3-1(10/4追加)
手のひらから何かが滑り落ちていく感覚がして、クリューははっと目を覚ました。
慌てて、離しかけた何かをぎゅっと握り直す。柔らかいそれは、兎の縫いぐるみの右腕だった。眠るときはいつも一緒のそれ。どうやら寝返りを打った拍子に位置がずれ、ベッドから落ちかけたらしい。現にぬいぐるみは、既に半ばベッドから飛び出して斜めに傾いている。クリューが支えなければ、きっと哀れにもベッドの下へ転げ落ちていただろう。
「危ない、危ない」
呟きながら、引き上げる。普段は寝起きのあまり良くないクリューだが、驚きによって目覚めたせいか、目はぱっちりと冴えていた。しかし、
「……あれ?」
体を起こす。そこは自分の部屋ではなかった。
部屋の中にはベッドが二つ。握っている縫いぐるみこそいつものそれだが、景色はまったく見覚えのない――いや。
「そうだ、商会にきたんだっけ……」
もう一度、うつ伏せで枕に頭を落とす。ぽふ、と音がした。
スプートニクの外出後、ゆっくり眠っていたせいで、気分はすっかり落ち着いた。
しかし散々悩まされた吐き気がなくなると、いろいろなことを思い出す。全ては出発数日前、友人のアンナに「しんこんりょこう!? しんこんりょこうなのねクリューちゃん!」と散々からかわれたせいだ。クリューとしてはそんなつもりは全くないのに、アンナの言葉のせいで、馬車の中ではついテンションが上がってしまい。
「アンナのせいだよっ、もうっ」
ここにいない友人に向け、文句を言う。そんなものが届くことはないとわかっていたし、そもそも本当に悪いのは、前日遅くまで眠れなかった自分のせいということも、重々わかっていたけれど。
荷物の整理が終わらなかったというのもあるが、一番の原因は感情が昂っていたということだ。商会に連れて行って貰えるということ、一人前の従業員として認めてもらえたような嬉しさ。
加えてアンナの『新婚旅行』発言である。本当にそうと思ったわけではないが、それでも久しぶりの二人の旅、同じ部屋でする寝泊まり、非日常。何かこう、決して何とは言わないが、何かこう。何かあってもおかしくはないのではないか! と考えると、想像ばかり止め処なく溢れ出して――しかし現実とは、ああなんと無情なり。
「ないよ。ないですよぅ……」
呟いた言葉は枕に溶けた。実際は馬車に酔い、スプートニクには呆れられ、行くはずだった商会には連れて行ってももらえず。
縫いぐるみを抱いて、ひとつ溜息。そのとき、はた、と気付いた。
「スプートニクさん?」
部屋の中には一人きりで、隣のベッドは使われた形跡がない。
窓の外は真っ暗だ。だというのに、まだ戻っていないのか。商会での話し合いが終わったら戻ってくるから、そうしたら食事に行こうと言っていたのに。さては、忘れてしまったのだろうか。
忘れてしまって、クリューの代わりに、クリューの知らない、商会の女の人と。
けれど文句を言う気にはなれなかった。今回に限っては、悪いのは自分自身である。勝手に体調を崩して、寝込んで、到着まで遅らせて。管理担当の人に何か文句の一つも言われたやもわからない。――自分のせいで。
じわり、と目の奥が熱くなる。こんなことで泣くわけにはいかない、と顔を上げる、と。
窓枠の高いところに、一枚の紙が貼ってあるのを見つけた。小さな紙片、何か書いてあるようだが、窓の外に向いた面に書いてあるようで、こちらからはうっすらとしか見ることができない。
あれは一体なんだろう。気になってベッドを下りた、ちょうどそのとき。
部屋の外で、物音がした。
懐の時計を取り出す。日付こそ回っていなかったが、もう遅い時間だ。
時計を内ポケットに戻しながら、スプートニクは部屋の中にいるであろう自身の従業員のことを思い、呟いた。
「もう、寝てんだろうなァ」
眠い目を擦り擦り待っていてほしかった、というわけではない。むしろその方が何かと面倒になることはわかっていたし、だからそれは本当に、他意のないただの呟きだった。
フロントで貰ってきた鍵を使って錠を開け、入る。思った通り、玄関部分も、居間部分にも明かりはなく静まり返っていた。手探りで明かりをつけると、ようやく視界が楽になる。鞄を机に投げて、ジャケットも脱ぎ捨てる。皺になるだろうが、構っている気力はもうなかった。タイを緩めながらソファに腰を下ろす。
スプートニクが、深く長く、重い溜息を吐いた、と同時に。
背後で、キィ、と蝶番の軋む音がした。
振り返り、見る。
「……なんだ、まだ起きてたのか」
寝室に続くドアが開き、顔を見せたのはクリューだった。目が潤んでいるのは、あくびでもしていたのか。
片手にいつもの縫いぐるみを握り締めて、こちらに歩いてくる。向かいに座ればいいのに、わざわざ脇に来て、同じソファに腰かけた。
「おかえりなさい。遅かったですね」
「まァな」
「その割には、お酒の匂いがしません」
「お前は俺を何だと思ってる?」
暇さえあれば女遊びか酒飲みに精を出しているとでも言いたいのだろうか。――否定しにくいところもなくはないが。
「今の今まで商会にいたんだよ。遊んでる暇なんかねェわ」
「そうなんですか……」
答える、と彼女は何か物思うように俯いた。表情はどこか不安そうでもある。
そのままクリューは暫く黙り込む。やがてスプートニクが、どうしたものかと思い始めた頃、彼女は意を決したように顔を上げた。
「あの。……怒られたり、しませんでしたか」
「あ?」
怒られたわけではないが、忠告はされた。
しかしクリューは『これ』のことは知らないはずだ。何のことを言っているのだろう、まさか気付いていたのだろうか、と一瞬思ったが、どうやらそうではないらしい。じわじわと瞳が潤んでいき、
「クーが。クーが気持ち悪くて、到着、遅れちゃったから」
そして悲しげに言うのはそんなこと。またつまらないことを気にする奴だな、とスプートニクは右手を振った。
「ねェよ。向こうもプロだ、大抵のトラブルじゃ動じない。気にするな」
と答えてもなお、クリューの眉間の皺は緩まない。けれどそれ以上それについて言葉を重ねたところで、下手なフォローにしか聞こえないだろう。だから。
買っておいて良かったとしみじみ思いながら、スプートニクは鞄から紙袋を取り出し、またその中から瓶を一本取り出した。コルクを抜いて、クリューに見せる。
「これ土産。お前がこっちに来てること言ったら、管理担当が『買ってってやれ』ってよ。美味いんだそうだ」
やはり、食い物というのは強い。ようやくクリューの表情が解れた。
嬉しそうに差し出された両手にそれを渡してやると、彼女は興味津々といった様子で瓶の中を覗き込んだ。
「ジンジャエールだってよ。甘口の」
「ぷしぷししますか」
「ほれ、ストロー」
瓶の口でも水面を気にするのだろうかとは思ったが、本人が飲みやすいならその方がいいだろう。一緒に貰ってきたストローを差し出す。
ストローを瓶に挿し咥えると、クリューは目をきゅっと閉じてストローの空気を吸い上げた。毎度思うのだが、どうして目を閉じる必要があるのだろう。以前尋ねたところ、至極真面目な表情で「ストローは勢いが大事です」と答えていたが。
暫くそうやって啜って、やがて口を離した。一息つくと、にっこり笑う。
「美味しいです」
「そりゃよかった」
「しゅわーってしてお、おいし、おいしいで……」
言葉を切って、暫し後。けぷー。と一つ長いげっぷをした。
と同時に、口の端から一つ、ころんと石が転げ出る。
それによって腹の様子は落ち着いたようだったが、やはり恥ずかしいのか、クリューの頬が赤みを帯びるのが薄暗い中でもわかった。両手で頬を押さえて、「不覚です、不覚です」と体を左右に揺する。まったくこれは、見ていて飽きない生き物だ。
「そ、それで、ですねっ」
ポケットに宝石をねじ込むと、照れ隠しをするかのように、声を張り上げた。スプートニクの足の上に手をついて、身を乗り出してくる。
「商会は、どうでしたか」
クリューはパーソナルスペースの取り方があまり上手くないのか、妙に距離の近い時がある。この澱みない目に自身の『やっていること』を見抜かれたくなくて、スプートニクはつい顔を背けた。
「何もねェよ。いつも通りだ」
「本当ですか。ちょっとお疲れみたいです」
「そりゃ疲れるさ。仕事だ。会う覚悟をしてなかった人にも会っちまって、精神的にも相当疲れた。変な仕事も請け負わされるし――」
言う必要はない、と重々わかっていたのに。
つい口にしてしまったのは気の緩みだ。アレだのソレだの、始終腹の探り合いをしていなければならない人間たちから解放された故の、油断だ。
口を噤む。と、大きな瞳が、ぱちくりと瞬きをした。そして、
「私でよければ、お話、聞きますよ」
と、さも当然のことのように言う。
「あんまり頭良くないし、難しいお話はわかりませんけど、でも。お話聞くことくらいは出来ますし……あ、それに私、口は堅いんですよっ」
「柔らかいけどな」
「違いまひゅっ」
悪ふざけで頬を摘んでやると、不機嫌そうにそう言った。
まったく、この子供は。感情を隠すことなくすぐ表に出すそのお気楽さに、つい、スプートニクの肩からも力が抜ける。
指を離し、頬を撫で。髪を梳いてやりながら、スプートニクはしみじみと言った。
「お前は将来、いい女になるよ」
クリューは驚いたようにまた一度、瞬きをした。
頬に赤みが差していく。先ほどより更に、鮮やかに。
「それはもしかして」
一拍置いて――それから甲高い、裏返った声で言う。
「ぷ、ぷ、ぷ、ぷろぽぉず、ですかっ」
「なんでそうなる」
そんな、そんな、でも、でも、と勝手に思い悩んで右に左に身をねじるクリュー。
これの発想の突飛さには時折、ついていけないことがある。夢見がちなのは真っ当な女子らしくていいことなのかもしれないが、残念ながら周りに『真っ当な女子』がいた経験の乏しいスプートニクには、確実なところはわからなかった。なんと言っても幼い頃もっとも身近にいたのは、あの、当時はアコと名付けられていた女だ。
彼女の嗜好を察するのは早々に諦め、机の端に置かれた厚紙を取り上げる。上から下まで流し読みをしていると、我に返ったクリューが「それ、なんですか」と顔を突っ込んできた。
とはいえ、大したものではない。ただのメニュー表だ。
「メシ、連れてってやれなかったな。腹減ってないか」
「いえっ、大丈夫です。お気になさらず」
けれどそれは痩せ我慢だったのだろう。言葉に被さるようにして、きゅう、とクリューの腹が鳴った。
一時の沈黙、後。眉を吊り上げ、頬を染め――恐らくは先ほどとはまた別の意味合いの赤面だ――無言で、叱るようにぽふぽふと自身の腹を叩く彼女を見て、スプートニクはつい吹き出した。まったくこれは、本当に、自由だ。
「ルームサービスでも頼むか」
確かここの宿は、深夜でも注文を受けてくれたはずだ。確かに今の自分には『時間はない』が、食事を取る余裕くらいはあってもいいだろう。
言うとクリューは、嬉しそうに目を細めた。これがいい、これも美味しそうと指さしながら賑やかにする。
が、あるとき不意に動きを止めた。
どうしたのかと思っていると、ゆっくりこちらを振り返った。加減を伺うように、おずおずと問いかける。
「それで、その。……何があったんです? 変な仕事、って」
気遣うような視線に、スプートニクの頬が緩んだ。
彼女に話したところで、何も解決はしないが、それでも。誰かに話したくはあった。何を喋っても揚げ足を取らない、言葉尻に気を付ける必要のない誰かに。
寄せられた栗色の髪を弄ぶよう梳きながら、スプートニクは虚空を仰ぎ、そして言った。
「商会で、会長に会ってな――」




