2-1
愛用の目覚まし時計が鳴って、彼女は目を覚ました。
いつも通り、ベッドの上に落ちた宝石を拾い上げ、顔を洗い、服を着替える。微睡を手放しベッドから起き上がるまでに些かの時間はかかったが、それもまたいつものことである。
寝癖の立った長めの栗色にようやく櫛を通し終え、支度を終えると、彼女はベッド脇の机の上から一冊の手帳を取り上げた。
「今日の予定は……と」
花柄のそれは彼女のスケジュールを書き留めたもので、『ナツさんとお昼、十二時に待ち合わせ』『十五時、エリーゼ様ご来店』等々、公私の分別なく書き込まれている。頁をめくっていき今日の日付を開けると、そこには小さな文字で一言だけ書かれていた。――『商会』
それを見て、今日の予定を思い出す。ああ、そうか、と思いながら窓辺の白いカーテンを少し開けると、窓の向こうには青い空が広がっていた。外出には持って来いの天気だ。
しかしその抜けるような青空に、些かの恨めしさと寂しさを覚え。
聞く者のいない呟きを、彼女はぽつりと口にした。
「……今日はスプートニクさん、いないんだっけ」
リアフィアット市は大陸東部に位置する、ルカー街道の宿場町として栄えた中程度の街である。
年間を通して温暖な気候から、多種多様な果物・花卉の産地としても知られているその街は、魔女協会の支部こそなけれど警察局の治安維持活動は非常に優秀で、未解決の事件はゼロに等しく、とても暮らしやすい土地だ。
そんな街の片隅に、小さな宝石店があった。――『スプートニク宝石店』。
商会。
その二文字を恨めしく眺めた後、スプートニク宝石店従業員のクリューは、大きくため息をつきながら手帳を閉じた。たった一人で店番をしなければならないなんて、今日はなんと面白くない一日だろう。
――商会とは、この大陸における、宝石商の互助組織のことである。
正式名称をクルーロル宝石商会という。宝石商を生業とする者は必ず所属しなくてはならない、などとという決め事があるわけではないが、所属していることそのものが自身の宝石商としての身分の保証になる上、売買しているものが正規のルートを通って流通していることの証明になったり、宝石鑑定書の発行の手順が容易になったり、また、窃盗をはじめとする何らかの事件に巻き込まれたりした際に手厚い保障を受けられたりと、何かと便利な面が大きい。「報告その他のため、定期的に商会まで足を運ぶ必要があるってェのは面倒だけどな」とは店主スプートニクの弁。
そして今日はその『報告』に、スプートニクが向かう日であった。
このリアフィアット市から、最寄りの商会支部までは馬車で半日弱かかる。それから商会を訪れ、いろいろな――クリューには小難しくてわからない――話し合いの席を持ち、それから帰ってくるのだから、戻りは翌朝か、良くて今晩遅くになる。それまでは従業員のクリューが一人で店を守るわけである。
スプートニクが商会を訪問するのは決して珍しいことではないが、何度経験しても慣れない。「店番が面倒なら、一日休業にしておいても構わない」と彼は言うけれども、そういう問題ではないのである。店番が嫌なのではなくて、置いて行かれることが――しかしそんなことを言うのは、彼女の心が許さなかった。
とはいえ昨晩店を閉める際、「明日は『おるすばん』頑張れよ」と子供に言い聞かすような口調で言われたことはひどく腹立たしい。あれは一体、自分をいくつだと思っているのか。
思い返すと、寂しさが段々と苛立ちに差し替わってきた。自分は保護者がいなければ寂しくて泣いてしまうような子供ではない、一人でも店を守り、また往った店主の帰りを待てる立派な従業員なのである。それをわからず子供扱いするとは!
「それは、ええと、そう。ばんこう、に値します」
蛮行。最近本で覚えた言葉を口にすると、年嵩を増したような気分になって、少しばかり自信が湧いた。そうとも、自分は大人で立派な淑女なのだ、一人でも何の問題もない。鏡の中の自分に大きく頷いて見せると、クリューは鼻息荒く部屋を出た。
階段を降り、ドアを開け、店内へ。誰もいないことはわかっているが、いつもの反射で朝の挨拶をする。
「おはようございま――」
「おう」
しかし。
無人のはずの店内から、それに返された声があった。
はた、と立ち尽くす。声の発信源は店のカウンターの方だ。そちらを向くと、青年が一人、椅子に座っていた。カウンターの内でカップを傾けるその人は、他でもない。この店の主人であり彼女の雇い主、スプートニクその人であった。
右手に愛用のカップ、左手に何か、メッセージカードのような紙切れを持っている。カップの方は多分に漏れず目覚ましのための濃いブラックコーヒーだろうが、紙切れの方はなんだろう? けれどそれよりも気になることがあった。何せ彼は、今日はいないはずの人だ。
「スプートニクさん。商会はよろしいんですか。今日ですよね?」
「やめた。さっき急ぎの郵便を出したから問題ないだろう」
訝しく思いながら尋ねたが、忘れてはいなかった。しかし、だとしたら何故。
「どうしていきなりやめたんです? 面倒くさくなったとかですか」
「お前は俺をなんだと思ってる。――行く気だったさ、そこを開けるまではな」
と視線で指したのは、店の正面玄関。そこで見たものを思い出したのか、もともと機嫌の悪そうであった表情を更に歪める。店主の眉間の皺が一段と深く刻まれるのを見ながら、クリューは思わず首を傾げた。玄関先で何を見たのだろう。
するとスプートニクは、左腕をこちらに差し出した。そして呟くように言う。「『閉店』の札に、これが貼り付けてあった」
その手に握ったものは、名刺大の紙だった。閉店後、どこかの店が営業回りに来たのだろうか。しかしその程度でスプートニクが今日の予定を取りやめにするとは考えにくい――思いを巡らせながら、受け取った。
裏返して渡されたそれをひっくり返す。
そこには短い文章が書かれていた。読むに時間のかかるそれではなかった。
近日中に、あなたの心と宝石を頂きに参上します。魔法少女ナギたん
「これは――」
一度、二度。念のためもう一度読み返して、
「……なんですか?」
再びクリューは首を傾げた。驚きはしたが、情報量が少なすぎていまいち内容把握に難しい一文である。心? なぎ? 何?
思ったことを取り敢えず吐くと、スプートニクはあっさり答えた。
「わからん」
流石のスプートニクも匙を投げたらしい。
「わからんが、窃盗の予告だというのは確かだな」
「大変。それじゃ、ナツさんに連絡しないと」
馴染みの警察官の名を上げるが、しかしスプートニクはそれにも良い顔をしない。彼はナツとはなぜか犬猿の仲なのだ。
何か言おうとスプートニクが口を開くより早く、被せるようにして言ってやる。
「だって、スプートニクさん。犯罪の予告でしょ。なら、警察局に通報するのは当たり前のことじゃないですか」
「犯罪予告、ねェ……」
しかし渋い表情は絶えない。腕を組み、クリューの持つそれを睨むように見ている。クリューは更に重ねた。
「スプートニクさんがナツさんのこと苦手なのは知ってます。でも、泥棒さんに宝石盗られちゃうのはもっと嫌でしょう。そんなの、お店の評判にも繋がりますし――」
「あァいい機会だ、そろそろ店売ッ払って旅商人に戻るかァ」
「スプートニクさん!」
目を吊り上げて名を呼ぶと、彼は肩を竦めて「冗談だ」と言った。
「ようやく自分の店を持ったんだ、そう簡単に手放しはしねェよ。けど、しかしなァ。予告状付きの窃盗とはまた、古風な泥棒もいたもんだ――」
「――古風でも、こちらの組織ではなかなか有名な怪盗なんですよ」
その言葉と、ドアベルが鳴ったのは同時だった。
スプートニクとクリュー、揃ってドアを向く。入ってきたのは二人組だった。
曲がりなりにもここは宝石店である、恋人へ贈り物をしようと、或いは手を繋ぎ、また或いは腕を組み、仲睦まじく訪れる男女の二人組は珍しくない。けれど今入ってきた一組は、明らかにそれらとは異なっていた。
二人の纏うものは濃い色のローブ。胸元を留める釦の色は各々違うが、同じ紋様の彫刻が見て取れる。刻まれたそれは、クリューの知らない紋であった。ゆったりとした袖口と被ったフードの裾には金色の刺繍が飾られている。深いフードのせいで、いずれも顔の上半分を伺うことはできない。性別すら不明の、異様な容貌をしたその二人が、客ではないのは明らかだ。
スプートニクが席を立った。入ってきた二人組から視線を外さないまま彼女のもとに歩いてくると、クリューを背に庇うようにして佇む。
「いらっしゃいませ。――ご来店頂き有り難いんだが、生憎、今は開店準備中でね。申し訳ないがあと三十分ほど待ってもらおうか」
棘のある口調。正規の客相手であれば、決してしない物言いである。
「それと、礼儀として、人に挨拶をするときには被り物を取るべきだ」
「ああ、そうか。失礼」
深く被った濃色のローブは、威圧が目的ではなかったらしい。今気づいたとでもいうように謝罪をすると、彼は躊躇いなくフードを後ろに降ろし、顔を露わにした。
覗いたのは、色素の薄く癖のない髪、オリーブグリーンの瞳と、中性的な顔立ち。見ようによってはスプートニクより年上にも、また幼くも見えるその彼は、人懐こそうににっこりとほほ笑んだ。
「始めまして、店主様、お嬢さん。魔女協会のシォアーリァンと申します。こちらは私の部下のイラージャです」
彼の一歩後ろに佇む相棒を指し、名を呼ぶ。部下と呼ばれたその人も、フードを降ろして深く腰を折った。――こちらは女性だった。プラチナブロンドの流れるような長い髪が印象的な彼女。上司の彼とは対照的に欠片の愛想も振り撒こうとはしないのは、虫の居所が悪いのか、それとも単に、そういう性格なのか。
けれど彼女の機嫌よりも、クリューには気になったことがあった。それは彼の口にした言葉のひとつ。
「魔女協会?」
スプートニクの背に隠れながら、気になったそれを繰り返す。するとソアランの視線がこちらを向いた。柔らかい微笑はそのままに、彼女の疑問へ答えをくれる。
「魔法使いの互助組織のことですよ、可愛らしいお嬢さん」
「あ、あ、ありがとうございます。え、えぇと、イォ、シ、しおあー……痛っ」
「すみません、両親が西南大陸の出身なので。こちらの人には発音し難いでしょう、『ソアラン』と呼んで頂いて構いませんよ。協会の人間も私をそう呼びます」
「わ、わかりました。その、ありがとうございます、ソアランさん」
「いいえ。どう致しまして」
「クー。親しげにするな」
スプートニクに肩越しに睨まれた。けれど彼と彼女の付き合いは決して短くなく、今さらその程度で萎縮はしない。
「あと、もうひとつ聞きたいんですけど。魔法使いって、なんですか」
するとスプートニクはあからさまに、面倒だ、という表情を作った。そしてその想いを顕現するかのような適当な答えを返す。
「魔法使いってェのは、魔法を使う奴のことだ」
「説明になってません。その『まほう』っていうのがよく――」
「わかりやすく説明すると、こういうことです」
今度答えたのは、スプートニクではなかった。
ソアランはクリューの言葉を遮りそう言うと、人さし指を一本立て、小声で何かを呟いた。すると、
「あっ」
人さし指の少し上に、親指の爪ほどの大きさの、明るい球が現れた。
驚きに、思わず声を上げてしまう。するとソアランは声を上げて笑った。彼の楽しそうな笑い声で、自分の失態にようやく気付く。
「ご、ごめんなさい。大声を」
「いいえ。――魔法使いとは、こういった、奇妙な能力を使う者と思って頂ければ結構です。ただ、異能をその身に宿すゆえ、警察局の捜査に支障をきたしたり、また、冤罪を被ることもあります。そういう有事の際に魔法使い同士助け合おうということで結成された集団が、魔女協会です」
「そんなことより」
スプートニクの物言いから、棘と敵意は消えない。
クリューを背にして立ったまま、彼はソアランに問いかける。
「リアフィアットには魔女協会の支部はなかったはずだが。協会支部のない街に魔法使いが訪れるとは、珍しいこともあるんだな」
「おや。店主様はそちらを先に気にされる? てっきり私は、そちらとの関係性を聞いてくるかと思ったのですが」
視線で『予告状』を指しながらの微笑みに、スプートニクの肩が小さく揺れるのがわかった。それは言葉に対する驚きと言うよりも、苛立ちからきたもののようだ。
「とはいえ、どちらのことを話そうと、最終的には同じことに繋がります。そしていずれにせよ、あなたに関係あることです。少し、お時間を頂いてもよろしいでしょうか」
スプートニクは、敵意の溢れる表情を崩さぬままにソアランを睨み付ける。
しばしの沈黙ののち折れたのは、珍しいことに、スプートニクの方だった。長く深いため息をひとつ吐くと、振り返り、疲れたような瞳をクリューに向けて、彼女へこう命じたのである。
「……クー。茶を」




