踊り子と愚かな王
アルブレヒトは王家の次男に生まれた。
野心の強い兄と、王位を狙う腹違いの弟に挟まれた彼は、幼い頃から自分が王になる未来など考えたことがなかった。
アルブレヒトは幼い頃から病の気があり、臆病だった。勉学は好きだったが小柄で剣術は得意ではなく、勇ましい気質も持ち合わせていなかった。
兄は人前でもアルブレヒトを臆病者と罵った。彼も、それを否定しなかった。
そんな彼が、初めて恋を知ったのは十八歳の時。
それは兄の誕生日の晩餐会。
海の向こうからやってきたという踊り子に、一目で恋に落ちた。
薄絹の布を幾重にも纏い、軽やかに舞う姿。
布を翻して回ると、額に着けた金の飾りがシャラシャラと音を立てる。
派手な化粧に負けない、蠱惑的な瞳と紅い唇。
彼女は、楽しそうに音の中を泳いでいる魚のようだった。
アルブレヒトはぼんやりと中庭で月を見上げていた。
宴の喧騒は遠く、ただ夜風が木々を撫でていく。
先ほどの衝撃が脳裏に焼き付いて離れない。
そこへ、廊下から裸足のままの踊り子が走ってきた。
暗がりの中でも衣装は乱れ、右の頬が赤黒くなっているのが見えた。
アルブレヒトは驚いてマントを脱ぐと、彼女に駆け寄って羽織らせた。
「何があったんだ」
「閨をお断りしたら殴られてしまいました」
彼女は頬を腫らしたまま無邪気に笑っている。
「どうして、笑っていられる?」
「慣れていますので」
絶句するアルブレヒトを見て、彼女は感心したように呟いた。
「弟君はお優しいんですね」
ゆっくりと紅い唇を吊り上げる。その表情と言葉で、誰に殴られたのか分かったアルブレヒトは青ざめる。
「私、今夜にでも城を出なければ」
「必要ない。私が賓客として東宮に迎えよう」
「そんなことをして大丈夫ですか?」
彼の瞳には悲しみと怒りが内在していた。
「君を、このまま外に放り出すことは出来ない」
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踊り子はセレーネと名乗った。
東宮で怪我を治したセレーネは、数日後アルブレヒトに礼をするために部屋を訪れていた。
豪華な部屋では無いが、落ち着いた調度品と彼が集めた絵画が掛けられている。
彼女のリュートに耳を傾けながら、アルブレヒトは葡萄酒を傾ける。
彼女を守れた満足感からか、いつになく気を許して本心を打ち明けていた。
「兄は失うのが怖いんだと思う。持っている人間が、一瞬で奪われる恐怖と言うのは想像だにしないのだろう」
「弟君は?」
「彼は賢いし、自分の持つ力をよく分かっている。母君と自分を守るために、人を動かそうとしている」
「では…貴方は?」
セレーネの瞳がアルブレヒトを見る。
「僕は見ての通りだ。全然ダメだよ」
「だけど私を救って下さった」
「…あのときは、そうするべきだと思った」
静かにリュートの音が鳴る。
「人は案外、自分の中にあるものを知っているようで知りません。知っていても言葉になっていない」
「言葉になっていない…」
セレーネは弦を弾き、微笑む。
ランプの中でちらちらと灯が揺れている。
「言葉になっていても誰にも返されていないこともあります」
「何が言いたい?」
「貴方は勇敢です。貴方にしか成し遂げられない事があるはずです」
彼は笑った。その後、顔を歪めて悔しそうに俯く。
「私が?そんな馬鹿な…」
「貴方が信じないのなら、私が信じます」
その言葉にゆっくりと顔を上げると、目が合った。
セレーネのその言葉は、瞳は、心から彼に寄せられていた。
何かが胸の中に落ちていくのをアルブレヒトは感じていた。
「セレーネ、息災か?」
季節は変わり、彼女が滞在して三ヶ月が過ぎた。
セレーネが来てから、何故かアルブレヒトの体調は良くなっていった。この短期間で止まっていたと思っていた背も伸び、剣術も少しずつ上達していた。
アルブレヒトは日を置かずセレーネを訪ね、彼女も歓迎した。
お互いの気持ちを口にすること無く、ただ二人は日々を過ごしていた。
「君に、これを」
長方形の、黒い布張りに金の刺繍が入った箱。入っていたのは、色ガラスと金で出来た薄紅色の芍薬の髪飾りだった。
繊細な花びらが重なり合って色が濃く見えるようになっている。
「まぁ…」
セレーネはそっと櫛の部分を持ち上げる。
アルブレヒトは彼女の反応を見て、申し訳なさそうに笑った。
「好みでなかったら、花瓶にでも挿して飾ってくれ」
「花瓶に?」
目を丸くした後、綺麗な眉を寄せて可笑しそうに笑う。
「そんなことしません」
「あぁ、そうだよね…」
恥ずかしそうに笑う彼を、セレーネは目を細めて見ていた。
「もう少し自信を持たれたらいいのに」
昼下がりの日差しがテラスに降り注いでいる。
彼女が首を傾げると、艷やかな髪の上を光が滑っていく。
一緒に庭を眺めながら、アルブレヒトは独り言のように呟いた。
「君といると、自分を見つけてもらったような感覚になる」
「最初からありましたよ。ここに」
胸をトン、と指さすとアルブレヒトは顔を赤くした。
それを見て彼女は楽しそうに笑う。
「貴方だけは私を欲しがらなかった。今も。私が自由であることを喜んでくれる」
深く息を吐いて、心地良さそうに目を閉じた。
「私も、見つけてもらえたのかもしれません。ようやく」
日差しに目を細めながらアルブレヒトは優しく微笑む。
「そうなら、良かった。僕は君に贅沢させてあげられるわけでもないし、大きな舞台を用意することも出来ないから…君は退屈していないかと思っていた」
「初めて海を見た驚きのようなものは、何度も繰り返せません。でも、海を知った後にしか見えない景色もあります」
アルブレヒトには言葉の意味の全ては分からなかった。
彼女は嬉しそうに微笑む。
「次の舞台で必ず着けますわ。あなたのために舞うのでぜひ御覧になって下さい」
アルブレヒトが去った後。
セレーネは鏡台に座って、髪飾りを着ける。
彼女の白い肌に薄紅色の花がよく映えた。
「花瓶に挿すなんて、勿体ない」
クスクスと笑う。
鏡の中のセレーネが揺らぐ。
少しして、その瞳が鋭くなる。
「せっかくご病気が良くなったのに」
弟王子がアルブレヒトの暗殺を企てていると聞いた。長兄に反乱を起こす前に、宮での実権を握りたいのだろう。
王は疑心暗鬼になって長兄を排除したがっている。
セレーネは王位争いに興味など無い。
けれど。
あの人は殺させない。
「…あなた達、また手伝ってくれる?」
セレーネは深紅の指輪に優しく声をかける。
指輪の中で、火花が散った。
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アルブレヒトは呆然と立ち尽くしていた。
祝宴。
玉座で葡萄酒の杯を持ったまま口から血を流している王。
弟の凶刃に倒れた兄。
そして動かない弟の上に跨る、最愛の女性。
「そんな…セレーネ…」
彼女は彼の前まで、ゆったりと歩いて来た。赤い衣装が濡れて黒く染まっている。
血に塗れた剣を手渡しながら、セレーネは唇の端を上げて微笑んだ。
「御即位、おめでとうございます。アルブレヒト」
「…無理だ…そんなこと、許されるはずがない…!」
セレーネは首を振る。
「貴方なら出来ます。誰よりも賢く、慎重で、純粋な貴方だから」
呆然としている彼を見て、困ったように笑う。
「優しい貴方が出来ないと言うのであれば、私が貴方の剣になります」
「…どうして…」
アルブレヒトは、剣を握りながら涙を流していた。
「だって、選んでしまったんですもの」
彼女の後ろに火花が散っているのが見えた。
どうして泣いているのか分からない。
彼女を変えてしまったことが怖かったのか、自分が変わる予感がして怖かったのか。
そして彼は、何かを守ろうとして剣を握った。
セレーネは、彼が現妃の処刑を命じたとき、何も言わなかった。
必要だとも、もう恐れる必要は無いとも言わなかった。
そこからの彼は勇敢で、賢く、他の者が出来なかったことを次々と成し遂げていった。
けれど。
一緒に庭を眺めていた時間は、もう無くなってしまった。
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それから二十年の歳月が経った。
彼は戦争を理由に、少しずつ彼女のもとを訪れなくなった。
セレーネを見るたびに、自分だけが歳月に取り残されていくような気がした。
遠征と侵攻を繰り返し、もう何年もまともに顔を合わせない日が続いていた。
彼の国は、今や歴史に残るほど巨大な帝国になっていた。
「アルブレヒト陛下のご帰還です!」
黄金の扉を開け、将軍や軍師を従えた王が謁見室に入ってくる。
広い廊下の左右では女官達が頭を垂れている。
その中から彼女は恭しく礼をした。
豪奢な衣装にいつまでも劣らない美貌。
「お久しぶりです、陛下」
「ふん」
嫌味で出迎えた彼女を王は鼻で笑う。
「土産だ」
玉座に向かう途中、無造作に黄金の首飾りを胸に押しつける。色とりどりの宝石が嵌められ、両腕で受け止めても重みがある。
「皇国の国宝だそうだ。次の晩餐会で必ず着けてくるように」
「はい」
彼女が髪に挿している芍薬の髪飾りが目に入り、舌打ちする。
「まだそんなものを」
「そんなもの…?」
静かに聞き返され、咳払いをする。
「そのような粗末な物はもう必要ないだろう。私は貴女に全てを与えられる。ただ貴女は私の傍で、最も高貴で美しい女として君臨しておれば良い」
「それが、貴方の望みですか?」
王が彼女を見下ろすと、優雅に礼をした。
「では、そのように」
彼女の肩を掴んで強引に顔を寄せる。
狂気の宿る瞳。
その中に。
僅かな怯えが見える。
「お前は永遠に美しい。私もまた、永遠に誰も侵すことの出来ない国の王になるのだ」
「…それが、貴方の欲しいものなのですね」
彼女が呟いた言葉を受け取る者はいなかった。
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また幾つかの歳月が経った。
古い王宮の広間。
老人が一人の踊り子を見つめている。
彼女は出会った頃の姿のままだった。
軽やかな衣が翻る。
鈴の音がする。
時間が彼の側だけを進んでいく。
髪は真っ白になり、身体は思うように動かない。
顔にも手にも、深い皺が刻まれている。
それでも彼女は変わらなかった。
王になったアルブレヒトが戦乱を巻き起こし、異を唱える者を処罰し、やがて民から「愚王」と呼ばれるようになっても。
彼女は美しいまま、寄り添っていた。
アルブレヒトが玉座から彼女を見る。
「……お前は、変わらぬな」
彼女は足を止めずに笑う。
魚が泳ぐように脚が地面を滑っている。
「陛下がお変わりになっただけです」
「そうか」
彼は自嘲するように笑った。
「ならば、私の方が夢を見ているのだろう」
「醒めない夢は、夢と呼べるのでしょうか」
「お前が始めたんだろう!!」
忌々しげに睨みつける。
セレーネは踊るのをやめて、悲しそうな顔で玉座を見上げていた。
「お前が言うから、ここに座った」
「でないと貴方は死んでいました」
「父も兄も弟もいなくなって…私は止まれなくなっていた」
彼女は何かを言いかけるが、彼には届かない。
「止まらなかったのは貴方です。私は…」
「欲していなかったとでも言うつもりか!私だけが永遠を欲していたと」
玉座の周りには、いつしか誰もいなくなっていた。
じきにここも誰かの手に渡るだろう。怒れる民衆か、隣の国の王か。最早誰が来ようがどうでも良かった。
城。
黄金の椅子。
そして彼女だけが、出会った日のまま目の前にいる。
「なぜ、お前は変わらない」
ずっと聞くことが出来なかった。
声が微かに震える。
彼女は静かに彼を見つめている。
「分かりません。気付いたら、そうだったので」
「いつからだ?」
「……覚えていません」
少し沈黙した後、彼女は呟く。
「あなたは私になりたかった?」
彼はしばらく彼女を見つめる。
自分が彼女を愛していたのか。
永遠が恐ろしかったのか。
それとも、自分だけが老いていくことに耐えられなかったのか。
「…どうして」
「はい」
「お前はどうしてここにいる」
セレーネは出会った頃と変わらぬ笑みを浮かべた。
「貴方を選んでしまったから」
永遠でなくても良かった。
ただ、少しでも長く一緒にいられれば良かった。
だけど、お互いそれを上手く伝えることが出来ずにここまで来てしまった。
変わらず愛してくれるか怖くて話せなかった。
変わらずに愛せるか怖くて聞けなかった。
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白い処刑台。
群衆から降り注ぐ嗚咽と罵倒。
白い粗末な服を着せられたアルブレヒトとセレーネが並んで立っている。
「お前だけなら、逃げられたのではないか」
彼女が何者なのか、アルブレヒトは最後まで知らなかった。
話していれば何かが変わっていたかもしれない。
けれどもう昔の話だ。
セレーネは微笑んだ。
「そうかもしれません」
「ならば、なぜ」
彼女は少し考えてから、静かに答える。
「貴方と離れたくないから」
その言葉を聞いたアルブレヒトの脳裏にいくつもの風景が浮かぶ。
髪を下ろして笑う彼女と、テラスに振り注ぐ暖かな光。
血に濡れた剣を手にした彼女。
首飾りを手に、悲しそうに笑って頭を下げる姿。
「…辛い思いを、させた」
セレーネは首を振る。
「もういいです。最期にあなたといられたので」
傾国の踊り子に籠絡された愚かな王。
歴史にはそう刻まれている。
一部の風説では踊り子は魔女だったと言われているが、真実を知る者はいない。




