5-2
倒れ伏した茶髪の脇を軽く蹴り、気絶したことをしっかり確認してから、スプートニクは握ったリングとぐにゃぐにゃのシルバーワイヤーを放り捨てた。勿体ないが、癖がついたワイヤーで品を作ることは難しい。そもそも人を絞めたワイヤーで作った商品など、誰が買ってくれるというのだろう?
男の首元と爪には、抵抗に掻き毟ったせいで血が滲んでいる。意識こそないがうわ言のように「助けて、殺される、助けて」と唸っているあたり、生きてはいるようだった。もとより加減はしていたから、死ぬことはまずないだろうと思っていたが。
とにもかくにも、これで二人。
「さァて」
勿体ぶるようにゆっくりと、残りの一人を振り向く。
目が合うと、男の肩が大きく跳ねた。仲間二人の惨状を見たせいか、すっかり腰も引けている。助けを求めるようにあたりを見回し、そして自分の手元に人質がいることを思い出すと、大きく叫んだ。
「ち、近寄るな! 近寄るんじゃねェ、こっ、ここ、こいつがどうなってもいいのか!」
抱える腕は縋るようで、刃物を突きつける手も刃先も大きく震えていたが。
けれど今は男のことはどうでもいい。スプートニクは、人質に取られたままの従業員を見る。こちらもまた、平静ではないようだった。
「よォ、クー。大丈夫か」
声をかけるがその目は焦点が合っていない。おそらくは彼のことを見てもいない。
彼が倉庫へたどり着くまでに余程怖い目に遭わされた、というよりは、いつかの恐怖を思い出したのかもしれないなと思った。それだけ今現在の彼女のそれがいつかの目に似ていたわけである。
なんでもない様子を繕って、彼女の愛称を、もう一度呼ぶ。
「どうした、クー。怖いことでも思い出したか」
「……すぷーとにく、さ」
すると首が少し動いて、ようやくクリューは彼を見た。しかし声は震え、ひどく掠れている。彼の名を忘れてはいなかったようだが。
そんな彼女に、スプートニクは気遣う――
「お前は馬鹿か」
わけでもなくいともあっさり暴言を吐いた。
それは彼女にとって予期しなかった言葉だったのだろう。ぎょっとしたような表情を見せる。
「ばっ」
けれどスプートニクはその混乱が収まるところを待たない。いつものように淡々と毒舌を重ねていく。
「馬鹿だから馬鹿って言っただけだろうがこの馬鹿従業員。何を知らん男の腕でガタガタ震えてやがる。おにィさんはお前をそんなふしだらな娘に育てた覚えはありませんよ」
「だ、だって」
「だっても何もない。いいかよく聞けよ、『なんで怯える必要がある』。あのときお前を助けたのはこの俺だぞ。その俺が今回も今回とて直々に助けに来てやったのに、何を恐れることがあるんだ、お前は」
言い訳は一切、挟ませない。彼の放つ弓矢のような言葉に、疑う隙も与えない。
そして駄目押しとばかりに、左腕を大きく開いて、ふてぶてしく笑って見せる。
「それとも何だ、お前はもうあの頃のことを忘れたか。いやはや薄情だねェ――過去の記憶に怯えるお前を、毎晩毎晩熱ゥく抱いて慰めてやったのは他でもないこの俺だというのに」
「だっ」
効果は覿面だったようだ。つい先ほどまで青ざめていた彼女の頬がみるみる赤くなっていくのが、遠目からでもよくわかる。
ついに我慢のならなくなった彼女が、いつもの調子で叫び出した。
「だ、抱くって――ひ、人聞きの悪いこといわっ、言わないでください! ただ、ただ怖くって眠れなかったから、何度か添い寝してもらったってだけじゃないですか!」
「おやァ、俺は『眠れないお前を毎晩抱きしめて添い寝してやった』って意味で言ったんだがね。いやまったく何を想像したのかな、クリューさんはえっちだなぁ」
からかうように笑ってみせると、見開かれた目が吊り上がった。表情に血が通い、猫であったら髪が逆立たんばかりの形相になる。
スプートニクは思う。――それでいい。
「スプートニクさんのバカ!」
「おうおう。上司に向かって言うこと言ってくれるじゃないか」
そうでなければ可愛くない。
……そんなことは口が裂けても言わないけれど。
「さて」
息を吐くついでに呟いて、物入れから引き抜いたのは先端の尖った精密鑢を一本。その切っ先の鋭さに、男が目を剥いた。
「そ、それをどうする気だっ」
「さァて、どうする気なんだと思う?」
男の怯えようが面白くて仕方ない。手遊びにくるくると回したあと先端を真っ直ぐに男へ向け、「これなら目も貫ける」などと言ってみせると、男は短く悲鳴を上げた。
鑢を構えた姿勢のままで、さてどうしてやろうか、と考える。口ではそう言ったものの、男はクリューを抱えているわけである。狙いには自信があるが、放り投げた瞬間、クリューや男がその場から一切動かないという保証はなく、飛び道具を使うには少々心もとない。はたしてどうするのが最適か――と。
「いい加減……離してっ!」
「はぐぅっ!?」
彼が行動を決めるより早く、なんとクリューが男の腕にがぶりと大きく噛みついた。予想だにしなかったところからの攻撃に、男が妙な悲鳴を上げつつ腕を引く。
解放された彼女は一目散にスプートニクのもとへ駆けてくると、彼の胸に飛び込んだ。
「スプートニクさん!」
「よくやったよくやった。怪我はないか、腹は痛くないか?」
「大丈夫です」
固く抱きしめ返し、腕を括った縄を切り。ついでにわしわし頭を撫でてやると、目を細めて嬉しそうにした――が直後、何か不快なことでもあったのか、ぷう、といつものように頬を膨らませる。
どうしたのかと思っていると、不満そうな表情のままスプートニクを見上げて言った。
「不味かったです」
どうやら男の腕の味が不服だったようだ。が、
「そりゃそうだろう。旨かったら大変だ」
何せ彼女は、自分のところの従業員であると同時に同居人でもあるのだ。人肉嗜食の気があって、毎夜寝込みを襲われる心配をしなくてはならないとしたら堪らない。
――それはともかく。
「ひ、ひゃぁぁっ」
自分の身を守る術がなくなったことに気付いた男は、こちらに背を向け慌てて扉へと駆けだした。しかし、
「させるか」
それをおめおめ逃がすわけがない。スプートニクはクリューを離すと大きく踏み込み、握った鑢を一本、水平に投擲。それは男の臀部に見事突き刺さり、男はあっさり転倒した。パンツにじわじわと血が滲んでいく。
腰でも抜けたかそれとも鑢が予想した以上に深い傷を負わせたか、男は立ち上がれなくなったようだ。それでもこちらを振り返ることなく、体を引きずって必死に出口へと向かう。這ってでも逃げようとするその逃走精神には感服するが、それはスプートニクにとっての情状酌量の要素にはならなかった。
歩けない人間に追いつくのは、何よりも簡単だった。
スタスタと歩いて行って、男の肩に手が届く一歩手前で足を止めた。自身に覆い被さる影でスプートニクの存在に気づいたか、男が這うのをやめ、恐る恐るこちらを振り返る。目が合ったのでにっこり笑ってみせると、「ひぎゃあ」とまた悲鳴を上げた。失敬なことだ。
このような非道な事件に当店の従業員が巻き込まれ非常に遺憾である、というようなことを、やはり彼らのような低能にもわかりやすいよう翻訳して伝えてやる。
「おう、テメェよくもうちの従業員を足蹴にしてくれたなァ」
「す、すみませ」
「うるせェよ見てわかる通り俺は今お怒りなんだ、テメェの声なんか聴きたかねェことぐらいわかるだろうが黙ってろ。ああそうだ、テメェの腹は蹴ったら何が出るんだ? よっぽどいいもんが出るんだろうな、え?」
「ぐ、げェっ!」
思いきり腹を踏みつける。と男は、蛙のような声を上げた。
「ンだよ、テメェが吐けるのは唾液だけか? つまんねェ冗談やめろよ、よっぽど金になるもん吐くんだろ――そうだ。何も出せねェってんならこいつでも飲んでもらおうか。二、三十本も飲めば一本くらい吐けるよな、ん?」
そして腰から取ったのは、先ほどのリングサイズゲージの余り。触れるとリングがざらざらと金属音を鳴らし、その音で男がさらに委縮する。情けなく震える姿を見ながら、スプートニクが、ゲージを束ねたワイヤーの接続部に指をかけた、そのとき。
どん、と背中に衝撃を受けた。人一人に寄りかかられているような、重たい感覚。しかし仲間は全員眠らせたはずだ。まだ残党がいたようには、と思いながら振り返ると、
「や、やめてください、スプートニクさん!」
クリューが彼の背中に縋りついていた。
慌てて駆け寄ってきたのだろう、必死な形相で、固く彼にしがみついている。
「クー?」
「あの、確かに、私、その人たちに誘拐されて、怖かったけど、痛いことされたけど、でも、でも、それはスプートニクさんがその人にひどいことしていい理由にはならないです! そういうのは、警察局さんのお仕事ですっ、だからスプートニクさんがいじめたら駄目ですっ、私はその、大丈夫ですから……!」
「じ、嬢ちゃん……!」
まるで女神か救世主でも現れたかのように、涙の浮く目で彼女を見上げる男。調子に乗るなと腹立たしく思うが、それへの仕置きはあと回しである。
まずはこの、愛すべき従業員をどうにかする方が先決だ。
小さく息を吐いて、加虐欲は一旦腹の底へ収納。それから優しい笑顔を作り、ぽんぽん、とクリューの頭を軽く撫でてやった。
「そうかそうか、クーは優しい子だなァ」
「そ、それほどでもな」
「でも駄目」
「……え?」
ぽかんとするクリューの頭を抱き寄せると、頬に素早く口づけた。
何をされたのかわからずきょとん、とするが、すぐに理解したようだ。その手の悪戯に慣れていない彼女は、みるみるうちに顔を耳まで紅潮させる。
「は、はわ、はわぁあぁあぁぁぁっ」
「いい子だからもうちょっとそこで大人しくしてな」
そして耳朶に唇を寄せ低く囁くと、「ひわっ」と恐らくは意味のない声を吐いた。
回れ右させ、軽く肩を押す。クリューは覚束ない足取りで三歩ほど行くと、背を向けたままぺたんと座り込んだ。
救世主の呆気ない退場により、またも絶望が男の顔を彩る。
「も、もうしません、すみません、だから、だから許して……!」
「何を勘違いしてんだ」
呆れ、呟きながら、罫書き針を一本取り出し振り下ろす。
スプートニクの握ったそれが、男の右手をいともあっさり貫いた。
「ギャァァアァァアァァァァッ!」
「あァうるせェうるせェ」
小指で耳を掻きながら更に取り出し、もう一本。今度は左手を平から甲へと貫いた。悲鳴はさらに大きくなる。
「いいか、俺は警察の治安維持活動に協力する気なんかサラサラねェし、テメェが再犯するかしないかなんて更にどうでもいいんだよ。重要なのはな、『テメェらがどれだけ俺を怖がってくれるか』だ」
告げてスプートニクは、腰袋から手持ちの精密鑢を取り出した。握った鑢の先端は、どれもしっかりと尖っている。
「手持ちは残り九本。さァ、お前の体はあと何本の鑢を耐えるかな」
男の煩い悲鳴を聞きながら、スプートニクが二本目を振り上げた――そのときである。
「そこまでです!」
バタァン、と。
派手な音を立てて、扉が開いたのは。
「ここは警察局が包囲しています! 人質を解放し、武器を捨て、投降しなさい!」
そして倉庫じゅうに、女性の声が響き渡る。
何度も聞いたことのある、凛とした、アルトソプラノの声。
差し込む光の中、片手を腰に当て、朗々と口上を述べるのは、警察局特殊警備隊の面々を引き連れた、警察局リアフィアット支部の『敏腕警部』、ナツだった。
「さもなくば……って、あら……?」
しかし口上は途中から弱々しくなり、やがて途切れる。恐らくは倉庫内の様子が、想像していた様子と異なっていたからだろう。
きっと彼女らが描いていたのは、拘束され怯える人質と、それを盾に取る犯人たちの姿。しかし実際の倉庫の中は、目を回して転がる男たちと、脅されている男と、呆然と座り込む人質、そして。
武器を構え、嬉々とした表情で男を脅迫している青年が、一人。
「えっ……と?」
「あァ、ええと……」
疑問符を浮かべるナツと目が合って、スプートニクは曖昧な笑みを浮かべた。
状況説明をしなければ、とは思うが、男二人を昏倒させた道具は紛れもない彼の商売道具で、そもそもスプートニクは今ここにいるはずのない人間である。さすがの彼も咄嗟のことで、上手い理由が思いつかない。
しかし混乱しているのはナツも同じなのだろう。驚きに上手く言葉が出てこないようで、彼を指さしたままぱくぱくと口を動かす。
「ええと、まァ、なんだ……」
少し、迷ってから。
スプートニクは小首を傾げて愛想笑いなど作り、取り敢えず思い浮かんだことを告げた。
「……天気が良かったから、ちょっと散歩に?」
言い訳になってないな、と思ったときには時遅く。
「か、か、か――、確保ぉっ!」
「オイ馬鹿ちょっと待――」
スプートニクの抗議の声は、突入した隊の靴音に掻き消され。
そして始まる、警察局特殊警備隊対スプートニクの大捕物。
(続く)