第3話
春田は、朝から妙にそわそわしていた。今日は「DNA鑑定が必要な案件」だと聞いたのだ。ドラマでは、鑑識が現場でサッと綿棒をこすり、10分後には「DNA一致しました!」と決め台詞を放つ。あれを自分もやれると思うと、胸が高鳴らないはずがない。
現場に向かう途中、春田はポケットから綿棒を取り出し、ドラマで見た“サッとこすってキメ顔で見せるポーズ”を練習していた。
「新人。今日も儀式か」
背後から黒江の声が落ちる。春田は慌てて綿棒を隠した。
「い、いや、これは……その……」
「言い訳はいい。現場入るぞ」
黒江は淡々と歩き出す。春田は綿棒を握りしめたままついていく。
現場には、コップの飲み残しが残されていた。春田は目を輝かせる。
「先輩!これ、DNA鑑定できますよね!今ここで採取して、10分後には――」
「出ない」
黒江は即答した。
「えっ……いや、でもドラマでは……」
「ドラマはDNAが早口だ。現実はのんびり屋だ」
春田は固まった。
「じゃあ……現場で“DNA一致しました!”って言うのは……」
「言わない。できない。そもそも現場にそんな機械はない」
「じゃあ、どうやって……」
「採って、封入して、送って、待つ。以上」
「……地味ですね」
「地味だよ」
春田は気を取り直す。
「でも、DNAって最強の証拠じゃないんですか?」
「最強じゃない。万能でもない。DNAはな、出るのに時間がかかるし、出ても“絶対”じゃない」
「絶対じゃない……?」
「同じ家族なら似る。混ざれば判別が難しい。古ければ壊れる。万能に見えるのは、ドラマの中だけだ」
春田は驚いた。
「じゃあ……DNAって……」
「ただの“材料”だ。真実を決めるのは、材料の積み重ねだ」
黒江はコップを慎重に袋へ入れながら続ける。
「DNAが10分で出るなら、俺らはもっと楽だ。だがな、仕事ってのは“待つ時間”も含めて仕事なんだ」
春田は首をかしげる。
「待つ時間……?」
「そうだ。結果が出るまでの間に、他の証拠を拾う。現場を洗う。仮説を立てず、事実だけ積む。派手な答えを急ぐと、仕事は壊れる」
春田は黙り込んだ。
ドラマでは、鑑識が一つの証拠で事件を一気に解決していた。
だが現実は、そんな魔法は存在しない。
「先輩。じゃあ……DNAって、そんなにすごくないんですか?」
「すごいよ」
黒江は即答した。
「だがな、“すごいもの”ほど扱いが難しい。すごいからこそ、慎重に扱う。すごいからこそ、過信しない。仕事ってのはそういうもんだ」
春田は息を呑んだ。
「じゃあ……DNAが出るまでの時間って……」
「無駄じゃない。むしろ大事だ。派手な答えが出ない時間に、地味な仕事が積み上がる。地味が積み上がれば、派手な嘘に負けない」
黒江はゆっくり立ち上がり、春田を見た。
「新人。お前は“早く答えが欲しい”と思ってるだろ」
「……はい」
「それは悪いことじゃない。だがな、仕事は“早さ”より“確かさ”だ。確かさは、地味な時間の積み重ねでしか生まれない」
春田はコップの袋を見つめた。
ただの飲み残しにしか見えなかったものが、少しだけ違って見えた。
「先輩」
「なんだ」
「DNAって……地味ですね」
「地味だよ」
「でも……地味って、強いですね」
黒江はわずかに口角を上げた。
「気づいたか。地味は強い。派手はすぐ壊れる。地味は残る。残るから、真実に近づける」
春田は深く息を吸った。
「……先輩。俺、地味を積み重ねられる鑑識になりたいです」
「言ったな。じゃあ今日から、DNAの“のんびりさ”と仲良くなれ」
春田は思わず笑った。
DNAは10分で出ない。
だが、出ないからこそ、仕事になる。
そして今日もまた、地味のプロへの一歩が静かに積み重なっていく。




