第8話
春田は、現場に向かう途中から妙にテンションが高かった。今日は「夜間の現場」だと聞いたのだ。つまり――ドラマでよく見る“夜の現場で語り合う名シーン”ができるはずである。
「よし……今日は絶対に“夜の現場で語り合う鑑識”を決めるぞ」
春田は、ドラマで見た“懐中電灯を顎の下に当てて渋い顔をするポーズ”を練習していた。そこへ、黒江の低い声が落ちる。
「新人。今日も儀式か」
「い、いや、これは……その……」
「語り合う気満々の顔だな」
図星だった。
現場に着くと、住宅街の一角は静まり返っていた。街灯の光が弱く、風の音だけが響く。春田は胸が高鳴った。
「先輩……こういう夜の現場って、語り合いたくなりますよね」
「ならない」
黒江は即答した。
「えっ……いや、でもドラマでは……」
「ドラマはよく語る。現実は語らない。語る前に撤収する」
春田は固まった。
「じゃあ……現場で“仕事とは何か”とか語るのは……」
「語らない。語ってる暇があったら採れ」
「採れ……」
「そうだ。現場は“作業する場所”であって、“語る場所”じゃない」
春田はめげない。
「でも……夜の現場って、なんか語りたくなる雰囲気が……」
「雰囲気で仕事をするな」
黒江は淡々と続ける。
「いいか新人。現場はな、長居すればするほど証拠が壊れる。湿度、温度、風、虫、通行人……全部が敵だ。語り合ってる暇はない」
春田は驚いた。
「じゃあ……現場で“心の内を語る”とか……」
「語らない。語るなら帰ってからにしろ」
「じゃあ……現場で“先輩の過去”を語るのは……」
「語らない。語ったら怒られる」
春田は完全に困惑した。
「先輩……じゃあ鑑識って……現場で何も語らないんですか?」
「語らない」
黒江は即答した。
「語るのは刑事だ。鑑識は“語らないことで仕事を守る”」
春田は意味がわからなかった。
「語らないことで……守る……?」
「そうだ。語り始めると、集中が切れる。集中が切れると、見落とす。見落とすと、事件が動かない」
黒江は床に落ちた小さな繊維片をピンセットでつまみ上げた。
「ほら。こういうやつだ。語り合ってる間に風で飛ぶ」
春田は息を呑んだ。
「でも……語り合うって、なんか……かっこいいじゃないですか」
「かっこよさで仕事を選ぶな」
黒江は続ける。
「語り合うのは派手だ。だが、派手な語りは残らない。地味な作業は残る。残るから、真実に近づける」
春田は黙り込んだ。
「でも……語らないと、なんか寂しくないですか」
「寂しいよ」
黒江は即答した。
「だがな、仕事ってのは“寂しさ”より“確かさ”だ。確かさを選ぶから、鑑識は地味なんだ」
春田は胸が熱くなった。
「先輩」
「なんだ」
「現場って……地味ですね」
「地味だよ」
「でも……地味って、強いですね」
黒江はわずかに口角を上げた。
「気づいたか。語り合う言葉は風で消える。だが、地味に拾った痕跡は残る。残るから、事件を動かせる」
春田は夜の現場を見渡した。
さっきまで“語り合う場所”に見えていた場所が、
今は“黙って働く場所”に見えた。
「……先輩。俺、語らない強さを持てる鑑識になりたいです」
「言ったな。じゃあ今日から、“黙って働く勇気”を覚えろ」
春田は思わず笑った。
語らないことが強さになるなんて、思ってもみなかった。
そして今日もまた、地味のプロへの一歩が静かに積み重なっていく。




