第6話
春田は、朝から妙に落ち着かなかった。今日は「犯人がまだ近くにいる可能性がある現場」だと聞いたのだ。つまり――ドラマでよく見る“鑑識が拳銃を構えて現場に入るシーン”ができるはずである。
「よし……今日は絶対に“銃を構えて慎重に進む鑑識”を決めるぞ」
春田は、ドラマで見た“銃を両手で構えて横歩きするポーズ”を練習していた。もちろん本物の銃は持っていないが、気持ちだけは完全に刑事ドラマの主人公だ。
そこへ、背後から冷たい声が落ちる。
「新人。今日も儀式か」
振り返ると、黒江が腕を組んで立っていた。
「い、いや、これは……その……」
「銃を構える気満々の顔だな」
図星だった。
現場に向かう途中、春田は意を決して聞いた。
「先輩……鑑識って、拳銃持たないんですか?」
「持たない」
黒江は即答した。
「えっ……でもドラマでは……」
「ドラマは鑑識がよく撃つ。現実は撃たない。そもそも持ってない」
春田は固まった。
「じゃあ……犯人が近くにいたらどうするんですか?」
「逃げる」
「逃げるんですか」
「逃げる。全力でな」
春田は完全に困惑した。
「でも……鑑識って、現場で危険な状況に立ち向かうイメージが……」
「それは刑事の仕事だ。鑑識は“危険に立ち向かわない”のが仕事だ」
「立ち向かわない……」
「そうだ。鑑識は“生きて帰る”のが最優先だ。死んだら証拠も仕事も残らない」
春田は黙り込んだ。
現場に到着すると、警察官たちが周囲を警戒していた。
春田は思わず身構える。
「先輩……こういう時こそ、銃が必要なんじゃ……」
「必要ない。俺らは“危険が去ってから”入る」
「でも……犯人がまだいたら……」
「だから入らない。危険があるなら、鑑識は待つ」
春田は驚いた。
「じゃあ……鑑識って、戦わないんですか?」
「戦わない。戦うのは刑事だ。鑑識は“戦わないことで仕事を守る”」
黒江は淡々と続ける。
「いいか新人。仕事ってのはな、“やらないこと”を決めるのも仕事だ。鑑識は“戦わない”と決めている。だから生き残る」
春田は息を呑んだ。
「でも……戦わないって、なんか……かっこ悪い気が……」
「かっこよさで仕事を選ぶな」
黒江は現場の入口で立ち止まり、春田を見た。
「鑑識はな、戦わない代わりに“残ったもの”と戦う。血痕、繊維、指紋、足跡……そういう地味な相手と戦うんだ」
春田は胸が熱くなった。
「じゃあ……鑑識の戦場って……」
「現場じゃない。“痕跡”だ」
黒江は続ける。
「銃を構えて犯人を追うのは派手だ。だが、派手な戦いはすぐ終わる。地味な戦いは終わらない。終わらないから、真実に近づける」
春田は深く息を吸った。
「先輩」
「なんだ」
「鑑識って……地味ですね」
「地味だよ」
「でも……地味って、強いですね」
黒江はわずかに口角を上げた。
「気づいたか。地味は強い。派手はすぐ壊れる。地味は残る。残るから、真実に近づける」
春田は、拳銃を構える自分の妄想が少し恥ずかしくなった。
「……先輩。俺、戦わない強さを持てる鑑識になりたいです」
「言ったな。じゃあ今日から、“逃げる勇気”を覚えろ」
春田は思わず笑った。
逃げることが強さになるなんて、思ってもみなかった。
そして今日もまた、地味のプロへの一歩が静かに積み重なっていく。




