グーラ
目を覚ますと、口の中によだれが溜ってることに気づき、一気に吐き気は限界に達した。
冬月が不快感を感じることが自分が生きてる証拠として受け取れなかったのも無理もない話だった。
彼の頭を駆けるのは死を振りまく屍食鬼の目と匂い、そして彼を背後から襲った少女のことだった。俺を生贄にして逃げたのか?冬月はそんな負の考えに縛られていた。
あたりを見回すがどう考えても病院じゃないし、あの世とも思えない。
さびたドラム缶と適当につまれた土嚢、湿気た木材に鉄パイプ。そして生気のない機械の山。
見上げるとはるか遠いトタン葺きの天井から太陽の光がまるで棒のように差し込んでいた。
後ろ手にしばられ、手首は擦り切れて血がにじんでいるのが分かった。
口に巻かれたさるぐつわはよだれでぐしょぐしょに濡れていた。
冬月が脱出をあきらめぐたぁ~となったその時を見計らったかのように昨夜の少女が現われた。
服装は昨夜と変わってないが顔色は良く、少なくとも昨夜よりかは元気そうに見えた。
冬月は自分を襲ったことよりも人間に会えた喜びのほうに浸った。
ところが少女はそれどころではないらしく、北極グマさえ凍えさせそうな目つきで冬月を見下ろした。冬月も彼女が手に持つナイフを見て凍りついた。
「助けてくれるんだろ?」。言葉にならない叫びを少女に向ける。
少女は石になったようにぴくり、とも動かない。
その時、少女の背後で何かが動くのが冬月の目に止まった。
もがき、あがき、声にならない声をあげる。
グールだ。なぜ気づかない!?後ろを向いてくれ。
冬月の抵抗むなしくグールはそっと音もたてずに少女に忍び寄る。
そして・・・ついに伸ばせば触れられそうな距離まで近づいてきた。
少女はすっと視線をグールにうつす。その目は冬月に向けられた氷の目ではなく
微笑みさえたたえた慈愛あふれる聖母の目だった。
彼女は手を伸ばし、子犬でもなでるかのようにグールの頭をなでる。
グールもぐぐぐっとのどを鳴らし、目を細めて鼻面を手にこすりつける。
冬月は愕然とした。いや、吐き気さえ覚えた。
人の天敵とさえ言われた化け物が子飼いの犬のような体たらくをさらしているのだ。
彼女はかりかりとグールの耳の後ろを掻き、「あっちで待っててね」とささやくと
その尻尾が見えなくなるまで穏やかに見送った。
次に冬月に向けられた視線は聖母とはうってかわって死神の目つきだった。
冬月は希望が打ち砕かれた衝撃で頭がくらくらしていた。
人がいる。助かる。そんな構図はグールと少女とのやりとりでたち消えた。
いや、希望が打ち砕かれたわけじゃないんだ。理解できない状況に
現実味のない希望など太刀打ちできようもない話なのだ。
「昨夜のことはあなたの完全な思い違いよ」
少女はふいに口を開いた。風のように透明でつかみどころの無い声だったが
冬月の耳になぜか強く引っかかった。
「わたしがグールに襲われたと思ったんでしょうけど・・・これがそう見える?」
少女の腕に巻かれた・・・医療品の端にも置けないような汚さだったが・・・包帯をするするっと
ほどき、その傷を冬月にさらした。
生々しい傷。爪や牙でつけられたモノにしてはやけに整った丸型の傷。銃創だ。
しばらくして冬月の目が傷から逸らされたのを見て少女は包帯を巻きなおした。
「陸自に撃たれたのよ。逃げ遅れた仲間を見て、飛び出したせいでね」
自嘲的な笑いを浮かべた。そのすぐあとに続いたのは獲物を手にした悪魔の笑み。
「人だとでも思ったんでしょうね。急に撃つのを止めたわ。
もちろんそんな隙逃すわけも無い。切り裂いてやったわ、すぱぁーとね」
ナイフを冬月ののどに当て、線を引く。血がゆっくりと流れ落ちる。
昨夜感じた恐怖とは違う、濃厚に現実味を帯びた死がゆったりとした足取りで冬月を包んだ。
血の付いたナイフを手に持つ悪魔を目の前に冬月はなすすべも無くうめいた。
「わたしは人じゃないの」
1+1は2です。そんな当たり前のことを諭すような口調で少女はつぶやいた。
「グーラって知ってる?雌の屍食鬼のことよ。
それがわたし」
ナイフを器用に手の中で回しながら少女は続ける。
「雄も雌も基本的に身体の形も機能もハイエナに酷似している。
その中でわたしは異常なのよ。こんなどうしようもないくらい不便な姿で産まれた」
すらっとした自分の身体を忌々しげににらみ、吐き捨てる。
動けない冬月にさえ彼女の怒りが届いた。
歯をむき出しにして怒鳴る姿は獣というにふさわしい雰囲気を放出していたがやがてため息をひとつついた。
「皆は殺せと言ったけど、わたしが反対したの」
突然湧いてきた希望の泉。流れ出るその水に冬月はすがった。
相変わらずの目つきだったが、少女のその目の奥に微かに光が見えた・・・気がした。
「なんでか分かる?」
少女はぐっと冬月に顔を近づけた。
伸びるにまかせて伸ばされた彼女の黒髪が冬月の顔にかかる。
「生餌にするためよ」
狼のようなするどい歯はむき出しにして少女は笑った。
瞬間、さるぐつわを奥歯で噛み切り、冬月は怒鳴った。
「お前は俺に恩を感じてるんだ!」
ふいを付かれた少女がさっと後ろに飛びのき、ナイフを突きつける。
ここで黙ったら殺される。
命のやり取りなどしたことが無くても、ここが踏みとどまらなければならないところだということぐらい冬月にも理解できた。
少女は冬月の剣幕に押され、じりじりと後ずさった。
「どうしてあの場で殺さなかったか?
お前は俺に庇われたことで動揺した。だから止めたんだよ。殺すなってな!」
「ふざけるな!なら今ここで殺してやる!」
「どうしていいかわからなかったんだろ?
勘違いでも何でも自分を助けてくれたヤツを殺すことに抵抗があったんだ!」
突き出されたナイフが頬をかすめる。
冬月がかわしたわけじゃない。少女がわざと外したのだ。
少女はくやしそうに唇をかみ締め、うめいた。
冬月の目には真珠のようにきらっと光る何かが見えた気がしたが、少女がさっと身をひるがえし
走り去ったせいでそれが彼女の涙だったのかどうかは分からなかった。