4-1
クリューに作らせた夕食は、思っていたより美味かった。
もう何年も前、これを雇い出して、これの心身に余裕が出来てきた頃一度だけ料理を作らせたことがあったが、作り上げたのはまずひどいもので、人どころか獣も寄り付かないそれであった。――というのは比喩ではなく、二日ほど台所に放置して置いたところで、鼠一匹蝿一匹、集りはしなかったのである。
あまりの酷さに流石の彼も「……まァ、これもこれで才能だな」と慰めになっていない慰めを口走ったのが確か、当時の話になる。とはいえそれはもう充分に過去の話だ。片腕片足の不自由に面倒があった気持ち半分、恐ろしいもの見たさ半分に台所を任せてみたが、出てきたものは至極普通のオムライスだった。これだけの間一人で生活させていれば食事の一つくらい作れる程度には成長するか、と妙に感慨深く思ったが、それは取りも直さず、それだけ自分も歳を取ったということでもあるわけで――閑話休題。
食事を終えた彼女は、「寝る準備してきますね」と鼻歌混じりに部屋を出て行き、しばらくのち、自分のための毛布と兎のぬいぐるみを持って戻ってきた。
紅桃色の、四肢の稼働するつくりのそれ。左目を模した黒い釦は、留め糸が緩んでいるようで落ちかけていたが、他に傷や埃はないようだ。綿が漏れているようなところも確認できず、どうやら彼女なりに大事に扱っているようだった。
そしてそのぬいぐるみには、スプートニクも見覚えがあった。
「なんだ、まだそんなもの、持ってるのか」
「『そんな』なんて言わないでください」
頬を膨らませ、胸の前で兎を抱き締める。
それはまだ二人が旅をしていた頃、とある街の市場の片隅で売っていたぬいぐるみ。過去の記憶から頻繁に夢に魘される彼女に、スプートニクが買い与えたものだ。――贈るとき、小さな法螺を吹きながら。
そしてその法螺をまだ信じていたらしい彼女は、にこにこと笑いながらこんなことを言う。
「だって、スプートニクさん、これ持って寝ると怖い夢見ないって」
「ありゃ嘘だ」
「えっ」
ただの偽薬効果である。
数年越しにあっさり明かされた真実へ、クリューはまるで阿呆のように口を開けた。
「そこらの露天商で勝ったただの玩具だよ。何の効果もありゃしねェ」
「で、でも。この子のおかげで私、本当に怖い夢見なくなったんですよ? 本当に――」
狼狽えながら、腕の中の兎をもう一度抱き直す。とその衝撃か、兎から、コロンと黒い何かが落下した。それは床を何度か跳ね、転げて、スプートニクの爪先に当たり動きを止める。
拾い上げる。それは黒い釦だった。ぬいぐるみの顔とスプートニクの抓んだそれを交互に見て、クリューが悲痛な声を上げる。
「うーちゃんの、うーちゃんのおめめが」
「うーちゃん?」
「この子の名前です。兎のうーちゃん」
なんとも安直なネーミングである。
とはいえこのお嬢の頭で思いつく名前などたかが知れているか、などと考えていると、表情から彼の考えていることを悟ったのか、クリューは不満そうに眉を寄せた。
「スプートニクさんがつけてくれたんじゃないですか」
「俺が?」
果たして自分が、そんなセンスのない名前を付けるだろうか。
「覚えがねェな」
「スプートニクさんが覚えてなくても私は覚えてます。あぁうーちゃんのおめめ」
ぬいぐるみを腕に抱いたまま、嘆くように、或いは惜しむようにぬいぐるみの名を呼ぶ。下手に機嫌を損ねさせても面倒だと、スプートニクは軽く右手を振った。
「あァ、あァ、わかったわかった。うーだがむーだか知らんが、釦くらい俺が直してやる。だからいちいち煩く言うな」
「本当ですか。本当に直してくれるんですか」
「今回の件が片付いたらな」
念を押すかのようなクリューの言葉にそう答えると、彼女は魔法少女のことを思い出したのか、悲しそうな顔をした。気にしているらしいが、スプートニクとしては、他人の部屋で負の空気を撒き散らさないで欲しい。未だ来ぬものに対し悩んだところでどうにもなるまいに。
スプートニクは、軽く右手を振って見せた。
「何にせよ、来るのは明後日だ。お前は心配で仕方ないようだけどな、今から悩んでも仕方ねェだろうよ。当日まで気ィ張り続けて倒れたら元も子もないぞ」
「……そう、ですよね」
すると彼女は、一つ頷いた。自分に言い聞かすような同意。同時に、きつく固まっていた目元が、少しだけ緩む。この分なら、心配するほどでもなさそうだ。
「わかったらさっさと寝……」言いかけて、机の上の時計が目に入った。就寝にはまだ早すぎる。「……寝るなり寛ぐなり好きにしろ」
「はい」
時計の蓋を綴じ、重そうに背負った毛布を彼女から取り上げて運んでやる。ぬいぐるみは自分で持てるだろう。どこに置いたものかと少し悩んだが、どうせ使うのはここだろうと、結局、ベッドの上に放ってやった。
クリューはぬいぐるみを抱えたまましばらくベッドを眺めていたが、やがて緩めの笑顔を浮かべた。
「うふ」
「なんだ。気持ち悪い笑顔しやがって」
「スプートニクさんのお部屋で寝られるの、久しぶりです。うーちゃんと一緒だから怖い夢は見ないけど、やっぱり誰かと一緒にいられるのって、嬉しいです」
ぬいぐるみを抱いていない方の手で頬を押さえ、うふうふと笑う彼女を見ながら、ふと、これにきちんと別の部屋を取ってやるようになったのはいつの頃だったろうかと考える。まだ旅商人という身分の頃、これが自分で身の回りの世話をできるほどに回復した頃であったのだろうが、とかく昔のことである。思い出せそうにはなかった。
クリューはベッドに登ると、ベッドの奥側にこちらを向いて横になり、中央あたりにぬいぐるみを置いた。やけに端に寄って寝る癖があるのだな――と思っていると、空いた手前側をぽんぽんと叩いてスプートニクを伺い、何やらにっこりと笑う。
そしてこう、彼に告げた。
「はい、どうぞ」
一瞬、その行動が何を意味するのか、理解出来なかった。
遅れて答えを察するが、それが正答であるとは受け入れ難く、額に指を当て眉根を寄せる。確認のため問いかけたが、その声は自分でも思った以上に低く、唸るようなそれとなった。
「何が、どうぞ、なんだ」
「……? スプートニクさん寝るじゃないですか」
「お前の隣で?」
「寝床一つしかないって言ったの、スプートニクさんじゃないですか」
確かに、言ったが。
自身の主張が至極当然なものであると信じて疑わないクリューの様子に、思わずため息が漏れた。
不思議そうに首を傾げるその仕草もまた、どこか間が抜けて見え、教育を幾分間違えただろうかと思いながら、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「クリューさん。僕ァ君に折り入ってお伺いしたいことがあるんですが」
「何ですその変な敬語」
「君は馬鹿なんですか?」
「ば」
直球でぶつけた質問は、彼女に充分な衝撃を与えたらしい。言葉を失くしたクリューが我に返るより早く、スプートニクは背を向け椅子に腰掛けた。肘をついて顎を支え、ぼそぼそと言う。
「俺は椅子で寝るよ」
「なんでですか」
「ぶっ殺されたくねェもん、ナツに。ベッドはお前が使え」
とはいえやはり、寝るにはまだ早い。睡魔が至るまで読み物でもしようと、書斎机の本棚に手をかける。と、視界の端に動くものが映った。
気になってそちらを向くと、ベッドを降りたクリューがせっかく広げた毛布を再び丸めて持ち上げているところだった。どうするのかと思って眺めていると、持ち上げたまま重たそうによろよろと歩き始める。裾を引きずりそうになりながらやっとこ部屋の隅にたどり着き、兎と一緒に毛布に包まって蹲った。
そのまま俯き目を閉じて動かなくなったので、もう聞いてもよかろうと思い口を開く。
「何をしてんだ」
すると彼女は瞼を上げた。いたく真面目な顔をして、
「スプートニクさんが寝ないなら私だってベッド使えません。押しかけたの私なんですから。私なら大丈夫です。昔は掛け布団もなくて床で寝てました」
「だから笑えない自虐はやめろと。……わかったよ。俺はあとから寝るから先に寝てろ」
「はい」
「ベッドで、だ」
返事はあれど動きそうになかったので、念を押すように言ってやると、やはり意外そうな表情をした。早く行けと顎でベッドを指してやると、「スプートニクさんもちゃんとベッド使って下さいね」と言って、芋虫のようにうねうね動きベッドへ向かって行く。
やがて芋虫がベッドの上――やはり端だがもう致し方ないと諦める――に転がったのを確認して、スプートニクは視線を机上の本棚に戻した。さて、彼女が寝静まるまで何を読もうか。本棚に挿したものは、宝石知識の本、宝石加工の技術書、デザインの発想を認めたノート、それから。
「魔法使いと宝石屋さんって、何か関係があるんですか」
「……うん?」
突然の問いかけを受け、肩越しに振り返る。芋虫状態をやめベッドの上で半身を起こしたクリューが、こちらを向いて首を傾げていた。
「何を突然」
「ぼうっとしてたら、ふと朝のことを思い出したんです。ソアランさん、リアフィアット市に魔女協会ができることが、スプートニク宝石店にも関係があることだって言ってました。あれ、どうしてなんですか?」
まったく要らぬことを覚えている。どうして、と言われても――説明が大儀で、思わず眉間に皺が寄った。
「つまんねェ知識だ。雑学だ。んなこと知ったって何にもならん、さっさと寝ろ」
「そんなことないです。敵を知って、ええと、己が、ええと、ええと……とにかく、知ると、争いが、すごいです」
「お前が言いたいのは『敵を知り己を知れば百戦殆からず』か?」
「それです」
至極真面目な顔で頷く阿呆。抱いた隻眼の兎の表情も、どこか間が抜けて見えるような気がするのは錯覚か。
とはいえ彼女は心の底から真面目にものを言っており、また、話さなければやはりブツブツ文句を言うのだろう。
机に置いた時計を取り上げ、開いて再度時刻を確認。寝るにはやはり早かった。知識の足りない彼女のための寝物語代わりとして、少しばかり勉強させてやるのも悪くはないか。そう自分を納得させ、一つ頷くと、スプートニクは再び本棚に手を掛けた。
本年もどうぞよろしくお願い致します。