5-3
一人廊下を歩きながら、スプートニクは、「言う必要はなかったな」と独り言ちた。
あの宿の食事が美味いのは、スプートニク自身よく知ったことだ。だから、先ほどクリューに告げたのは、紛れもなく余計な言葉だった。
しかし。
無理難題を押し付けられ、あの女には相変わらずの対応を受け、必死に装飾品を加工して。
命令違反はともかく、また寝起きにビンタもともかく、疲労困憊であったところにわざわざ朝食を持って会いに来てくれたというのは、不覚にも染みた。一人でいるのが寂しかったとか暇だったとか、恐らくはそういうところが本音なのだろうが、それでも自分を恋しがってくれたということに――
「何だろうなァ」
ハァ、と大きなため息をついた。
「まだ『父性』って歳でもねェんだけどな」
腹に生まれた曖昧な感情をその一言で吐き出して、スプートニクは商人としての顔になる。
「失礼します」
ノックをして、戸を開ける。
予想通り、男が一人ソファに座っていた。昨日見たのと同じ、琥珀の瞳。やや前のめりの格好で、指を忙しなく動かし、足は貧乏揺すりを繰り返している。
名は、ラッシュと言ったか。
彼がはっと顔を上げる。入ってきたのが昨日会った宝石商だと知ると、彼はスプートニクを憎々しげに睨みつけた。
「遅いぞ」
「お待たせを致しまして大変申し訳――」
「いいから、指輪は?」
開口一番向けられた文句に対する思いを隠し、なんとか謝罪を述べようとするものの、それすら遮られた。そのせいでスプートニクの不満の目盛は更に嵩を増すが、彼はそんなもの意にも介していない様子で、口角泡飛ばしながら告げる。
「出来たのか。出来ていないのなら相応の賠償を」
「こちらに」
しかしそれを、今度はこちらが遮ってやった。意趣返しという奴だ。
それを彼がどう感じたかは知らない。そこまで察してやる余裕は、心身ともに疲労困憊状態のスプートニクにはもうなかった。ただ職務を全うすること――『下手を打たない』ことに気を配るだけで精一杯だった。
にっこりと笑って、「ご確認をお願いします」と告げる。彼はちらちらとスプートニクを伺いながら、箱を取り上げた。慎重な手つきで蓋を開け、
「……おお」
中を改めると彼は、ため息に似た声を上げた。美しく輝く石に対してか、意匠に関してかわからないが、どうやら突貫工事のそれは彼の気に召したようだ。
……しかし『そんなもの』に対し感動を覚えられても、スプートニクとしては笑いを噛み殺すしか出来ない。
スプートニクは彼が何かを言うより早く、書類を数枚鞄から取り出し、机の上に置いた。
併せて、ペンも。書類の一枚目には『同意書』とあり、署名欄が設けられている。
「つきましては、こちらにご署名を」
「……これは?」
「早急に仕立てたものであること、またものが婚約指輪であることから、相応の金額のものになってございますので、受領の署名を一筆お願いしたく。……ああ、誤解なきよう。勿論お代金はお客様からは頂きません。お客様を謀ったあの何とか言う詐欺師が逮捕され次第、そちらへ請求を出す方針です」
「成る程。そういうことなら」
彼は納得して、署名欄にペン先を走らせた。――何枚も重なった書類の中身に、目を通すこともなく。
口先だけの礼を告げ、スプートニクは手早く書類を鞄に戻す。
ぼんやりと指輪を見つめていた彼が、不意に口を開いた。
「ちなみに」
「はい?」
自身の行動に何か不自然な点があったか、仕草を見咎められたか。
思いながら返事をするが、彼の思惑は違っていた。ちらりとスプートニクを見、しかしすぐさま視線を床に落とすと、ぼそぼそと、こんなことを言う。
「その詐欺師は……逮捕の目途は、立っているのか」
そんなことか。
どうあしらおうか、と考えて――その瞬間、上手い『餌』を思いついた。適当な言葉で帰すくらいなら、せめて確実性を上げておこう。
「あまり捜査関係情報を漏らしては、私が関係各位に叱られてしまいますが。ただ、そうですね、お客様も被害者でいらっしゃいますし……特別に」
唇に立てた指を当て、くれぐれも内密な情報であることを印象付けてから、答える。
「私どもの見立てでは、遅くとも本日中には手が後ろに回るのではないかと思っております」
「き、今日中?」
「はい」
スプートニクの言葉に、彼は目を剥いた。
「早くはないか?」
「いえ。警察局自身、とうに件の詐欺師の証拠と居場所を掴んでおり、逮捕の機会を伺っていたと聞いておりますが」
「その情報は本当なのか」
「私が直接警察局から聞いたわけではありませんから、絶対とは言えませんが、信用できる筋からの情報ではあります」
曖昧に濁しつつも、確実性を強調してやる。
すべて、嘘は言っていない。腹の底に湧いた笑みから、毒気を濾過して表情にする。
「市街への逃亡の可能性もございません。管理局では既に警察局の張り込みが行われているそうですよ」
「……そうなのか」
「いやいや、本当に、この街の警察局支部は有能でいらっしゃいます。全ての支部がそうであれば、悪事などこの大陸から一掃されましょうに」
心にもない賞賛を吐くのは得意だ。
が、彼はスプートニクのそんな言葉を気にかけることはしなかった。気にかける余裕がなかったのかもしれない――いずれにしろ彼は俯いて、何かをじっと考えていた。
「緊張されていらっしゃる?」
自身の手に視線を落とした彼を、覗き込むように見る。と、彼は弾かれたように顔を上げた。瞳には怯えの色が、ありありと映っている。が、スプートニクはそれを、結婚の申し込みを前にした故の緊張と『捉えてやった』。
安心を誘うように、にっこりと、微笑んでみせる。そこに侮蔑が混じらないよう、たいそう留意しながら。
「大丈夫です。当店の指輪には、どんな姫君も魅了する効果がございます」
「……そうか。それなら、安心だ」
口ではそう言うが、頬は青褪め、また声はわかりやすく震えている。
はてさて彼が考えていることは、求婚の言葉だろうか。それとも婚約者の喜ぶ顔を? そんな文句を思いついて、スプートニクはつい笑う。
いつの間にやら、彼の貧乏揺すりは止まっていた。
*
『仕度』は終わった、ここからが本番だ。
エントランスで依頼人を見送ってから――見送りついでに「成功をお祈りしております」などと言葉もつけてやった――、スプートニクは足早に加工室へ続く廊下を行く。
残りの問題は、クリューに何と言って待機を命じるか、である。下手な説得では「私もついて行きます」と言い出しかねない。そんなことを思いながら、たどり着いた部屋のノブに手を掛ける。
しかしその憂慮がただの杞憂だったことは、戸を開けた直後に知れた。
部屋の中には、机に突っ伏し、すうすうと穏やかな寝息を立てている少女の姿。
「……寝てるのか」
昨晩眠ったのは日付が変わってからだったのだ。無理もない。こちらはまだ気を抜けないというのに、主を差し置いていい御身分だ――思い、でこぴんのひとつもしてやろうかと手を近づけるが、直前でやめる。それで目を覚まされてもことだ。
代わりにその手で、机に転げたペンを取る。手近に落ちていた紙を引き寄せると、
「少し出かけてくる。すぐ戻る。待機」
と書き付け、少し悩んでから「土産、買ってきてやるから」と『飴』を追記。横に署名を加えて、眠る彼女の脇に置いた。
「さて」
穏やかな寝息に誘われ、産まれかけた睡魔を振り切るように、スプートニクは大きく伸びをした。
「ご主人様は、もうひと頑張りしますかね」