6-2(3/1追加)
パラパラと本をめくって、手が止まったのはチャームのページだった。
描かれていたのは、肉球の絵の彫られた札のようなチャーム。作成図案の下に『ペットの首輪に引っ掛けても可愛いですよ』と書かれている。動物に掛けて可愛いのなら、ぬいぐるみにも合うのではと思ったわけである。
この子のネックレスを作ってあげよう、と決めてから隣に座る兎を見ると、その顔が嬉しそうに笑っているように見えてくるから不思議だ。待っててね、と頭を軽く撫でてから、クリューは制作を開始した。
しかしこれが、思った以上にうまくいかない。まずやろうと決めたのは、粘土を指先で伸ばして平たい楕円を作り、その上側に二本突起を作って兎の顔のような形にする、それだけの作業なのに、どうも形が決まらなくてやきもきしてしまう。乾きそうになるそれに何度も水をつけ、練り直し、悪戦苦闘しながらもようやく、目鼻のない兎の顔――に見えなくもないもの――が出来上がった。
ふう、と一息ついて顔を上げる。机の向かいでは、スプートニクもまた粘土と格闘していた。
彼の方は、細長く伸ばした粘土を木製の棒に一周ぐるりと巻き、それに注射器のようなものを使って細々した飾りを描いている。棒の太さからするに、出来上がるものは恐らく指輪あたりだろう。
それにクリューが思わずため息をついたのは、彼の繊細な手つきと生み出す作品の美しさに感動したから――というだけではない。それと向き合うスプートニクの瞳が、珍しくも真っ直ぐだったからだ。
普段スプートニクは、作業中に人を寄せ付けない。だから加工室をこっそり覗いたときだけ、それを見ることができた。いつもの皮肉と悪口とで嫌味に塗れている彼とは異なり、手元で組み上がっていく品を睨みつける目は混じり気がなく純粋で、甘ったるく笑うことも嫌味に歪むこともない。どんな女性も知ることのないその瞳が、表情が、この上なく、格好いいのである。
巻いた木の棒を顔に近づけ、離し、ときに光に透かしてみて、様子を伺う。のち、手元の設計図と照らし合わせて過不足を知り、注射器を手に取り形を整えてはカッターや箆に持ち替え修正。そうして彼の思い描くかたちに少しずつ近づいていくそれを見つめるのは、クリューだけが知っている、どれよりも優れた彼の顔。こそこそと陰から見るしかなかったそれが今、自分のすぐ正面にあるのだから、ため息も漏れようというものだ。
しかし。そうも凝視していて、見られている当人が気づかないわけがなかった。指輪の向こうの瞳が少し動いたな、とクリューが思ったと同時、
「どうした」
予期せずスプートニクに声をかけられ、クリューは体を固くした。
特別悪いことをしていたわけではないのだ、問われて隠す必要はないだろう。けれど作業する彼を凝視していたのに気付かれたことは、なんとなく恥ずかしい。両手で頬を覆い、えへ、と照れ笑いを作った。
「そうしてるスプートニクさん、格好いいな、と思って」
「なァんだそれ。今、他のことに気ィ配ってる余裕ねェんだから変なこと言うな」
「えへ。ごめんなさい」
「あと頬に手ェ当てるな。白くなるぞ」
「あっ」
言われてみれば。手のひらは粘土で汚れていたのだった――が、今更言われたところで後の祭りである。鏡がないから見ることは出来ないが、スプートニクが笑ったあたり、今自分がどんな顔になっているのかは容易に想像できた。
「もう出来たのか」
「あ、まだです。でもだんだん出来てきました。難しいけど、楽しいです」
スプートニクさんがアクセサリー作るの好きな理由、ちょっとだけ分かった気がします。そう答えるとスプートニクの口の端が、少しだけ笑みの形に歪んだように見えた。
初めての制作は、楽しく、でも難しく、集中力が必要で、目の前のそれを如何に素敵にするかを考えるのに忙しい。そのせいで、どんな考え事も悩み事もすっぽり頭から消えてしまう。大事な日を明日に控えた今、本当ならそんなことをしている場合ではなく、出来る限りの策を考え講じるべきなのだろうが、そんなことをしているよりも遥かに、今のクリューは安心していられた。
「あの。お話しても、大丈夫ですか」
「構わねェよ、売り物作ってるわけじゃなし」
そして彼もそれは同じなのだろう。のんびりと、酷く緊張感のない返事をした。
しかし。クリューが首を傾げたのは、そのスプートニクの言葉が些か妙であったからだ。売り物ではない、とは?
「それ、商品じゃないんですか?」
「あァ。言わなかったっけか」
「聞いてません。……贈り物ですか」
他人に指輪を贈るということがどういうことを示すのかくらい、クリューも知っている。尋ねた声が沈んだのはそのせいだったが、返されたのは意外な答えだった。
「うんにゃ。自分用」
「自分用?」
「ちょっと、入り用でな。……何だ、その目」
驚きに思わず目を見開いたのを、異様に思ったらしい。眉をひそめて問う彼に、クリューは思ったことを隠さず答える。
「珍しいな、と思って。スプートニクさん、あんまりアクセサリーしないじゃないですか。いえ、宝石商なのに変わってるな、とは前々から思ってましたけど」
「そりゃ偏見だろう。葬儀屋は毎日自分の葬儀を手配するのか?」
それとこれとは違うと思うが。
言いながらもスプートニクは、指輪を顔からやや遠ざけ、ゆっくり回して観察している。全体のバランスを見ているようだ。やがてまた注射器を取り上げて、細かく先を動かしていく。
そういえば。指輪を贈る、で連想したことが一つあった。――恋の話。
「イラージャさんは、健気ですね」
呟いてから、そういえばスプートニクはそのことをイラージャに問わなかったのだと思い出す。もし彼がイラージャの想いに気づいていないのであるとするなら、それだけ告げても彼はその意味を理解できないだろう。
「あ、あの。多分なんですけど、きっとイラージャさんは」
「わかってるよ。あの男に熱を上げてるって言いたいんだろう?」
慌てて注釈を入れようとするが、しかしその必要はなかったらしい。スプートニクはこともなげにそう答えた。
「あ。気づいていたんですね」
「喋ってるときの目を見りゃわかる」
そんなものなのだろうか。理解し難く首を傾げると、彼は手元の作品を見つめたまま「そこが俺とお前の、人生経験の差だな」と言った。
人生経験。とすれば、もっと歳を取ったら、自分にもそういったことが察せるようになるのだろうか。もっと年齢を重ねて、いろいろなものを見聞きし、知って、彼の隣に立つに不足ない女性になったら――とそこまで思って、はっと気づく。目を見ただけで相手の想い人がわかるとすれば、それではもしや。
心の底に秘めていたはずの自分の想いも、すべてスプートニクに筒抜けだったということではないのか。
「そ、それじゃスプートニクさん」
「うん?」
「す、スプートニクさんは、わ、わたっ、私がっ、私が誰を好きかも、私の目を見たらわかるんですかっ?」
裏返った声で尋ねる。すると彼の灰色の双眸が動いて、クリューを映した。
まるで腹の底を覗かれているような緊張感が彼女の全身を走り、心臓が跳ね、肩に腹に表情に力が入る――しかしそれは長く続かなかった。スプートニクはすぐ手元に視線を戻し、作業を再開する。片目で指輪を凝視し、注射器の押子にゆっくり力を加えながら答えることは、
「お子様の恋愛事情にゃこれっぽっちも興味がねェ」
けんもほろろな物言いに、んが、と喉が鳴った。
「ひ、酷い」
「なんだ、気にしてほしかったのか」
「そういうわけじゃ、ないですけど」
気づかれていたとしたらこれ以上恥ずかしいことはないが、かといって無関心というのも腹立たしいものがある。上手いこと割り切れずもやもやする腹を持て余していると、そんな彼女をどう見たのか、スプートニクがふっと笑った。
「まァ、お前のことに関し真面目に推察すると、『想い人はいない』が正解だろうな」
「えっ」
「普通に考えて、好きな男のいる奴が、夜に、保護者とはいえ他の男の布団に入ってきて、一緒に寝たいだの、寝かしつけてほしいだの言うわけねェだろうよ……どうした。頬膨らまして」
「なんでもないです」
そう。なんでもないのだ。今の話に重要なのはクリューの恋心などではないのだから、怒る必要も悲しむ道理もまったくないのだ、ないったらないのだ――ぷるぷると頭を振るって雑念を追い出し、話を本線に戻す。
「それよりも、イラージャさんです。彼女、かわいそうですね」
「かわいそう?」
「ソアランさんには心に決めた人がいらっしゃるそうですよ。死別されてるそうですけど」
「へェ。それは初耳だ」
婚約者の話、釦の話、協会に忠誠を誓った話――諸々語って、最後にクリューは、「だから多分ソアランさんは、今でもその彼女のことを愛しているんだと思います」と締め括った。
「で、思ったんですけど。魔法使いさんは、好き合った人とでなくても婚約されるんですね。お家柄ならぬ協会柄、って奴でしょうか。人種柄?」
言う、と。
何故か彼は呆れたような表情でクリューを見た。言葉にするなら「何を言っているんだ、お前は」といったところか。
「そんなもん、魔法使いじゃなくたってあるだろう」
「えっ」
「例えばエリーゼ様だって、ご結婚されたお相手は旦那様……エリーゼ様のお父様に宛がわれたんだぞ」
「ええっ」
思わず驚愕に声を上げるクリューと対照的に、彼は落ち着いたものだった。淡々と、語る。
「あんまり顧客のプライバシーを詳らかにするのも問題だからな、これはここだけの話にしろよ。……旦那様はエリーゼ様の夫にふさわしい相手を、とご自身の仕事関係の縁から資産家の男性を見つけてきて見合いの席を設え、結婚させた。庶民にはなかなかないけどな、珍しくはない話だ」
それでは彼女は、好きでもない男性と一緒にさせられた、ということか。それはなんとも――また頬に手をやりそうになって、しかし直前で手が汚れていることを思い出し慌ててやめる。はじめて聞く話に狼狽えるクリューに対し、スプートニクはやはり落ち着いた様子で話を続けた。
「だから、魔法使いの世界でも家柄とか、いろいろあるんだろう。あとは魔法の才とかかな。優れた魔法使い同士を掛け合わせれば良い魔法使いが生まれることは多いんじゃないのか」
「掛け……って、そんな、犬猫みたいに」
「魔女協会とやらが何をどこまでやるのかなんざ知らねェよ。可能性としてはそういうことも考えられるって話さ。まァ、そうであるとすればアレだな。本当は愛していなかったのであれば、婚約者とやらが死んだところで悲しまず平然と、協会なんぞに忠誠を誓っていられるのも道理か」
「そんな」
確かに魔法使いはスプートニクを傷つけた、酷い人と同じ人種だ。けれど真っ直ぐで一生懸命なイラージャや、彼女の話を聞いていると、やはり魔法使いといってもそれがすべてではないのでは、と揺らいでしまう。
クリューがどうにも遣る瀬無く視線を彷徨わせていると、スプートニクは深く深く息を吐いた。どうも思い悩む彼女に呆れたらしい。まったく仕様のない奴だ、とでも言いたそうな目をしている。
「ただ」
彼は接続詞を呟いた。はっきりとした、やや大きめの声で。
「誤解をするなよ。先の例を取って言えば、旦那様はエリーゼ様を幸せにしたいと思ってそうしたのだし、エリーゼ様はそれがご自身の為であるとおわかりになった上でそれを受け入れそう佇むことにした。また、彼女のご主人に当たる方はとても優れた方で、エリーゼ様のことを深く愛していらっしゃる。――人の腹の底がどうであるかなんて誰にもわからんし、人と人が出会うまでにどのような歴程があったとしても、それによって生まれた縁までもが偽物であると決めつけるのは尚早だ」
しかしそれは難しく、クリューにはいまいち理解しかねる。エリーゼは今幸せなのだということが言いたいのだろうか――そうではないことはなんとなく、わかったが。
「どういう、意味ですか?」
「つまりあの男の腹なんぞ俺にはわかんねェってことだよ。……こんなもんかな」
スプートニクはひどくどうでもよさそうに結論を呟くと、注射器を机の上に置き、指輪の巻いた棒をもう一度光に近づけて眺めた。弦の絡まったような、曲線の多いそれ。部分によっては太くも細くもある、石枠のいくつか埋め込まれたそれは、男女で兼用の叶いそうなデザインをしている。
「うん、まァ、悪くない」
彼は自分の生み出したそれの全体を改めて見直し、にっこりと笑った。それからクリューの方を向き、
「お前のはどうなった。できたのか?」
「……えっと」
「兎の顔か」
彼の作品に比べてあまりに稚拙すぎるそれに、つい言い淀む。が、でこぼこした不恰好なそれの正体を、一目見ただけで彼は当ててくれた。
嬉しくなって、思わず声が弾む。
「わかりますか」
「でなければ足二本だけ残した水母かな」
「兎ですっ」
しかし相変わらず一言多いのだから、頬も膨れようというものだ。
「でも、目と鼻と口を。どうしたらいいか、思いつかなくて」
「顔ね……だったらシリンジで描くか」
先ほどまで握っていた注射器を持ち上げてみせる。しかし注射器で絵とは、素人でも上手く描けるものだろうか? それを扱うスプートニクは、とてもとても慎重に手先を動かしていたように見えたが――不安に眉を寄せる彼女に、彼はもう一つの方法を提示した。
「もしくは箆で彫ったらどうだ」
「彫る?」
「そう。で、焼成の後にそこだけ燻しを施せばいい。燻し液は確か棚にあったはずだし、それほど難しい作業でもない。目鼻として表情を目立たせることを考えると、そっちの方がいいかもな。お前次第だ」
好きにするといい。言って、スプートニクはほほ笑んだ。
燻し、か。どちらにしようと迷いながら、クリューは手元の作品に目を落とす。始めて作った粘土の兎は明かりに晒され、表面の薄いおうとつが薄い影を作っていた。
目鼻すらないその顔は、影の彩を得て、嬉しそうに笑っているように見えた。