7-1
帰りの馬車が手配できたのは、その日の昼過ぎだった。
この時間に発つと、リアフィアット市に着くのは夜。悪ければ一晩を馬車の中で明かすことにもなりかねないが、それでも帰ることを決めたのは、魔法使いの再来襲を懸念したというのもあるが、何よりクリューがこの街にいることを嫌がったからである。
あの路地で一体何をされたのか、何度問うても口を開こうとはしなかったが、余程恐ろしい目に遭わされたのだろう。あれからずっとスプートニクの服の裾を掴んで離れようとしなかったから、こちらは着替えをするのも苦労した。
今はクリューはトイレに行っている。ようやく離れてくれたその隙に、荷物を馬車に載せているわけだ。
御者に挨拶をして心づけを渡し、貴重品以外の全てを預けたとき、不意に背中に、視線を感じた。悪意こそ感じられないものの、チクチクと人を小馬鹿にするように刺すそれ。
振り返ればそこには、やはり。
「……まだ何か、言い足りないことが?」
「嫌だ、ただの見送りなのに。失礼しちゃう」
予想通り、唇を尖らせたユキが立っていた。
スプートニクと同様に昨晩から働きづめのくせに、その目に、また表情に疲れはない。頰の血色まで良く見えるのは、化粧のおかげだろうか。
いずれにせよ彼女は、疲労の色を隠しきれぬ弟に対し、いたく楽しげにひらひらと手を振った。
「どうぞお気をつけてね、『スプートニク様』。道中賊に襲われて、女の子を雇うことにならないように」
「そうしたらまた、お前に手紙を送るまでだ」
「アハハ」
彼の応えにユキは、声を上げ、傑作とばかりに笑った。――まったく。
呆れたということをわかりやすく現すため、スプートニクが、ため息をついてユキに背を向けたその瞬間。不意に彼女が『彼』のことを呼んだ。
「ねェ、――」
反射的に振り返ってから、ユキの口にしたそれが、『スプートニク』ではない名前であったと気付いた。
ニヤニヤと笑うユキの顔を睨みつける。とユキは、悪びれもせず、ちろりと舌を出して「間違えちゃった」と言った。……故意にそう、呼んだくせに。
「忘れたわけじゃないんだ」
「忘れるわけがあるか」
噛みつくように答えてやる。忘れるわけがないだろう――自分の本名を。
「スプートニクって、私が付けたあだ名だもんね。いっつも私の後についてくるから、『ついて回るもの』って」
「入り用なとき側にいないと即ブチギレたからだろ」
「アコ、アコ、っていつも私の後をついてきて。あの頃のアンタは可愛かったなァ。うふ」
「聞いちゃいねェな」
正確には、聞いてはいるのだろう。ただ、無視をしているだけで。
予想通り彼女はうふうふと笑うだけで、スプートニクの抗議など、そのまま何も言わずに流してしまった。
「そう、前から聞こうと思っていたんだけど、名前、どうしてそうしたの?」
「お前には関係ないだろう」
「もしかして、そんなに私のことが愛しくなった?」
「あっじゃァそれでいいです」
「『姉』に嘘を吐くもんじゃないってまだわからない?」
「痛ででででででで」
笑顔で耳を引っ張られる。そうでないとわかっているなら何故言ったのか!
謝り倒してようやく放された耳を擦りながら、渋々本当のところを答える。
「商人として、奇抜な名前の方が顧客に覚えて貰えるだろう。それだけの話だ。……本当は、顧客が定着したら、適当なところで本名に切り替えて仕事するつもりだった。でも」
「でも?」
「……何でもない。それだけ」
「うふ」
続く言葉を確かに隠したというのに、彼女は今度は気分を害した様子は見せなかった。ただ満足そうに頬を緩ませる彼女に拍子抜けする。
「怒らないんだな」
「何となくわかったから許してあげる。……担当している店の主が従業員思いの人で、私も鼻が高いよ」
けれどその言い回しに、つい眉が寄った。それはあくまで利便性を考えての判断及び行動で、誰かに褒められたいから、或いは従業員に恩を着せたいから偽名を使っているわけではないのだ――虫唾が走る。けれどユキはスプートニクのそんな考えを知ってか知らずか――恐らくは『知った上で敢えて』――また、意地の悪い表情を作った。
「ね、スプートニク」
「なんだよ」
「なんで今回の訪問に限ってクリューちゃんを連れてきたか、当ててあげようか」
「……そんなの、ただの」
「気まぐれって? そんな面白いこと、言わせないよ」
底の知れぬ鳶色がスプートニクを映す。何を考えているのか知れないその頭で、結局はすべて見透かされているのである。
「クリューちゃんを一人にするのが怖かったんでしょう? あの街が、魔法使いに適さない土地とは言え、魔法少女を名乗る魔法使いが訪れ、また魔法という力を振るうことが出来たあの土地に彼女を一人残してくることが。あの魔法少女が、あれだけが魔法使いの『例外』とは限らない。もしかしたらもっと、他にも」
「あァ、俺の判断ミスだよ」
言い捨てたそれは、自分でも思っていた以上に苛立ちの色の濃いものとなった。
ユキの言う通り、スプートニクは先日の魔法少女の件で、リアフィアット市が安全な場所ではないということを痛いほど理解させられた。そのためクリューを一人残して町を離れることに抵抗があり、散々迷った挙句、連れてくることにしたわけだが――結局その判断は、裏目に出てしまった。
全ては自分の責任だ。纏まらぬ頭をがりがり掻きながら、熱く重いため息を吐く。
「だったらなんだ。認めれば満足するのか。地面に額をついて謝罪しろとでも? それとも」
「それだけ、大事なら」
遮った声に、冷たさはなかった。
慈しみというと大袈裟だが、温もりのあるもの。それにどう反応したものか、スプートニクが迷って無言でいるうちに、ユキは彼の耳に唇を寄せ素早く囁いた。
それはとても短い、忠告だった。
「魔法使いには気をつけなさい」
そしてそれだけ言うと、さっと離れた。
今更改めて忠告されることではないように思ったが、彼女がわざわざ言ったのだ、きっと意味があるのだろう。だから、
「……肝に銘じておくよ」
「よろしい」
素直に頷くと、彼女はいたく満足そうに胸を張った。
「それじゃ、私はそろそろ仕事に戻るよ」
「クーに会っていかないのか」
「会いたいけど……」
彼女は迷うように空を見て、「今は、やめとく」と苦笑した。しかしその口ぶりからすると、会えない理由は「忙しいから」というわけではないようだ。一体どういう意味か、とスプートニクが問おうとする――
しかしそれより一瞬早く、彼の目の前に紙袋が差し出された。マチのついた茶色い袋の口を、白と水色の紙縒りで縛って留めている。
「なんだ、これ」
「酔い止めの飴。来るとき大変だったんでしょ?」
往きの道、青い顔でげえげえ鳴いていた生き物のことを思い出す。よく鮮やかに咲うそれの萎れたところは、見ていてあまり、気分のいいものではない。
「お代はいらないよ。クリューちゃんに食べさせてあげて」
「感謝」
受け取り軽く振ってみると、ことことと物同士がぶつかり合う小さな音がした。成る程、中身は確かに飴玉のようだ。少し迷ってから、上着の内ポケットに入れた。
「用件は以上。また何かあったら、連絡ちょうだい。……あァ、それと、ちょっと仕立ててほしいアクセサリーがあるの。近いうちに手紙書くね」
「了解。待ってる」
弟の軽薄な敬礼に、姉は嬉しそうな表情を作り。
そして最後に、別れの言葉を告げた。
「じゃァね。『クリウ』」
しかし、その名は。
「……スプートニク、だ」
低い声での訂正に、しかしユキはそれすらも至福であると言わんばかりに、うふふ、と笑って背を向ける。跳ねるような陽気な足取りで道を行き、角を曲がって、姿を消した。そうして、戻ってくることはなかった。
――昔も今も、そして未来も。
この女には、勝てる気がしない。
そのとき不意に吹いてきた向かい風に、スプートニクはつい目を細めた。
まるで、彼女がここにいた痕跡を攫っていこうとするかのような旋風。しかしそんなものがなくとも、姉との別れに耽っている時間はなかった。風の行き過ぎた直後、ひどく悲しげで情けない声が彼の耳に届いたからだ。
「スプートニクさん。スプートニクさぁぁん」
と同時に宿を飛び出してきたのは、息を切らしたクリューの姿。不安に頰を歪め、また大きな目は一生懸命涙を堪えている。
彼の姿を認めると、ばたばたと走ってきて、勢いよく彼に抱きついた――と同時に、彼の体に鼻をぶつけた。左腕をスプートニクの背に回しながら、右手で鼻を擦る。やはり、それなりに痛かったらしい。
よく擦り、鼻の痛みを落ち着かせてからクリューは顔を上げた。恨みがましい表情をしていた。
「なんで、先に行っちゃうんですか」
「荷物積んでたんだよ。お前のも入れといたからな、もう発てるぞ」
馬車を指さし、答える。宿の精算も済んでいるし、準備は万端だ。
けれど彼女が聞きたかったのは、そんな状況説明ではなかったらしい。きゅうっと、寂しげに眉が寄る。
「先に行ったら駄目です」
そして、自身の情けない表情を隠すかのように顔を伏せ、
「一緒じゃなきゃ、嫌です」
と、言った。
以降、抱きついたまま離れない。いくら経っても動こうとしないので、肩に手を置き、軽く揺さぶった。
「離れてくれよ、歩けねェ」
「お構いなく」
「俺が構うの」
「…………」
しかし彼女は何も言わない。されるがままに揺れ、ふて腐れたように黙ったままでいる。
それを見てスプートニクは、先ほどユキが、クリューに関して何かもの言いたそうにしていたのを思い出した。クリューのこの子供返りは、やはりあの路地で魔法使いに与えられた恐怖のせいなのだろうか。それとも、あの女が何か?
「……ったく」
とはいえいずれにせよ、ここで突っ立ったままでいるわけにはいかない。疲労困憊なんだけどなァ――と心の中で呟くと、スプートニクはゆっくり膝を折って腰を落とした。
頑として動かなかったクリューも、突然の彼の行動を不思議に思ったのだろう、腕を離した。そして怪訝そうにスプートニクを見守る。
……そんな彼女の背に左腕を、膝の裏に右腕を差し入れて。
「ひゃあ」
「これでよろしいですか、お姫様」
腰と膝に負担がかかるが、堪えられないほどではない。顔を赤らめ、胸の前で手を組み、何やらもごもごと言うクリューを、抱えたまま馬車の中に連れ込んだ。
進行方向に対して正面を向くように座らせて、傾いた帽子を直してやった――そのとき、ふと。
試してみたいことが。
「なァ、……『クリウ』」
それはただの、気まぐれだった。
ただの気まぐれで、ただの、小さな悪戯。
「? はい」
「……ははっ」
けれど彼女はその悪戯に気づくことすらなく、いつものように返事をしたから、スプートニクは、つい声を上げて笑ってしまう。自身の考えに裏付けを貰ったような気分になったのだ。
この娘の主が名乗るには、あの名前はひどく『似すぎて』いる。
「あの、どうして笑ったんですか? それに、スプートニクさんいつも私のことクーって呼ぶのに、なんで突然、クリューなんて」
「なんでもねェよ。そんな気分だっただけだ」
「そんな気分ってどんな気分ですか」
「あァうるせェうるせェ。お子様にはわかんねェ気分だよ」
「む……お子様だからこそわかるように説明してあげなきゃいけないと思いまぁす!」
「威張るな、お子様」
なぜ笑ったかなんて、説明をするのはひどく面倒だし、そもそもわからせる必要のないことだ。詰め寄るクリューに片手を振ってあしらいながら、彼女の向かい側に座る。
と、そのとき、御者席から声がした。いかにも待ちくたびれたといった、間延びした声だった。
「旦那。そろそろよろしいんで?」
「あァ、遣ってくれ」
「それじゃ」
その短い言葉が、出立の合図となった。
窓の向こうで、御者が手綱を引いた。馬が頭を振って、やがて車輪が音を立てる。同時に風景が動き出して、世界を馬車の背後に追いやっていく。車輪は世界の追随を許さず、また他人の都合を構わず、二人だけを残して、どんどん速度を上げていく。
風景の中に、魔法使いが一人、立っているのを見つけた。
一瞬だけ視線が交わり、けれどそれもすぐに、枠の外に流れていく。