8-7
――どういう、ことだろう。
エルサの言葉を抱えながら、スプートニクは曇り空の街を行く。腕時計の時刻は午前二時を回ろうとしている……が、ユキの怒りを想像しながらも、まだ店に戻る気にはならなかった。エルサの言葉が、スプートニクの心に引っかかっていたからだ。
持ち帰り用にと紙コップに移し替えてもらったミルクティを啜り、考える。正直なところスプートニクには、兄弟愛というものに縁がない。実家とは長らく疎遠だし、幼かった頃もそこまで弟と親しくはなかった。家を継ぐ予定だった自分とそうでない弟は、背負うものも周りからの扱いも違っていたし、だから一般的な兄弟像というものには、縁がなかった。
ユキのことを姉と思ってはいるが、あれだって、幼い頃に近所に住んでいたというだけの話だ。確かに自分があれを追いかけて家を出、宝石商になったのは事実だが、あれが引っ越してから再会するまでどういう暮らしをしていたのかもよく知らない。つまりはその程度の仲である。
そもそもユキなんて、今も昔も、何を考えているのかわからない存在だ。あれの考えをすべて読み取ろうなんてのは考えることすらおこがましいし、それを兄弟『愛』なんて言葉と関連づけようとすれば失笑すら漏れる。
そんなのだから、エルサから、違和感があると言われてもいまいちピンとこない。ファンションとセシルの間には、何があるのだろうか。あの男なら知っているのだろうか――
「あっ、スプートニクさん」
不意に声をかけられて、我に返る。
視界の中でひらひらと動くものに焦点を合わせてみると、アンナが手を振っていた。「気付いてくれた」と、歯を見せて笑う。右手にチョコミントのアイスを握った彼女は、不思議なことに、一人でいた。
「美味しそうなの飲んでるね。それ何?」
「お前がフィーネで注文したまま忘れていったミルクティだよ」
「えっ? あっそうだ、すっかり忘れてた。ありがと。ちょうだい」
わざわざアンナのために持ってきたとでも思ったのか、まったく悪びれず左手を伸ばしてくる。しかしくれてやる義理などない。そもそも、そんなことより。
「俺が金払ったんだから俺のものに決まってるだろう。……セシルはどうした?」
「うんとね、そこで別れたよ」
アイスに囓りつきながら、アンナは質問に答えた。空いた片手で指さした方角には、広場がある。
「セシルちゃんの知り合いのお姉さんと会ってね、セシルちゃんなんだか怖い顔してたよ」
この街に、セシルの知り合い?
誰だろう。セシルと初めて相対した日の、ユキの言葉が不意に思い起こされる。――彼女も、魔法使いの仲間だよ。
怖い顔をしていた、という言葉と合わせ、薄ら寒いものを覚える。まさか。
スプートニクの考えなど気にも留めず、アンナはけろっとした顔で続ける。
「それでね、なんかその知り合いの人と話がしたいって、だから街案内はまた後でねって。今度また遊ぼうねって別れたよ」
「……そうか」
「で、やることなくなっちゃったからアイス買ったの。そろそろアイスの美味しい季節だね?」
「お前は年中食ってるじゃないか」
スプートニクの軽口に、えっへっへぇ、と笑った。笑って、最初の挨拶と同じように「それじゃね」と手を振ると、スキップしながら去っていった。恐らく自宅に帰ったのだろう。
――さて。アンナが『そこで別れた』と示した方角を見る。広場に、セシルとその『知り合い』とやらはまだいるだろうか。もし何か後ろ暗いことによるものであればもう姿を消しているだろうが……と思ったけれど、
「店番は、いいんですか」
建物の陰から広場を覗くと、セシルの姿は思いのほか近くにあった。声もはっきりと聞き取れるのは良かったが――気付かれたかと、一瞬ひやりとする。彼女の表情が揺らがないことからすると、どうも杞憂に終わったようだ。
セシルの会話相手は、こちらに背を向けている。けれどそれが誰かは、すぐにわかった。なぜならそれは、スプートニクのよく知った人間だったからだ。ただ、その相手とは――危惧していたような『魔法使いの仲間』ではなかったけれど、残念ながら、スプートニクの緊張が解けるような人間でも、なかった。
「人に店番を押しつけて飛び出して、いつまでも帰ってこないのが悪いんじゃない。鍵はかけてきたし、大丈夫でしょ」
まさか、兄弟の話題から彼女を連想していたから、彼女が現実に現れた――なんてことはないだろうが。セシルと相対峙しているのはスプートニクの姉、ユキだった。街灯の柱に寄りかかり、セシルのことを見ている。
広場で立ち話をしている、住人ではない、見慣れない女性たち。街の人間は、二人をそれなりに気にはしているけれど、敢えて話しかけるほどに興味はないようだ。どちらかと言えばスプートニクの振る舞いの方が怪しく見えるようで、彼女らの脇を通り過ぎた先の角に隠れているスプートニクに驚くか、あるいは「何をしているのか」と言いたそうな視線を向けてくるけれど、そのたび唇に指を当てて「静かに」の仕草をして見せた。
「……それで? わざわざ私を捕まえて、何の用なんですか」
「少し、話をしようと思って。スプートニクのいないところで」
自分の名が出たことに、ぎょっとする。不用意に広場へ飛び出さなくて良かった。
ユキが腕を組んだ。セシルは微動だにせず、それを見つめている。怯む様子はない。
「あなた、何をしにこの街へ?」
「あなたに話すことではありません」
「いいこと。今すぐ荷物をまとめて、コークディエに帰りなさい」
「なぜですか」
「私の目の前をうろうろされることが不快なの」
低い声。そう言ったときのユキの顔が見えなかったことを、スプートニクは幸運に思った。
動揺を追い出したくて、ストローを咥える。煙草と比べて格好はつかないけれど、冷えた甘い茶の喉を落ちる感覚が、幾分思考を落ち着かせる。
「なぜあなたは、私をそこまで疎います?」
「私はね、魔法使いたちが嫌いなの」
「成程。しかしそれは、確かにあなたの動機ではありますが、私がこの街を去らねばならない理由にはなりませんね。力尽くで追い出しますか?」
二人が黙っていたのは、どれだけの時間だっただろう。
ふ、と息の抜ける音。ユキの肩から力が抜けたのがわかった。笑ったのかもしれないけれど、嬉しさから生まれたものではないだろう。
「だけどまァ――そうか。あなたの目的はともかく、何の手土産もないままじゃ、ご主人様のところへは帰れないよね」
「どういう意味でしょう」
「『今のままでは帰れない』そのままの意味だよ。……だけど、どうだろう。今から私が言うことを聞いても、あなたはここに留まっていられるかな」
何を言う気なのだろう。張りつめた空気に、ついストローを噛む。
セシルの表情は変わらない。ただ、身構えるように拳を握るのが見える。その緊張を感じ取ったのか、ユキの声は弾むようだった。
「フランソワズという女を知っているね?」
知らぬわけがない、という断定の口調。セシルは、なぜこの女がその名を知っているのかと、訝しんだろうか。頷くことすらせず、ただユキを見つめている。
ただ、続いた言葉にスプートニクが感じたことは、恐らく。
セシルが覚えた感情と、さほど違わなかったはずだ。それは――
「この私が、彼女の死に関わっているとしたら?」
――戸惑い。




