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宝石吐きの女の子  作者: なみあと
Ⅲ はじめてのおつかい
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6-4(6/25追加)




 リリィを追って廊下に出たところで、クリューは足を止めた。

 さて、どこで遊ぼうか。客まで遊んでいては、スプートニクたちの話し合いの邪魔になってしまうだろうと部屋を出てきたわけだけれど、あまり勝手に他人ひとの家をうろつくのも、客人としてよろしい態度とは言えないだろう。そんなことを思い、迷っていると、

「ニャ」

 まるで彼女を導くように、短い鳴き声がした。

 そちらを見ると、リリィが廊下の奥、ひとつの部屋の前でちょこんと座っていた。クリューがここを訪れたとき、ちょうど犬屋が出てきた部屋だ。戸は開け放したままになっているが、閉め忘れたわけではなく敢えてそうしてあるようだった。証拠に戸が、床との間に小さなストッパーを噛んでいる。

 リリィはクリューと目を合わすと立ち上がり、尻尾を立てて部屋の中に歩いていった。

 ついてこいということだろうか。少し迷って、中を覗く。薄いレースのカーテンの向こうから、朱色の陽射しが柔らかく差し込む部屋。そこはたくさんのぬいぐるみと不思議な玩具が並んだ部屋で、リリィはそのぬいぐるみたちに紛れるようにしてのんびりと寝そべっている。だから一瞬、ここはリリィのために充てがわれた部屋なのかと錯覚した。

 その予測が違うと気づけたのは、横たわったリリィの向こうにある柵のついた小さなベッドのおかげだ。天井から吊られたモビールのような飾りの下、ベッドの上。そっと覗き込むと、そこには、両腕を頭の上に掲げ目を閉じた、小さな人形が横たわっていた――否。

 違う、と気づいたとき、どきりとクリューの心臓が跳ねた。

 よく見ればそれの腹はゆっくりと上下し、また鼻と瞼も時折ひくひく痙攣している。人形のように思えたそれは、確かに生き物だった。パステルピンクのつなぎを来た、小さな子供。犬屋とエリィの娘が、静かに眠っていた。

 リリィを見ると、彼女は後ろ足で頬を掻きつつ、つんとそっぽを向いていた。しかし耳はしっかりクリューを向いていて、まるで『それ』の感想を待ち侘びているようでもある。――どう、私の妹。可愛いでしょう?

 小さな手、小さな足、小さな体。頬は熟れた桃のように柔らかそうで、無防備に眠る姿は世に蔓延る一つの恨みつらみも知らぬようである。

 赤ん坊をこんなに間近で見たのは初めてだった。並んで立つ犬屋とエリィ、そしてその腕の中で静かに眠るこの赤ん坊。そんな光景を幻視する。それはとてもほっこりしていて、暖かい。

 あの傍若無人なスプートニクにも、両親の腕に抱かれてのんびり眠っていた頃があったのだろうか。だとしたら何処で道を踏み外してしまったのだろう――そんなことを思い、つい吹き出したそのとき。

 ちくり、と。

 クリューの腹の底を、何かが刺した。

「……?」

 臍の奥に刺さったように思えたのは、理由のわからぬ不思議な感情。クリューは首を傾げた。これは一体、なんだろう? 少なくとも、いつも可愛いものを見たときに覚えるようなものではなかった――例えるならそれは、まだ慣れないこの街の中で、たった一人暗い路地に迷い込んだときに感じたものによく似ていた。右も左も暗く、行く道が合っているのかも、またいつか助けが来るのかもわからないときに覚えたそれを、薄めて針の先につけてつついたようである。

 コロン。不意に風が吹いてきて、天井のモビール――ベッドメリーがひとつ、音を鳴らした。まるでクリューの腹の底に巣食った小さな塊を指摘するように。

 湧いた感情は、針の先ほどのそれは、しかし彼女自身が気づいてしまえば成長するのは早かった。

 人には皆、赤ん坊だった頃がある。自身だけでは食事も出来ず、親に守られ生かされていた頃が。今は親である犬屋もエリィも、またあのスプートニクですら、そんな時期はあったはずだ。

 あのスプートニクですら。 

 ――なのに。

 そのとき、不意に異物感を覚えた。喉の奥、いつものあれだ。掠れた咳が二度、のちやや大き目のを一つして、ようやく不快の原因がころんと転げ出る。角ばった紫色の宝石がひとつ、手の中に現れた。

しかしその石は、中央よりやや左に、まっすぐにクラックが入っている。皹は紫の中で、光を反射して白くきらきら輝いていた。はたしてスプートニクはこれをどう評すだろう。傷のある欠陥品と謗るか、それとも光の加減により変化する美しい石と賞するか。

 けれど今のクリューには、そんなことはどうでもよかった。そんなことより――

「ふぁ」

 思考に入りかけたクリューを現実に引き止めたのは、その、聞き慣れない声だった。

 言葉でもないそれに、はっと顔を上げる。声がしたのは、すぐ近く、クリューのほんの目の前。発信源を探すまでもなかった。

 ベッドの中の赤子が、起きていた。

 ぱっちりとした瞳が、柵の向こうのクリューを映している。

 その穏やかそうな目は、犬屋によく似ている。けれど虹彩の色合いは間違いなくエリィのもので、二人の特徴を混ぜて作り上げたのがよくわかった。白目にも充血の一つない、清らかなそれ。

 しかしその愛らしい目が歪むまでに、それほどの時間はかからない。眉と眉が寄り、口の端がゆっくりと引き締められ、その唇から「ふ、う、うぁ」と、声が漏れ。

 クリューが、あ、泣く、と思った瞬間。

 ――彼女の瞳から大粒の涙が飛び散った。

「あ、あ、あ、えっと、ご、ごめんね、な、泣かないで、ごめんね」

 謝罪も聞いてはくれない。鼓膜を突き破らんばかりの声で泣き叫ぶ。

 助けを求めてリリィを見るが、彼女はいつものこととばかりに、目を閉じて寝そべったままでいる。柵を握り、赤ん坊とはどうしたら機嫌を直してくれるものなのかを考えるが、赤ん坊に接したことのないクリューには当然答えは出ない。握った猫じゃらしは、無論のこと無力である。

 クリューが為す術もなく立ち尽くしている――と。

「はいはい、ご飯ね、いま用意するから……あら、クリューちゃん」

 背後から、声。びくりとクリューの心臓が跳ねた。

 慌てて振り返るとそこにはエリィが立っていて、クリューの心臓の鼓動が更に大きくなった。何せ今のエリィにとって自分は、可愛い娘の部屋に入り込んで泣かせた、不埒な闖入者だ。

「あ、あの、あの、ごめんなさい、お部屋、入っちゃって……その、クー、咳したら、赤ちゃん起こしちゃって、あの、ごめんなさい」

 言い訳がましい、とは自分でも思った。

 けれどエリィは気にした様子もなく、ベビーベッドに歩み寄ると、慣れた手つきで泣きじゃくる我が子を持ち上げる。

「うん? 大丈夫よー。そろそろご飯の時間だから、きっとお腹が空いて起きただけだわ。……そうだ、クリューちゃん、この子にミルクあげてみる?」

「く、クーは、クーは、いいです。スプートニクさんのとこ、帰ります」

 エリィの申し出に、しかしクリューはかぶりを振った。

 自身の腹に巣食った良くない感情を、その子に見透かされたような気がしたからだ。無垢な彼女はクリューの抱いたそれがとてつもなく恐ろしくて、だから泣いてしまったのではないか? と――そんな仮定を捨てられず、また、だからこそ、そこにいるのが堪らなく苦しくなった。

 拒絶するような叫び声の中、クリューはエリィに向けて深く頭を下げた。「失礼します」くらいは言ったかもしれないが記憶には残っていない。

 心に湧き、そして充分に膨らんだ疑問は萎むことがない。逃げるように部屋を出、廊下を歩きながらクリューは考える。

 人の子は人が産むもので、キャベツやコウノトリから出てくることがなければ、木の股から産まれることはない。小さな姿で、母の腹から出てくるものだ。

 しかし、だとしたら。

 自分は何故、スプートニクに会ったとき、母の腕に抱かれていなかったのだろう。

 父と手を、繋いでいなかったのだろう。

 ――どうして私の親は、私をあそこに捨てたのだろう?

 クリューにはあの場所に至るより前の記憶がない。気づいたときにはあの薄汚い場所で男たちに殴られ蹴られる日々を送っていた。更に言えばあそこでの生活の記憶も幾許か島状に欠落していて、すべてを覚えてはいない。失った記憶は現在もまだ失くしたままでいる。

 そんな環境から彼女を救い出したスプートニクは――正確にはスプートニクに連れられて行った病院の医者は――恐らくは辛い現実からの逃避、自己防衛のために記憶を喪失してしまったのだろうと言っていた。現状に問題がないのなら、いつか自然に思い出すまで待った方がいいと言われ、またクリューはそのとき、過去を見ることが、殴られたことを思い出すことがつらくて、「それでいい」と答えたのだ。

 ――大丈夫、大丈夫。

 自身を落ち着ける言葉を呟きながら廊下を歩く。あのとき、何を覚えていなくてもかまわないと思ったのは、自分ではないか。

 大丈夫、何がなくても、私には。

 私には、あの人が。

 廊下を渡り、元いた客間にたどり着く。やはり開放したままの入り口から中を覗くと同時、

「君はどうなの?」

 犬屋の声が、耳に届いた。

 残された男二人で何事かを話している。腕を組んで話を聞いているスプートニクと合わせ、二人ともまだクリューには気づいていないようだ。それでもそこにその人がいるということに、幾分、安心を覚える。

 大丈夫、この人さえいれば、私は。腹の奥にこんこんと湧いてやまない寂しさにも似た感情を押さえ込みたくて、クリューが雇い主の名を呼ぼうとした――瞬間、犬屋が彼に一つのことを尋ねた。

 そしてそれを、彼女もまた、同様に聞いて。

 そのとき何故か、とても不思議な感覚がした。

「所帯を持ちたいとか、添い遂げたいと思う女性ひととか。スプートニクさんには、いないのかい」

 それはまるで足元が、さらさらと崩れていくような。

 呼びかけた名は、声は、喉から漏れることなく綺麗に霧散した。路地などより遥かにうら寂しい、広く真っ暗な空間に、一人ぼっちで取り残されたような気分になる。

 所帯。その言葉の意味は、知っていた。家族を作るということだ。伴侶を見つけ、隣に立つと言うことだ。

 ――自分以外の、誰かの隣に?

 そこに考えが至った瞬間、頭の中を一気に攪拌されたような気分になった。

 感情がまとまらない。煮込まれたシチューのように頭の中がぐだぐだと混ざる。

 彼が女癖の悪い人であることはクリューもよくわかっていた。けれど今まではそれのすべてが彼にとっての『遊び』であるとわかっていたから、クリューもただ――勿論、怒りもしたし泣きもしたが――そこまで深刻に捉えてはこなかったのだ。遊びが終われば、必ず店に戻ってくるとクリューは知っていたから。

 しかし。

 所帯とは。添い遂げるとは。その言葉の持つ意味は、決して『遊び』のそれではなかった。そしてそれの答え如何いかんでは、いつかは自分の隣から彼が去ってしまうことにもなり得た。

 親だけでなく。――彼すらも、また。

 スプートニクはその問いに、なんと言うのだろう。答えによっては死刑宣告にも近いそれを、クリューは息を詰めて待つ。

 しかし幸運にもというべきか、答えは聞かずに済んだ。

 スプートニクと犬屋が、クリューの存在に気づいたからだ。

「おや」

「クー」

 愛称を呼ぶ彼の、射抜くような灰色の瞳が彼女を映した。

 盗み聞いていたことを咎められているようで、クリューは一歩後退しかけて――しかし逃げ場がないことに気づいて、その場に立ち尽くす。

 そんな彼女へ、スプートニクが言った。

 それは怒るでもまた叱るでもなく、まったくいつも通りの口調だった。

「猫はもういいのか」

「あ、……はい」

「なら、座れ。話を続けるから」

 クリューはそれに応じる返事をした。何と答えたか、正確には覚えていない。ぼんやりとした頭のまま、ソファに戻って先ほどと同様に腰掛けるが、あのときに覚えていた楽しい気分は、まったく戻ってこなかった。

 テーブルの上に置かれたいくつかの冊子パンフレット。恐らくはスプートニクが、夫妻のためにと持ってきたのだろう。

 そこに書かれた言葉を見て、クリューは泣き出しそうになるのを必死に堪えた。




 ――『家族からの愛情をかたちに』






(続く)



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