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宝石吐きの女の子  作者: なみあと
Ⅳ 宝石商会
78/277

5-5




 そこからの流れは、まさしく見事なものだった。

 ――ユキの手から何か小さなものが、天井目掛けて高く跳んだ。突如目の前を下から上へ行った影に、彼女を抱えたラッシュの意識がユキから逸れる。

 生まれた大きな隙を見逃してくれるほど、ユキは優しい人ではない。彼女はその瞬間に、彼の、刃物を握った右腕を力一杯自分の方に引き寄せた。刃物の先は彼女の喉元に突きつけられている。普通に考えたら自殺行為だ――が、彼女の思惑はそんなところにはなかった。

 ユキの唐突な行動に、ラッシュは反射的に腕を、彼女によって力を加えられたのと逆の方向へ離す。刃物はユキの首に触れる直前まできて大きく遠ざかった。それは取りも直さず、彼女に自由を与えたことになる。ユキはその場に素早く座り込んで、するりと彼の拘束から抜け出した。

 飛び上がった何ものかは天井近くに到達すると、光の加減か一瞬キラリと反射して、重力に引かれ落ちてくる。やがて、座り込んだユキの右手に音もなく収まった。

 右手のそれを胸ポケットへ捩じ込みながら下半身のバネを使って即座に立ち上がり、ユキはラッシュに相対する。投げ飛ばしてやろうと思ったのか、右手で彼の右腕を掴もうとした――が、すぐさま路線変更して左手のバインダーを突き出す。直後、ラッシュの左手の刃物が、バインダーの裏面を傷つけた。尻ポケットから抜いたのを見逃さなかったようだ。

「こ、こ、このアマ……!」

「あら、嫌だ。その『アマ』にしてやられていらっしゃるのは何処どこ何方どなた?」

 わざわざ煽らなくとも。――思うが、彼女の性格上、致し方あるまいか。

 隠し持っていた武器すらバインダーによって防がれたことにいたく狼狽しながらも、出口を探して辺りを見渡すが、壁に寄りかかってぼうっと成り行きを見守っているだけのスプートニクを見つけると、何故か悔しそうに歯噛みした。たとえ彼女を上手く欺いて逃げ出したところで第二波スプートニクが止めるとでも思ったのか。どうしたところで彼女から逃げられない現状、そんなものは考える必要のない憂慮だというのに。

 ユキは笑った。嗜虐的な瞳で。

「さて」

 呟き、バインダーの影で懐に右手を突っ込む。そして素早く何かを取り出すと、彼女は一歩踏み込んで、それを彼の顔目掛けて突き出した。

「昔の人は言いました。ペンは剣よりも強し、とね」

 突き出したものは万年筆、その先には蓋がない。目にでも突き刺されたら大怪我だったろうが、ラッシュは素早いそれを間一髪避けてみせた。汗を滲ませながらもニタリと笑う――けれど残念ながら、ユキはその動作すらも見抜いていた。

 続いたユキの攻撃に、グェ、と蛙の潰れたような声を上げたのは、ラッシュではなく、ただ見ていただけのスプートニクだった。それを受けた彼自身には、声を上げる余裕など到底なかったろう。

「急所ぶら下げてるなら、ぶら下げてるなりの態度の取り方ってものがあるでしょう?」

 世界がひっくり返るような吐き気と痛みは、スプートニクにも覚えがある。「えげつねェ……」とつい漏れた呟きは、はたして彼女の耳まで届いていたかどうか。躊躇いなく蹴り抜かれた踵が自身から離れると、ラッシュは腰を折って股間を押さえた。その姿勢を、『隙』と言わずして何と言おう。ユキは満面の笑顔で、高く高く、足を振り上げ――彼の頭に向けて落とした。女の力のそれである、ラッシュを昏倒させるには足りなかったが、身を床に沈ませるには事足りた。

「ぐ、う……」

「男の喘ぎ声ほど聞いて不快なものはないなァ。……さて」

 背を丸めて蹲った彼の顎を、ユキは爪先で持ち上げる。向いた顔は涎と涙に塗れ、またびっしりと脂汗を掻いていた。

 「スプートニク。拘束」と、短い指示。スプートニクは念の為にと持ってきていた荷造り紐を鞄から取り出して、二人の方へ歩み寄る。ラッシュは抵抗しなかった。

 やがてユキが胸ポケットから取り出したのは、万年筆の蓋。先ほど天井に向けて放り投げられたものはそれらしい。敵が完全に行動不能になったのを確認してから、彼女は万年筆ぶきの先を蓋に収めた。

 にっこりといかにも嬉しそうに微笑んで、ユキは「それでは」と仕切り直しの言葉を告げる。

「尋問を開始しようか。仲間はどこにいるの」

「な、仲間……?」

「しらばっくれてもいいことないよォ。答えろ」

 両手両足を縛られ転がされたラッシュの頬を、ユキのつま先が脅すように撫でる。

「魔法使いの仲間が数人、いるだろう。あれの動向を監視させたのはアンタの差し金じゃないの」

 彼女の言葉に、はっと思い出す。――そうだ、あの魔法使いたち。

 そのスプートニクの様子を見て、ユキはにこりとも笑わず「言っておいて良かったでしょう」と言った。「そういうところが迂闊なの」とも。……まったく、耳に痛い。

 ともかくラッシュは、その問いかけに、千切れんばかりの勢いでかぶりを振った。

「し、知らない」

「あァ?」

 返された気に食わない答えに、ユキの声が低く、そして不機嫌そうに濁る。同様に眉間の皺も深くなり――ラッシュはとうとう悲鳴を上げた。

「本当だ! し、信じてくれ、仲間なんていない!」

「なら、あの魔法使いは――」

「警察だ! 大人しくしろ!」

 その続きを、はたして彼女は何と言おうとしたのか。

 しかしそれを聞くことは叶わなかった。派手な音ともに入口扉が開かれ、朗々と響き渡るは男の声。次いでどやどやと、その仲間が入店する。警察局の到着である。

 俄かに騒がしくなる室内で、一つ舌打ちが聞こえた気ような気がしたが、それが錯覚かどうかを確認することは叶わなかった。その主であろう彼女はスプートニクが何事かを言うより早く、警察局の方に向かって駆け出していたからだ。つまづきそうな、いたく覚束ない足取りで。

「お、お巡りさァんっ」

「大丈夫ですかっ」

「は、はい。でも……怖かった……」

 眼鏡の反射のせいで分かりにくかったが、駆けて行った目尻には涙すら滲んでいたようにも見える。

 落ち着いて、との警察官の言葉に、ユキは二度ほど深呼吸をして、それから。

「あの、す、スプートニク様が、助けて下さったんです。私、ナイフを向けられて、無我夢中で、よく覚えていないんですけど……あ、でも確か、バインダーで、あの男を……き、きゃあっ」

 バインダー裏の深々と抉れた刃物傷に、今気づいたといった様子で悲鳴を上げた。「一歩違ったら、私が……」と青褪め身を震わせるユキに、皆が「危ないところだった」「無事で良かった」と慰めの言葉を贈る。誰一人として、仕掛けたのがその娘の方だとは思っていないようだ。知っているのはユキとスプートニクと、ラッシュ当人のみ。

 そして彼女は事実そんなことなど、口が裂けても言わないだろうし、ラッシュの証言は戯言と扱われて終わりだ。

 と、なれば。

 ユキがおずおずとこちらを向いた。気弱そうな仕草と裏腹に、瞳だけはある一つの意思を雄弁に語っている。

 スプートニクは肩を竦めた。――わかっているとも。

「暴れたユキさんの足が、彼の股間を打ったんですよ。彼には不運なことでしたが、刃物を持っていたのだから正当防衛でしょう。その隙に私が捕らえました」

「スプートニク様……」

 バインダーの影で親指を立てるな。

 警察官がスプートニクの元へ、スプートニクの無事とラッシュの身柄を確保しにやって来る。ラッシュが立ち上がらされ、連行されていくのをぼんやり眺めていると、視界の端でユキがはっと顔を上げた。

 その視線の先を追う。そこにいたのは、

「お養父とう様!」

 彼女の養父、クルーロル。

「無事だったか」

「はい。ユキは皆様に助けて頂きました。怪我一つありません」

 きらきらと目を輝かせ、素直な娘として立つ彼女。

 良く出来た演技に周りは微笑ましいものを見るような瞳をするが、無論のことながらそんなもの、クルーロルには通じない。

「お前ではない。相手だ。また、過剰にやったんじゃないのか」

「あら、嫌だ、お養父様。こんなときにご冗談なんて」

 くすくすと笑うユキの、左手だけは忌々しそうに固く握られている。

 それ以上彼と話すのは『被害者』として得策でないと思ったが、彼女は視線をスプートニクへ向けた。

「そうだ、スプートニク様、お怪我は」

 そしてクルーロルの元を離れ、今度はこちらへやって来る。上機嫌そうなユキを、スプートニクへはにっこりと微笑みながら迎える――が。

 彼女はスプートニクの眼の前で立ち止まると、彼のネクタイを握り、強く引いた。力づくで引き寄せた耳へ、ぼそりとこう告げる。

「そういやアンタ。『卑怯な』って言いながら欠伸あくびしたでしょ」

「スンマセン」

 噛み殺したつもりだったのだが、ばれていた。

 とはいえそれは彼女にとって些細なことであったようで、謝罪を口にするとそれで気は済んだようだった。ネクタイからすぐに手を離してくれる。

「さて。私はこれから少し仕事をするよ。あれの証言も気になるし、詐欺師の片付けもあるし」

「俺も行った方がいいか。何か手伝えることがあれば」

「や、アンタはクリューちゃんのところ行ってあげなさい。せっかく旅行気分で来たのに、ちゃんと構ってあげてないんでしょう?」

 言われ、商会に残してきた彼女のことを思い出す。あれはまだ、加工室で涎を垂らしているだろうか。

「仕事だってこたァわかってるよ、あいつだって」

「そうやって嫁さんの優しさに胡坐掻いて仕事人間やってて、ある日帰宅したらもぬけの殻だった――なァんて話、この業界じゃ珍しくないよ。いいからここは姉さんに甘えて、アンタは家族サービスしておあげ」

「誰が嫁だ誰が。……けどまァ、わかったよ。何かあったら言ってくれ」

「あいさ。それじゃね、寄り道なんかするんじゃないよ」

 軽い調子で手を上げて、やはり軽い声音で挨拶すると彼女はくるりと背を向ける。警察官のそばに寄り「お世話になりました」と角の立たぬよう挨拶し、一言二言交わすと、そのまま野次馬の中に紛れて行った。猫を被り、目立たぬように生きる術を身に着けた彼女には、人ごみに紛れることなど造作もないことだ。

 ――さて。

 スプートニクは大きく伸びをした。ユキが後片付けをしてくれるというのなら、ここにはもう、用はない。

 彼女の厚意に甘えて、一度、商会に帰るとしよう。

 寂しがりな従業員が、きっと首を長くして、自分の帰りを待っている。



     *



 白いワンピースを着ている。

 やけに風通しがいいのは、それ以外の何も身に着けていないからだ。

 暗い廊下を裸足で歩いている。不安に思って歩みを止めると、急かすように小突かれる。

 無言の誰かに連れられて、たどり着いたのはやはり暗い部屋。

 暗いのではなく黒いのだと気付くまでにそれほど時間はかからない。



 転寝うたたねから目を覚ましたクリューが見たものは、まず大きなバスケットだった。

 見渡せばそこは、しんと静まり返った室内、それなりに整頓された器材の数々と、机の端に置かれた幾枚の用紙。いずれも眠る前に見たのと何一つ変わらぬ光景だ。

「……?」

 その中でクリューが不思議に思ったのは、自分のいる場所に関してではない。朝方に目覚めたときとは違って、今度はきちんと覚えていた。スプートニクに朝ご飯を届けに商会へ来たのだ。そのことでは、ない。

 窓を見る。薄手のカーテンがかかっているが、昼間らしくそれなりに明るい。

 次いで、体を見下ろす。服はきちんと着ている。靴下も、靴もきちんと。

 口の端に垂れた涎を拭うのも忘れて、クリューはぼんやりと呟いた。

「変な夢、見た……」

 とても短い夢。けれどどうにも不愉快で、不安になる夢だった。

 夢だとわかった今も、腹の底を悪戯に撫でるような不快感が湧いてやまない。これは――

「……うーちゃんがいなかったから、かな」

 怖い夢を追い払ってくれる、大事なぬいぐるみ。

 そんなのはただのスプートニクの嘘で、実際にはそんな不思議な力はないと先日判明したが、信じてきた月日の長さのせいか、やはり寝るときは隣にないと不安になる。そして現にぬいぐるみのない今、妙な夢を見たわけである。きゅう、と心臓が縮むような感覚がした。

 どうにも人恋しくなって、主のことを思う。スプートニクは、まだ顧客と話し合いの最中だろうか。

 ポシェットから時計を取り出してみると、あれから一時間は経っていた。確か、「応接に通す」とか何とか言っていたが、様子を見にいったら、怒られるだろうか……思いながら戸を見たのと、丁度同時に。

 コン、コン。

 二度、ノックの音がした。スプートニクが帰ってきたわけではないだろうが、留守を預かる身としては。慌てて立ち上がり、返事をする。

「はいっ」

「スプートニク宝石店のクリューさんは、こちらにいらっしゃいますでしょうか」

 駆け寄って戸を開けると、そこに立っていたのは一人の女性。ここに案内したのとは違う人だったが、服装はその人と同じだった。商会職員としての制服。

 微笑む彼女を見上げ、「私です」と答えると、彼女は微笑んで一通の封筒を差し出した。通常より小さい名刺大のそれだが、糊付けがされていない。

「先ほど受付に、スプートニク様の使いと名乗る方がいらして、そちらのお手紙を預りました」

 開けると中には、一枚の地図。赤丸で記された場所は、ここから遠くない。丸の隣には『ここへ』と一言ある。来い、ということか。

 知らぬ街を行くのは少し不安だが、逡巡することはなかった。商会まで迷わず来れたわけだし、スプートニクも、そのことをきっと評価してくれていたのだろう。素直でない人だから、「商会までよく一人で来れた」と褒めるのが気恥ずかしかっただけなのだ。きっとそうだ。

 だからこそ、こんな手紙を寄越したのだろう。

「あの、外出したいんですけど、加工室、鍵……」

 彼女はすべてを聞くまでもなく理解してくれたようだ。クリューの言葉に、小首を傾げた。

かしこまりました。お戻りの際には受付にお声掛け頂ければ開錠致します」

「ありがとうございます」

 ポシェットは肩から掛けている。貴重品は特にないはずだし、書類と道具は戻ってきてからスプートニクが片づけるだろう。職員が、ポケットから取り出した鍵で施錠し終わるのを待って、礼をもう一度述べると、クリューはスプートニクに会うために、意気揚々と歩き出した。

 ――彼女の眠った、机の上。

 残された置き文の、『待機』の二文字に気付かないまま。




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