4-3
「遅ェよ、バカっ」
耳障りな笑い声が聞こえて、クリューは目を覚ました。
と同時に、今まで見ていたものがただの夢であったことを知る。クリューの中の古い記憶、昔の夢だった。それはきっと、自分の横たわっている場所のせいだろう。ざらりと埃臭く、砂のようなものが散っている床は、あの場所によく似ていた。まったく、嫌な夢を見たものだ。
話し声は背中の方から聞こえてくる。体勢を変えようとして、ようやく自分が後ろ手に縛られていることに気が付いた。と同時に、首後ろから後頭部にかけて痛みが走る。
ここはどこだ。どうしてこんな埃臭い場所にいる。自分はどうして、どうなった? ぐるりと思考を回転させて、ようやく思い出す。そうだ。
石を吐いたところを見られたのだ。知らない男に。
直後後頭部に衝撃を受けて、そのあとは覚えていない。おそらくはそのあと、この、ひと気のない倉庫らしき場所に運ばれたのだろうが。冷たい不快感が腹の底を撫でる。
「悪ィ悪ィ、警官っぽいのがウロウロしててよ。撒くのに手間がいった」
どうやら誘拐犯たちは、ようやく仲間と合流したところのようだった。自由にならない四肢を動かして、男たちが視界に入る形までなんとか体勢を変える。三人の男。二人は茶髪で、一人は黒い。
今来たばかりらしい男の言葉に、仲間の一人――気を失う直前、彼女と目が合い下卑た笑みを浮かべたあの男だ――が、眉をひそめる。
「サツって、まさかここがばれてるってことか?」
「いや、今街中を捜索してるところって感じだな。まだここはばれてないっぽい。だけど気づかれるのは時間の問題だと……お」
今遅れて来たのは茶髪の男のようで、意識が途切れる直前に彼女と目が合ったのは黒髪だった。消去法として、クリューを殴って昏倒させたのは多分もう一人の茶髪だろう。全員同じような、べたつく笑顔を浮かべていた。
「起きたみたいだぞ、そいつ」
呼応して、三対六つの瞳が彼女を見る。
と。
――ぞくり。
「……?」
自分の奥底が、何かに震えた。
怯え。けれどそれは目の前の男たちに対する恐怖ではない。もっと違う何か、それはなんだ? クリューが自身の抱いた得体のしれない恐れに戸惑っていると、遅れてきたほうの男が目の前に座り込んで、彼女を見た。
「宝石を吐くんだってな、嬢ちゃん。俺にも見せてくれよ」
深い茶色の瞳が彼女を映し、腹の奥で心が何かに対する警鐘を鳴らす。
自分がこの男たちに誘拐された、という事実はそれほど恐ろしいものとは思わなかった。開店までに店に戻らなければ、留守番役のナツがおかしいと思うだろう。そうなれば間もなく警察局に報告が行く。この街の治安の良さはよく知っていた。
わかっていた。――それなのに彼女は何かに恐れていた。
何に? それが自分にもわからない。
正体のわからない恐怖感が苛立たしくて、八つ当たり気味に言った。
「……うるさい」
「んだとォ!?」
そして罵声、悪意を真っ直ぐにぶつけられて、ようやく。
クリューは、いま自分が何に怯えているのか理解した。目の前で唾を飛ばしながら野卑にギャアギャア騒ぐ男たち。自分が怯えているのは、目の前のそれらにではない。
状況が、よく似ているのだ。
もっと年嵩が上で、野卑で、暴力的で、彼女を虫か豚かと扱った、あの男たちのいたあの場所と。
よく似ている。――被って見える。
「……違う」
昔見たあれとは違う。あの男たちはいない。
いるはずがない!
思い出と混ざりかけた視界を自覚して、落ち着こうと口に出して否定する。が、
「あァ!?」
興奮した男が、そう声を上げて自身の言葉をかき消してしまう。
男の大声からクリューの心に乱れと驚きが生まれる。驚きから始まった混乱は彼女の理性を飲み込まんと少しずつ波を高くする。
違う。――違う違う違う違う違う!
落ち着けようと、噛み合わない歯を必死に噛む。心の中で絶叫する。あれは――これは――あの男たちではない。自分を人とも思わず『飼って』いたあの男たちではないのに!
けれど。
一度開いた傷は閉じることを知らない。
「ああ……あああ」
生まれた感情は急速に大きくなる。理性が自身を宥めるより早く腹の底の傷は更に破れ、大きくなり、すぐに言葉がわからなくなる。悲鳴の上げ方もわからなくなる。唾液が滴る。
彼女が自分たちに怯えているのだと『勘違い』した男たちが、汚らしい笑い声を上げる。違うとわかっているのにその声は過去の記憶と交じりあって恐怖の対象そのものになる。
違う。
残った少しの理性が彼女に首を上げさせ、あたりを見回させる。理性が「探せ」と警鐘を鳴らす。助けてくれたあの人を探せ。どこに。あのとき、汚い床に転がる自分を、ほつれた髪を、額を撫でてくれたあのひとは。端正な顔で、乱暴な口調で、細い腕で、自分を助けたあのひとは。いない。どこに。どこに? どこに――
そうして混乱した脳は、ひとつの『あり得ない可能性』を彼女の腹に生み出す。
――――最初からそんな人はいなかったのでは?
まさか。
ヒィと息を吸う。埃臭い床は記憶にあるあれと同じものだ。
まさか。そんなはずは。あの人と私は確かに二人で小さな宝石店を。
しかし生まれた小さな疑心はやがて育ち視界を歪ませる。あれが。目の前には姿を変えただけのあの男たちが見窄らしい自分を見て下劣に笑っている。青年が。そんなものがいたのか。本当に。襤褸を纏った汚い小娘を美しい青年が助け出すなんてよくできた英雄物語のようなことが?
吐けよ。おい、吐けよ! 笑いの混じる声が頭の中の古い記憶と混じってぐらぐらと眩暈がする。古い記憶と現在が直近の記憶を飛ばして繋がる。
ともに暮らしているはずの青年の顔が、曖昧になる。
すべてただの夢だったのだろうか。夢。ただの?
「仕方ねェな、おい、吐けないなら手伝ってやる……よッ!」
「――!」
腹にめり込む靴の先。痛みは確かにそこにあった。
こみ上げる悲しみと異物感。噎せた喉から転げ出たものが音を立てて汚い床を転がった。
「ほら言ったとおりだろ? こいつお宝吐くんだよ、な、すげェだろ」
「オイ、マジかよ! これ本物?」
宝石へと伸ばされる男の手、微かに残る彼女の今がそれへの抵抗を欲す。
さわらないで。それはあなたのものじゃない。
けれど言葉が声にならない。
ならば誰のものだと問う傷に、答える言葉を忘れている。
恐れと痛みと絶望に涙が溢れる。
触らないで――けれど彼女の願いも届かず。
男の指が今、宝石に触れようとした――
そのときである。
聞き覚えのある、声がした。
「テメェら誰の許可があって俺のもんに気安く触ってんだ、あァ?」