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『ついて回るもの』。
かつてこの市に永住を申し出たとき、彼は、永住許可申請書にそう自分の名を書いた。
ナツはそのときとある事件の捜査を手掛けており、重要参考人の申請書の写しを引き取りに市役所へやって来ていて、たまたま彼の書類提出に居合わせた。ちらりと視界に入ったそれへ、そのときは「妙な名だ」としか思わなかったが――
後日、パトロールの際に出会ったスプートニクへ、世間話の一環として「不思議なお名前ですね」と言ったところ、彼は微笑んでこう答えたのだ。
――「ああ、偽名なんで」。
それ以来、ナツはスプートニクのことを信じていない。
*
衝撃の名残にゆらゆら揺れる『従業員専用』を眺めながら、ナツはフンと荒い鼻息を吐いた。
まったく、相変わらず胡散臭い男である。
二人がここに住み着いてから結構な月日が経つが、クリューはともかくスプートニクの方は、未だに正体が知れない。浮かべる笑みには癖があり、吐く言葉にはどれにも裏の意味があるように思えてしまうのは、決して申請書の先入観だけではないはずだ。気のいい街の住人たちは彼もまたここの人間の一人として迎え入れていたが、ナツだけは警戒を解いていなかった。
クリューの方は、最初こそ人見知りがちでよくスプートニクの後ろに隠れていたものの、今となってはこの街にも溶け込んで、自然に振る舞いよく笑う、年相応の顔を見せている。というのに、彼の方はどうにも――と。
「ふ、ふうう、ふうううっ」
そのとき妙な声だか音だか、とにかくよくわからないものが耳に入って、ナツは背後を振り返った。
「え? ク、クリューちゃん?」
「ふううううっ」
するとそこではクリューが妙なうめき声を上げていた。頬を膨らませ、顔を真っ赤にし、見開いた目には今にも溢れそうな涙を溜め込んで。両手でエプロンの裾を固く握り、天井を見上げ、何かを我慢しているようでもある。
これはただ事ではない。ナツは彼女の肩に手を置いて、真っ直ぐに彼女の目を見つめた。
「どうしたの、気分でも悪い? 大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ、で、う、うう、う――うううっ」
気丈に返事をしようとするが、語尾が呻き声に消えたあたりからしても、大丈夫ではないようだ。みるみるうちに涙は増えて零れ出し、握り締めた拳は震え、やがて我慢のならなくなった彼女が目を固く閉じると、大きな泣き声が店内を満たした。
「う、うええ、うえぇぇえぇぇぇっ」
「よしよし。どうしたの、またあのバカが不埒なことした?」
肩を抱いて、優しく頭を撫でてやる。
すると彼女は泣きながらナツに抱き着いて、途切れ途切れに話し出した。
「す、すぷーとにく、さん、帰ってきたの、さっきで、夜じゅうずっと、どこか、出かけた、出かけてた、みたい、で」
「うん、うん」
「すごい、おさけの匂い、で、おさけ、飲みすぎで、どこ行ってたんですかっ、て、聞いても、適当なこと、しか、ひっ、いわ、いわなくて、だれとって、聞いても、『俺の勝手だ』って、く、クーは、クーはっ、かんけ、ない、って」
感情が高ぶると、クリューの一人称は『私』から『クー』になる。本人にとってはまったくの無意識下の出来事のようで、何か意味があるわけではないようだが。
幼子のようにブラウスの袖でぐしぐしと荒く涙を擦るので、白い頬が赤く傷ついてしまう。見かねたナツがハンカチで涙を拭ってやると、彼女はひいいっ、とまた喉を鳴らして息を吸った。
「しかも、や、宿屋、一緒に、お、おんなのひとと――」
そして続いたそれを聞いて、ナツは不快に思わず眉をひそめた。
ナツは、スプートニクとクリューが恋仲ではないことを知っている。が、クリューがあの性悪店主に対し、懸想か恋慕か、またそれに至らずとも近い感情を抱いていることもまた知っていた。彼女自身がそれを自覚しているのかどうか、あの下衆男がそれに気づいているのかどうかは定かではないけれども、年頃の女の子へ一切の配慮なくそういう発言をするあたり、気づいていようがいまいが非常に許しがたく、男の風上にも置けない。
「そ、そんで、今日はお昼まで、お仕事しない、って言って、クーが、そんなのよくないですって、言ってるん、のに、きいて、聞いてくれな、聞いてくれなく、て」
「そっかそっか、相変わらずひどい奴ね」
「そ、そうなんです、ひ、ひど、ひどいんです」
「そういう奴には我慢しないで馬鹿って叫んどきなさい、すっきりするから。スプートニクの馬鹿ー。はい」
「す、スプートニクさんの、ばかぁ」
さて、怒っているのは職務態度に対してか、それとも別の何かへか。
しばらく好きなように泣かせてやると、少しは落ち着いたようだった。ナツの貸したハンカチで涙を拭うと、ふうっと大きく息を吐いた。
「ありがとうございます、ナツさん。すっきりしました」
「どういたしまして。あの下衆店主が起きてきたら、きちんと回し蹴りしておきなさいね」
冗談めかして――八割は本気だが――言うと、楽しそうに笑った。どうやら気分はすっかり良くなったようだ。
そうしてうつむき、しばらくくすくす笑った後。
クリューは不意に顔を上げた。
「あ、そうだ、お買い物行かないと……」
そして言ったのは、そんなこと。
買い物?
「ああ、さっきあのバカが言ってた、足りないものがどうとかっていうの? いいじゃない。起きてきたら自分で行かせれば」
「ええ、まあ、ただのスプートニクさんの我が儘ならそうするんですけど、お仕事のことですし……あ、だけど窓とかの鍵全部開けちゃったし、防犯装置も切っちゃった。このまま出ていくわけにも行かないんで、諦めます」
苦笑して、肩を竦めた。確かに大事な店と商品たちを、見張りもなく放置して出かけるわけにはいかないだろう。
が、残念そうな彼女の面持に、ナツはどうにも放っておけない気持ちになる。
だからナツは、人さし指を立てて。
「それじゃあ、よかったら私、留守番していてあげるわ。お店始まる前には帰って来てくれるんでしょう?」
そんなことを提案すると、クリューはまだ少し潤んでいる瞳で、ぱちくりと瞬きをした。
「いいんですか?」
「お安い御用よ」
首を傾げて笑ってみせる。
ここ最近はこれといって大きな事件もなく、どうせ局に戻ったところでやることは書類整理くらいだ。一般市民の安心の保全とかいう名目ならば、多少ここで時間を潰したとしても、大した罰は当たらない――スプートニクあたりが聞いたら「たいそう態度のでかい税金泥棒だな」とでも言いそうではあるが――だろう。
「それより、何を買うかは覚えてる?」
「ええっと確か、スプートニクさんが言ってたのは、研磨剤とワイヤーと、洗浄剤……あ、あとそうだ、せっかくだからエレンさんのお店にも行ってきます」
「エレンの?」
エレンの店はパン屋である、宝石の加工に何らかの関係があるとは思えないが――不思議そうにするナツを見て、クリューは困ったように笑うと、潜めた声で「秘密ですよ」と前置きしてからこう言った。
「スプートニクさん、メロンパンが好きなんです。この街に来てからは特に、エレンさんのところのがお気に入りで。起き抜けにコーヒーとエレンさんのお店のメロンパンを用意しておくと、すごく嬉しそうにするんです」
メロンパンを目の前に、諸手を上げて喜ぶスプートニク。――想像力の限界がきたようで、脳裏に描いた絵の中にぼかしが入る。
ナツは額に手を当てながらぼやいた。
「またイメージに合わないものが好きなのね、あいつ」
「メロンパンを肴に清酒飲むのも好きですよ」
清酒とメロンパンが合うとは到底思えなかったが、あの変わり者のことだ、何を好んでいてもおかしくはない。
「だから、十分から十五分くらいあれば帰ってこれるかな。ええと、今――」
クリューはエプロンのポケットから小さな時計を取り出して、蓋を開いた。ナツも自分の左手首を見る。針は九時三十分を指していた。この店の開店は、確か十時だったはずだ。
おずおずとナツを伺う瞳。ナツはにっこり笑って、右手を振った。
「いってらっしゃいな。急がなくていいから気をつけてね、事故に遭わないように」
「ありがとうございます。お手を煩わせちゃってすみません、よろしくお願いします」
言うと彼女は一度奥へ引っ込み、愛用の鞄を肩から下げて戻ってくる。そしてエプロンを脱ぎレジカウンターの椅子へ引っかけると、ぺこぺことナツへ二度頭を下げてから、買い物へと出かけていった。
そうして残されたのは数多の宝石たちと、店の従業員ならざるナツ一人。
窓際の来客用ソファに腰かけると、ゆったりと体が沈んだ。
「……宿屋、ねえ」
ソファに腰を埋めながら、ナツはぽつりと、呟いた。
昨晩――いや、今日の朝方までか。酒場ないしは宿屋での、逢引だか逢瀬だか。クリューには言わなかったが、ナツにはそのことでひとつだけ、引っかかるところがあった。
あの馬鹿は一晩ずっと、『女性の誰か』と宿にいたという。もしやそれは……
もしや。
けれどナツは、かぶりを振って、考えるのをやめた。彼女が思考したところで答えの出せることではないからだ。知りたいならば、スプートニク本人に聞くしか方法はない。
低くなった視界の中で、椅子に無造作に掛けられたエプロンを見やり、次にその持ち主の少女のことを考え、最後にいま二階で眠っているのだろう駄目店主のことを思い。そうしてナツは、はぁ、と大きくため息を吐いた。
――あの百分の一でもいい。
彼女のような愛嬌が、あの下衆男にあればいいのに。