感情を知らない少女
バチンッ
『気持ち悪いのよ!!!いつもいつも表情一つ変えないで!!!!この化け物!!!』
「日野山さんさぁ……なんでそんなに無表情なの?いつも何しても余裕そうでムカつくんだけど?」
「……。」
誰がどれだけ拒もうとも、一日は必ず訪れる。今日の朝も母親の甲高い声で目が覚めた。二階の寝室の真下からはガラスの割れる音と母が連れ込んだ男と言い争う声が聞こえてくる。二階からゆっくり階段を降りているとちょうど口論をしていた男と目が合ってしまった。男は「気持ちわりぃ」と呟くと、母に握られていた手を振りほどき、そそくさ家から出て行ってしまった。家の中はさっきまでと違い、恐ろしいほど静かになった。やがて、私に気づいた母が近づいてきた。そして、私の目の前で止まると、勢いよく私の頬を叩いた。
「本当に邪魔、私の視界に勝手に入ってこないでよ。早く私に謝って。」
「ごめんなさい」
「本当に反省してるの??気分を悪くさせたっていう自覚がこっちに全く伝わってこないんだけど???」
「ごめんなさい」
バシンッ
「気持ち悪いのよ!!!いつもいつも表情一つ変えないで!!!!この化け物!!!」
「……ごめんなさい」
「はぁ……さっさと死んじゃえばいいのに………」
母はそう言って台所に向かった。私は一度寝室に戻って制服に着替えた。そして、そのまま朝食も食べず、無言で家から出た。
学校でも私の居場所なんてない。教室に入れば私の存在は「関わってはいけない人間」とクラスメイトの目には映っている。なぜなら、私はいじめられる対象だからだ。いつも私の机には油性ペンで書かれた悪口が書き込まれており、それを遠目でニヤニヤ笑っている女子三人グループがいる。私は、いつも通り悪口で埋め尽くされた机の席に座る。そして、女子三人が私に近づいてきて、手に持っていた飲みかけのみかんジュースを私の頭にかける。
「うわっwきったなぇ〜w髪めっちゃベトベトじゃ〜ん!ww」
「体臭と相まって腐ったみかんの匂いがするんだがww」
「きっも〜い!!w」
ゲラゲラと笑う女子三人だったが、私の表情が変わらないところを見て興ざめしたと言わんばかりにつまらなそうな顔をしている。
「日野山さんさぁ……なんでそんなに無表情なの?いつも何しても余裕そうでムカつくんだけど?」
「……。」
私は相変わらず無表情だった。
「…何か喋ったら?」
「姫子ちゃん、やっぱりこの子と関わる必要なんかないよ!霊が見えるっていう川野ちゃん曰く、呪いに愛された呪いの子なんだって!なんでもこの子の周りにとてつもない悪霊みたいなのが見えるんだって!」
「それにこれの母親、PTAの集まりで激情して先生や他の生徒の親達を急に殴り出したりしてるし、父親は3年前に消息不明。完全に家庭環境に問題ある子なんだから近づかないのが普通でしょ。」
「それもそうか……」
「「あはははははは!!!」」
「……。」
「…チっ、はああああああああ………」
姫子さんは大きなため息をつく。そして、私に近づき、私の髪を強く引っ張る。
「イラつくのよ!!!!涼しい顔してるその顔が!!!!
本当は私たちのこと馬鹿にしてんでしょ!!??????ほら!!!!泣いて見ろよ!!!!泣け!!!!!」
それでも私は無表情だった。プツリと姫子さんの中で何かが切れる音がした。姫子さんが勢いよく私に向かって手を振り上げようとした時、教室に先生が入ってきた。全員すぐに席に戻らなければならなくなった。姫子さんは覚えとけよという表情を浮かべつつ仕方なく席に戻った。私はそのまま授業を受けた。
一方、先生はさっき教室で何が起きていたのか察していた。
(思春期のガキどもの気持ちは分からんな。あんな気味悪いやつに自ら近づくなんて考えられない。俺だったら絶対近づきたくなくて避けてるね。これも若いってやつなのかなぁ。)
私は学校を終え、家に帰った。帰るとリビングには気味の悪いほどご機嫌な母親が座っていた。
「あら、丁度いいところに来たわね。実はね。今日から私…あなたの母親じゃなくなるの!これからは、あなたのお父さんが身元引受人になるのよ!」
「……お父さんは?」
「言ってなかったかしら?お父さんは3年前に埋めたわ。でもお父さんの親戚はもう誰もいないし、お父さんが生きてるかどうか気にする人なんてもう誰もいないから心配する必要はないわ!これで私はやっと自由になれるの!そういうことだから……早くここから出てってくれる?」
「……分かった。」
そうして私は必要な荷物だけ持ち、無言で家から出ていった。出て行くとき、リビングで母が嬉しそうに鼻歌を歌っているのが聞こえた。母の鼻歌を聞くのは初めてだった。
家を出ると、辺り一面真っ暗だった。どこにも行く場所がない私はただただ歩き続けるしかなかった。思い返せば、私は初めてこの世に生まれた時以来、泣いたことがなかった。それを気味悪がって私の側にいようと思う人は今まで誰もいなかった。ずっと気づいていた。私と普通の子には大きな壁がある。感情がないことだ。どれだけ罵られ、酷い扱いをされても何も心が動かない。嬉しいも、寂しいも、苦しいも、死にたいも。今まで一度も感じたことがない。私にとって感情はファンタジー世界でいう魔法のように、全て物語の中でしか存在しない言葉みたいだ。結局、私は感情を理解できないまま、近々どこかで死ぬ。……死ぬ時は恐怖を感じるというけれど、私が死ぬ時はどう思うのだろう。その時やっと「理解」するんだろうか。私はそのまま足を止めずに歩いた。歩いている途中、分かれ道があった。右は真っ暗で先が全く見えなかったが、左は奥に電灯があるのが見えた。私は左の道の方へ歩いていった。私の後ろから、黒い化け物が近づいていたことに私はまだ気づいていなかった。
歩いた先に電灯があった。そのまま電灯の前を通り過ぎようとした時、私の後ろに大きな影があった。
「あー-–ーン」
振り向くと、黒い化け物が大きな口を開けて立っていた。そして、そのまま私を呑み込もうと猛突進して襲ってきた。私は逃げもせず、そのまま無表情で自分の死を待っていた。すると、急に誰かが私の目の前に現れ、黒い化け物を跡形もなく切り刻んで倒した。化け物が倒された衝撃で、私は尻餅をついてしまった。
「大丈夫?怪我はない?」
優しい声がしたほうを見上げると先程助けてくれた人が心配そうな顔で手を差し伸べていた。私はその手を取り、再び立ち上がった。
「……大丈夫」
「それなら良かった!さっきはびっくりしたよね……。とりあえず、自己紹介しようか!
僕は瑠瞳、闇のよりどころっていう組織のリーダーをやらせてもらってるんだけど……正直自分はリーダーに向いてないと思うんだよね……人を動かすとか好きじゃないし………って、話逸れちゃったね!ごめん!!」
この瑠瞳という人は、見ただけで安心するほどすごく優しい顔をしている。こんな顔を自分に向けられたのは初めてだ。
「君の名前は何ていうの?」
瑠瞳は優しく微笑みながら私に名前を聞いた。
「……名前…………日野山言葉。」
「ことは!すごく可愛い名前だね!」
「別に、母が酔って適当につけた名前だから。」
自分の名前に可愛さや思いなんてないと母に私が自分の名前の由来を聞いた時に言われた言葉をそのまま伝えただけのつもりだった。けれど、彼は悲しそうな顔した。私には不思議だった。
「そっか……僕はまだ君のことを何も知らないけど、君がすごく素敵な女の子だってことは分かるよ。綺麗な銀髪にガラスみたいに透き通った赤い目。僕はすごく綺麗だと思う。それに、ことはっていう名前も可愛くて、君にぴったりだと思うよ。」
可愛いって実際どういう気持ちで思うものなんだろう。けれど、何となく……温かい。
「……そう。」
私の返事を聞いた瑠瞳は嬉しそうだった。
瑠瞳はさっき起こったことについて説明した。
「君を襲った化け物のことを僕らは“心禍“って呼んでる。あれは人の負の感情が肉体を持ち、生きた人間を無差別に殺す危険な生物なんだ。人間が根絶されるまで襲い続ける習性があり、何よりあいつらの難しいところは、ほとんどの人が心禍を認識することができないんだ。特に、大人で心禍を認識できる人は希少だ。理由はまだ分からないけど僕の仲間が必ず解明してくれる。」
「仲間って……?」
「あっ!大事なことを伝え忘れてたね。仲間っていうのは、僕が最初自己紹介した時に言った“闇のよりどころ“のメンバーのことだよ。闇のよりどころとは、朝は普通の学校、放課後は心禍を排除する、学生と任務を両立して行う組織なんだ。メンバーのみんなは心禍を認識することができる。それと、さっき言い忘れたことがもう一つあったんだけど、認識できる者には特別な能力があるんだ。その能力は人それぞれだけど、その力を使えば、心禍に対抗することができる。つまり……君にもその力が宿っているんだよ!」
「そう。」
「うーん…反応が薄い…。
まぁとにかく!僕と一緒に心禍から人々を守るために協力してほしい……けど、僕個人の意見を言うと、組織に入って任務を受けるとなると常に死と隣り合わせな生活を過ごさなければならなくなる。だから、無理強いはできない。えーと……今日はもう帰ろうか!もう遅いしね!家まで送って……」
「帰るところなんてない。」
瑠瞳が差し伸べてくれていた手を私は反射的に振り払った。
「私は生きていても周りに迷惑をかける。それに私は何の感情も湧かないの。泣いたことも笑ったこともない。だから死ぬことも別にどうでもいい。でも、私がいなくなった方が社会のために良いと思った。だから、ずっとここを歩いてた……ただそれだけ。」
そう言った後、瑠瞳は黙ってしまった。顔を見上げると瑠瞳がすごく悔しそうな表情をしていた。そして、しばらくした後、やっと瑠瞳が口を開いた。
「………君が襲われそうになっている時の表情を一瞬見た時、君はあの化け物を目の前にしても絶望もせず、救いとも感じず、ただ見つめていた。君のその行動の意味を僕はやっと理解したよ。そして、君がなぜ感情が湧かないのかも分かった。」
瑠瞳は私の手を握って言った。
「すごく身勝手で僕の我儘だけど、君が感情を得られる手伝いを僕にもさせてくれないかな?信頼しきれないことは百も承知だけど、それでも、僕は今の君を1人にさせたくない。だから……その………
僕と一緒に来てくれないかなって!!」
彼の目には、罪悪感と責任感が入り混じっているように見えた。組織に入れば、危険な目に遭う可能性がある。瑠瞳はその危険性を知っているんだろう。それでも私に加入を勧めたことに、後ろめたさを感じているのかもしれない。彼のことなど何一つ知らない。それでも、彼を信じていいのだと、ずっと前から知っていたかのように感じた。
「……うん。一緒に行く。」
彼は私の返事を聞くと、少し安堵したような顔をした。そして、二人は再び歩き出す。夜の闇が、その姿を静かに呑み込んでいった。




