じた。
それもそうだ。
「それに、お前だって俺の魔法使い嫌いは知ってるだろう。俺だって、魔法使いなんて嫌味な人種と一緒になりたかない」
それもまた、そうだ。
そのとき、ちゅん、ちゅんと雀の声がして振り返ると、地面で何かをついばんでいた。見るとそれは、クリューが先ほど落とした飴玉だった。クリューの飴を、拾っては落とし、拾っては落とし、二羽で交互につついている。
「じゃあファンションさんは、スプートニクさんの婚約者さんじゃない、ですか」
「ないなァ」
「スプートニクさんに、婚約者さんはいない、ですか」
「いないなァ」
「ぼしゅうちゅう、ですか」
「別に募集もしてないけどなァ」
――心が軽くなると、他のことも気になってくる。
新しい心配事がもくもくと湧いてきたが、今度はそれほど重たくなかった。相談できるひとが、いたからだ。
「どうしよう」
「今度はどうした」
「私、嘘つきに……誰にも言わないって、ファンションさんと、約束して」
「別にそれは罪じゃないだろう。俺はお前の後見人だぞ、後見人は被後見人のことを把握していないといけないからな、むしろ黙っていたままでいられる方が罪だ」
不意に、エルサの言葉を思い出した。――好きな人のことは、なんでも知っていたいものね。
スプートニクが、まるで自分と同じことを考えてくれているように思えて、胸がきゅうっとする。自分のことを、なんでも知りたいと考えてくれている。
けれどそんな思いなど知らぬまま、スプートニクはのんびりと続けた。
「ま、そのなんとかいう魔法使いが『嘘つき』って言ってきたら、お前だってスプートニクの婚約者って嘘ついたじゃないかって言ってやれ」
「そ、それは私が勘違いしただけで」
「過失でも罪にはなる。再会の際には、慰謝料の請求もきっちりしようなー」
軽く手を振りながら言われる、そののんびりとしたえげつない物言いが、クリューがここしばらくずっと求めていた『何か』の象徴に思えて、クリューはもう一度、彼の手を握り直した。
空を映した灰色に、奇妙な感情が宿っている。
スプートニクの唇が、小さな声で何かを言った。
それは『あの人』の名前のようにも思えたが、今のクリューにはどうでもよかった。
*
「……ところで」
「はい?」
「お前、明日からの家出、どこに行こうとしてたんだ。馬車なんか借りて」
「えへへ。それはですね――」
■お知らせ
5/17(日)に、小説家になろう公式生放送さんにお邪魔して、ごあいさつをさせていただきました。
緊張しましたが、とても楽しかったです。ありがとうございました。




