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宝石吐きの女の子  作者: なみあと
Ⅰ 宝石吐きの女の子
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 ――俺にはいくつか、目標があってな。



「スプートニクさんのばか。スプートニクさんの、ばぁか」

 資材屋で洗浄剤とワイヤーを買い、研磨剤(エメリー)の取り寄せを依頼したあと、パン屋で買い物を済ませ。店への帰路を歩きながら、クリューは歌うように雇い主の悪口を言っていた。

 とはいえ散々に泣かせてもらったおかげか、もう苛立ちはない。ただそのまま許してしまうのは惜しい気がして、だから口先だけでも拗ねていようという腹づもりだ。けれど紙袋からふんわりと立ちのぼる甘い香りには耐えられず、どうにも頬は綻んでしまう。

 先ほどパン屋の店主に「今ちょうど焼きたてなのよ!」と包んでもらったのは、メロンパンが二つとカヌレが三つ。メロンパンはもちろんスプートニクへのものだが、カヌレは留守番を引き受けてくれたナツへの礼として買った。

 そういえば、今は何時頃だろう。ポケットから時計を取り出して見てみると、針は十時の五分前を指していた。慌てて歩く速度を上げる。資材屋が少々混んでいたせいだ。

 ――スプートニク曰く、メロンパンは外側と内側の食感がまったく違うところが好きなのだという。

『ときどき、無駄にメロンの果肉とか香料とか仕込んでいるのがあるけど、あれは駄目だ。俺はあれを認めない。何をとち狂ったか中央に生ハムメロン埋め込んでるパン屋もあったな、あのときは暴れそうになった』

 かつて彼女にそう語ったスプートニクは、確かブランデーを瓶から直接飲んでいた。

 彼には人生のうちで成し遂げたい目標がいくつかあるのだそうで、以前、そのうちの二つを教えてもらったことがある。クリューが知っている二つのうち一つは旨いメロンパンのある街に定住することで、もう一つは、自分の店を持つことだ。

 リアフィアット市に市民登録を済ませ、スプートニク宝石店を構えている今、教えてもらった二つの夢のどちらも叶ったことになる。

『クリュー。お前のその『体質』を使って、俺にその二つの願いを叶えさせてくれ。……それが叶ったときには――』

 その先の言葉を思い出し、クリューはふと視線を落とした。

 スプートニクの頼み。もしくは、願い。その対価としてスプートニクが申し出たものは、当時の彼女には彼の協力要請を受け入れて余りあるものだった。だから彼女はそのとき、その申し出を一も二もなく受け入れた――のだが。

 ……今となっては。

「どうしてあんな約束、しちゃったのかな」

 吐いた言葉は市場の喧噪に消えた。

 時折、思う。――スプートニクは、あの約束を覚えているのだろうか?

 店を構え、またこの街での商売が軌道に乗っても、約束について彼が何かを言い出すことはなかった。もし覚えていたらと思うと胸が締めつけられるような思いだったが、それを確認するのは恐ろしかった。二人の間で昔のことが話に上るたび、スプートニクが、「そういえば」と約束について話し出すのでは、と彼女は気が気でなかった。

 確かにかつては望んだけれども、今となっては。

「忘れてるなら、その方が……」

 確かめようのない悩みに、クリューが長いため息をついたとき。

「……んっ」

 不意に喉の奥から、せりあがってくる何かがあった。吐き気とは違う、異物の塊。

 それが何を示すものか、クリューは長年の経験でわかっていた。

「あっ、えっと……」

 まずい。

 慌てて腰に手を当て、スカートのポケットを探るが、いつも持ち歩いているハンカチがない。朝、宝石ごと加工室に置いてきてしまったのだ。これでは隠せるものがない。少し迷った後、ひと気のない路地に飛び込んだ。

 ますますひどくなる異物感に、両手で口を押さえる。

 膝を折り、体を丸め。咳をすると、指の間からころり、ころりと、二つの石が転げ出た。昼でも薄暗い路地にかろうじて差し込むほんの少しの光を浴びて、鈍く輝く緑の塊。彼女の喉を詰めていた正体はまさしくそれだ。

 軽い虚脱感に襲われながら、拾おうと手を伸ばした、そのとき――

「……え?」

 影が彼女のいる場所を覆った。同時に、聞いたことのない声。

 少し先に、人の足が見えた。

 ――顔を上げる。

 驚いたような表情の、見知らぬ男と目が合った。

「あ……」

 あまり柄の良くない男は、足元に転げた宝石と、彼女を交互に眺めていて。

 その目が好奇と欲に彩られるまでにさほどの時間はかからない。

 しまった、とクリューが思ったときには時遅く――



 ――――暗転。




     *




 コンコン、コンコンという何かを打つような小さな音で、スプートニクは目を覚ました。

 はて、何の音だろう。半分以上眠った頭で、瞼を閉じたまま考える。屋根裏を鼠でも走っているのだろうか。だとしたら駆除をしないといけないな、そんなことを思うが起き上がる気には到底なれなかった。軽く風呂を浴び、ベッドに潜ってから、それほどの時間は経っていないはずだ。一晩かけて摂取した大量のアルコールと睡魔、鼻まで被った毛布は彼が起きることを良しとしない。

 やがて音が、ゴンゴンと先ほどよりも大きなものになる。鼠の大きさではない、となると猫だろうか。正体は知れないが、いずれにせよ安眠妨害である。耳障りに眉を寄せるが、姿なき君はそんなもの気にも留めないだろう。終わらぬ騒音に長くため息をついて、スプートニクは掛け布団を更に引き、頭の先まで被った。すると音も、カーテン越しに差し込んでいた太陽光も遠ざかり、安眠環境が戻ってくる。

 やれやれ、と深く息を吐き、思考することをやめる。意識が遠ざかっていく感覚――

 が。

 今度は別の音が聞こえてきた。

 せっかく張った、掛け布団という名の防音壁すら割って響くそれは、猫よりも重みがあり、固い何かがものを蹴る音――これはすぐにわかった。靴が床を打つ音だ。音の重さからして、おそらくは女だろう。

 足音はどんどん近づいて、やがて彼の眠る寝室まで侵入すると、ベッド脇で止まった。

「起きて」

 ねだるような声がした。予想通り、女の。

 こちらを覗き込む気配がする。しかし、はて、就寝前に床を共にしたのは誰だったか――思い出せない。そもそも就寝前に何をしていたのか自体、こうも寝惚けた頭では思い出すのは難しい。女のことを思い出しておかないことには後々面倒なことになるのは経験上わかっていたが、眠気の方が勝った。

 寝返りを打って顔を背けると、女は焦れたようにもう一度「起きてってば」と繰り返す。掛け布団を少し下げ、重たい瞼を半分だけ上げてそちらを見やると、やはりベッドの脇に女の影があった。煩い、と吐いたはずの言葉はもごもごと自分でもわかるほどに口の中に消えて、彼女に届いたかどうかも定かではない。

 布団の上から肩を掴んで揺さぶり、拗ねたように「起きてよ」と言う。ああ、なんと煩い女だろう。行動を起こすのは面倒だが、仕方ない。

 こういうときに効率のいい黙らせ方を、スプートニクは知っていた。

 微睡みを手放すことをようやく決意すると、彼は軽く半身を起こして、布団から腕を出した。「静かにしろ」と囁いて、彼女の首の後ろに手を回し、頭を引き寄せ口づけを――

 しかし。

「っギャ―――――っっ!」

 鼓膜を破らんとする悲鳴が、彼の目を一気に覚まさせた。

 同時に横面を張り倒され、何が起きたのか一瞬わからず呆然とする。が、じんじんと響く左頬の痛みを自覚すると、一気に怒りが湧いた。

 顔を上げ、睨みつける。目の前に立っていたのは知らぬ女――ではなかった。

「何するん――ってお前ナツか! テメェ何をいきなり寝てる人間の頭引ッ叩いてんだコラ! 警察呼ぶぞ警察!」

「何するんだはこっちのセリフだし警察が要り様なら私が直々に捜査してやるわよこの変態! ひとが何度も何度もドアノックしてるのに起きてこないし――あんたは何、朝から晩まで人襲うことしか考えてないわけ!? ほんっと畜生みたいな男よね、信じらんない!」

「あーうるせェ黙れ頭に響く!」

 スプートニクの頬を打った右手を胸の前で握りながら、なんとも勝手なことを叫ぶ闖入者――ナツへ、彼は隠すことなく文句を吐き捨てた。もちろんのこと、こんな女とは一晩たりと契りを交わした覚えはないし、そんなことをするぐらいなら三日三晩ハエの交尾でも眺めていた方がはるかに有意義である。

 これはいよいよ眠っていられない。起き上がってベッド脇に腰を下ろし、がりがりと頭を掻く。大きな欠伸が自然と漏れた。

「……そもそもお前、勝手にずかずか男の部屋入ってきておいて、なんだその言い草は。女一人で独身男の部屋入ってきたとあっちゃ、何されたって文句は言えねェだろうよ。まあ安心しろ、お前に手出すくらいなら、その時間使って鼠の駆除でもしてたほうが余程建設的だ」

 睨みつけると、彼女もそのあたりには多少の負い目があったのだろう、少し身を引いた。勢いも削がれ、視線を虚空に飛ばしながら、ぼそぼそと言い訳がましくこんなことを言う。

「私だってあんたの私生活なんか覗きたくもなかったし、別にこんなとこ、来たくもなかったわ。……だけどね、もう、開店時間なのよ」

 どこか萎れた青菜を思い出させるナツの表情。言われて枕もとから腕時計を引き寄せてみると、時計は十時三分を指していた。

 だがしかし、そんなことはわざわざナツに言われるまでもなく対処している。第一、彼女もそのあたりの会話は聞いていたはずだ。

「何を言ってるんだ。店のことなら、さっきクーに――」

「そのクリューちゃんが。帰ってこないのよ」

「何?」

 遮って言われたナツの言葉に、スプートニクの眉が寄った。不快を覚えたわけではない。ただ、珍しいなと思っただけだ。

 あの生真面目な従業員が、開店の時間を忘れてどこかへ出掛けてしまうとは。

「どこに行ったんだ、あいつ」

「怒らないであげてよ。三十分くらい前に、あなたに頼まれた買い物に行ってくるって言って出て行って、それっきり帰ってこなくって……でも、さすがに、私がお店開けるわけにも行かないでしょう?」

「まったく、どこで寄り道してるんだ」

 恐らくは資材屋が混んでいるとか、そんなところだろうが。

 リアフィアット市の治安がいくら他に比べていい方だとはいえ、悪漢がまるきりいないとか、善人しかいないとか、そんな夢のような街では決してない。宝石のような貴重品を、農村の野菜と同じように無人販売するのはさすがに無理だ。

 ベッドから立ち上がると、スプートニクは椅子に掛けた上着と、机の上の小箱を取った。気つけ代わりの紙巻き煙草を一本取り出し、咥える。燐寸で火を点けてゆっくりと吸い、そして同じように時間をかけて白い煙を吐くと、出口に向かって歩き出した。そのあとを一歩遅れて、ナツがついてくる。

 手櫛で髪を軽く直しながら部屋のドアを開け、廊下に出て、クリューの部屋の前を通り過ぎ。

 そのときふとナツが、思い出したようにこんなことを言った。

「そうだ、スプートニク。ひとつ訊いてもいい?」

 問いかけに、無言で返す。それを肯定と取ったか、言葉を続けた。

「あなた昨晩、どこにいたの?」

「ケートンの酒場」

「宿屋にもいたって聞いたわ。ハルカの宿屋?」

 即答すると、さらに質問を重ねられた。

 ハルカの宿屋はケートンの酒場の隣にある。酒をよく呑む旅人が利用するに非常に便利な宿だ。ケートンの酒場で酔い潰れたら店員が回収して勝手にハルカの宿屋へ放り込んでくれる――翌朝、割増の後払いで請求が来る――らしいということも聞いたことがあるが、あそこで潰れるまで呑んだことはないから、実際のところはどうだか知らない。

「最近の警察局は、善良な一般市民の素行調査までするようになったのか。ご苦労なこった」

「否定はしないのね」

 別に誤魔化す気もないからな――とは言わないでおく。

 やはり無言で返すと、彼女はそれ以上、何も言わなかった。何を考えているのか知れないが、今から店の番をしなくてはならないというのに、下手なことを言って妙なことに巻き込まれたいとは思わなかった。

 階段を下り、一階の廊下を進んで店に出る。開店時間を過ぎてはいるが、『準備中』の札を掛けたままにしているせいだろう、店内にまだ客はいない。カウンターから『営業中』の札を取り出すと、入口を開けて外に。そこに待ちほうけている客がいなかったことに安堵しながら、『準備中』と差し替えた。

 振り返ると、居心地悪そうにナツが立っていた。もう一度深く息を吸い、紫煙を吐く。カウンター端に隠した灰皿を取り出して灰を落としてから、顎で軽く外を指した。

「お前も仕事に戻れ。あとは俺がやる」

 けれど彼女はそれを良しとしなかった。眉を寄せ、かぶりを振る。

「クリューちゃんが戻ってくるまで待つわよ。心配だもの」

「クーだって馬鹿じゃない。お遣いメモをなくしたからって途方に暮れて泣き出すような子供じゃないだろう」

「だけど……」

 唇を尖らせて、けれど続ける言葉はないようで口を閉じた。言いたいことはわかる。彼女が約束事を破るなんてそうないことだ。しかしそんなことを論議したところで彼女が現れるわけでもない。スプートニクはそれ以上何も言わず、カウンターの椅子を引いて座る。ナツは少し迷った後、来客用のソファに腰かけた。

 ――スプートニクが灰皿に煙草を押しつけて消したのと、ちょうど同時に。

 カランカラン、と派手にドアベルが鳴って、誰かが飛び込んできた。客ならそれほど乱暴にドアを開けることはしまい。クリューがようやく帰ってきたのかと思ったが、違った。

「スプートニクさん!」

 店内に転がり込み、彼の名を呼んだのは、彼女と同じ年頃の少女ではあれど、彼の雇った従業員ではなかった。クリューとよく仲良くしている――ええと。名はなんだったか。

「アンナちゃんじゃない。そんなに急いで、どうしたの?」

 驚いたようなナツの声で思い出す。そうだ、アンナだ。三軒隣の、雑貨屋の娘の。

 金髪を振り乱し、息を切らして、今にも泣きだしそうに頬を歪めている。何に怯えているのか青褪めて――握った拳が小さく震えているのは、もしや、走ってきた疲れからくるものとは違っているのか。

 嫌な予感がスプートニクの腹に生まれる。まさか。

 席を立って歩み寄ったナツへ、アンナは縋るように抱き着く。そして顔を上げると引き攣れた声で、彼の抱いた予感を裏づけた。

「クリューちゃんが……!」









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