第5話
春田は、現場に向かう途中からずっと手袋をいじっていた。今日は「遺留品が多い現場」だと聞いたのだ。つまり――ドラマでよく見る“遺留品を手に取って『これは……!』と言う名シーン”ができるはずである。
「よし……今日は絶対に“これは……!”を決めるぞ」
春田は手袋をつけたり外したりしながら、ドラマで見た“遺留品を持ち上げて目を細めるポーズ”を練習していた。そこへ、黒江の低い声が落ちる。
「新人。今日は何の儀式だ」
「い、いや、これは……その……」
「遺留品を触る気満々の顔だな」
図星だった。
現場に入ると、机の上に財布、床に落ちたペン、破れた封筒、スマホ、鍵束……と、いかにも“触りたくなる物”が散乱していた。
春田は目を輝かせる。
「先輩!これ、絶対に何かの手がかりですよね!まずはこの財布を――」
「触るな」
黒江は即答した。
「えっ……いや、でも手袋してますし……」
「手袋してても触るな。順番がある」
「順番……?」
「そうだ。触る順番、採る順番、袋に入れる順番。全部決まってる。順番を間違えたら証拠価値が落ちる」
春田は固まった。
「じゃあ……このスマホを――」
「触るな」
「じゃあ、この鍵束を――」
「触るな」
「じゃあ、この封筒を――」
「触るなと言ってるだろう」
春田は完全に困惑した。
「先輩……触らないと何も始まらないじゃないですか」
「触らないから始まるんだよ」
黒江は淡々と続ける。
「遺留品はな、“触る前”が一番価値がある。触った瞬間、価値は落ちる。だから、触る前に全部見て、全部考えて、全部順番を決める」
春田は目を丸くした。
「じゃあ……ドラマみたいに“これは……!”って持ち上げるのは……」
「最悪だ。あれは証拠価値を自分で壊してる」
「壊してる……」
「そうだ。仕事ってのはな、“触りたい気持ち”より“触らない勇気”が必要なんだ」
春田は黙り込んだ。
黒江は散乱した物を前に、しゃがみ込んで静かに観察を始めた。
「新人。お前は“触ること”が仕事だと思ってるだろ」
「……はい」
「違う。“触る前に考えること”が仕事だ」
春田は息を呑んだ。
「触る前に……考える……」
「そうだ。触ったら戻れない。だから、触る前に全部決める。触る前に勝負がついてる。鑑識の仕事は“触る前”が9割だ」
春田は散乱した物を見つめた。
さっきまで“触りたい物”にしか見えなかったものが、
今は“触ってはいけない物”に見えた。
「先輩……じゃあ、触るのって……」
「最後だ。最後の最後だ。触るのは“確かめるため”じゃない。“確定するため”だ」
春田は深く息を吸った。
「でも……触らないって、難しいですね」
「難しいよ。だから仕事なんだ」
黒江はピンセットで小さな紙片をつまみ上げた。
「ほら。こういうやつだ。触りたい気持ちを抑えて、順番を守って、地味に積み重ねる。そういう仕事が、事件を動かす」
春田は胸が熱くなった。
「先輩」
「なんだ」
「遺留品って……地味ですね」
「地味だよ」
「でも……地味って、強いですね」
黒江はわずかに口角を上げた。
「気づいたか。地味は強い。派手はすぐ壊れる。地味は残る。残るから、真実に近づける」
春田は散乱した物をもう一度見つめた。
触りたい気持ちが、少しだけ静まった。
「……先輩。俺、触る前に考えられる鑑識になりたいです」
「言ったな。じゃあ今日から、“触らない勇気”を覚えろ」
春田は思わず笑った。
触らないことが仕事になるなんて、思ってもみなかった。
そして今日もまた、地味のプロへの一歩が静かに積み重なっていく。




