第10話
春田は、朝から妙に気合が入っていた。今日は「関係者が全員同じ部屋に集められている事件」だと聞いたのだ。つまり――ドラマでよく見る“鑑識が部屋を見渡して『犯人はこの中にいる』と言う名シーン”ができるはずである。
「よし……今日は絶対に“この中にいる”を決めるぞ」
春田は、ドラマで見た“部屋の中央でゆっくり回りながら鋭い目をするポーズ”を練習していた。そこへ、黒江の低い声が落ちる。
「新人。今日も儀式か」
「い、いや、これは……その……」
「犯人はこの中にいると言う気満々の顔だな」
図星だった。
現場に着くと、関係者が数名、緊張した面持ちで座っていた。刑事たちが聞き取りをしている。春田は胸が高鳴った。
「先輩……こういう時こそ、鑑識が『犯人はこの中にいる』って言うんですよね」
「言わない」
黒江は即答した。
「えっ……いや、でもドラマでは……」
「ドラマはよく言う。現実は言わない。言ったら怒られる」
春田は固まった。
「じゃあ……この中に犯人がいる可能性が高い時は……」
「言わない。可能性は可能性だ」
「じゃあ……この部屋の状況から“犯人はこの中にいる”と推測できる時は……」
「推測は刑事の仕事だ」
春田はめげない。
「でも……鑑識が言うと、なんか事件が一気に動く感じが……」
「動くよ。間違った方向に」
黒江は淡々と続ける。
「いいか新人。“犯人はこの中にいる”は強すぎる言葉だ。強い言葉は、強い責任を生む。鑑識が言っていい言葉じゃない」
春田は息を呑んだ。
「じゃあ……鑑識って、犯人が誰かについては……」
「言わない。言うのは刑事だ。鑑識は“誰がやったか”じゃなく“何があったか”を出す」
黒江は床に落ちた小さな繊維片をピンセットでつまみ上げた。
「ほら。こういうやつだ。犯人が誰かより、まずは“何が残っているか”だ」
春田は黙り込んだ。
「でも……“犯人はこの中にいる”って、かっこいいじゃないですか」
「かっこよさで仕事を選ぶな」
黒江は続ける。
「“この中にいる”と言った瞬間、捜査はその枠の中でしか動けなくなる。枠を作るのは刑事だ。鑑識は枠を作らない。枠を壊さないために、地味に拾う」
春田は胸が熱くなった。
「じゃあ……鑑識って、事件の方向を決めないんですか?」
「決めない。決めるのは刑事だ。鑑識は“方向を狭めないために”地味に拾う」
春田は深く息を吸った。
「先輩」
「なんだ」
「“犯人はこの中にいる”って……地味じゃないですね」
「地味じゃないよ」
「でも……地味の方が、強いですね」
黒江はわずかに口角を上げた。
「気づいたか。“この中にいる”は派手だ。だが、派手な言葉はすぐ壊れる。地味な事実は残る。残るから、真実に近づける」
春田は部屋を見渡した。
さっきまで“犯人がこの中にいるドラマのシーン”にしか見えなかった光景が、
今は“ただの事実の集合体”に見えた。
その時、刑事が声をかけてきた。
「黒江さん、何かわかりました?」
黒江は淡々と答えた。
「わかったのは“ここにあったもの”だけです。“誰がやったか”は、そっちの仕事だ」
刑事は頷き、聞き取りに戻った。
春田はその背中を見つめながら、静かに言った。
「先輩。俺……“犯人はこの中にいる”と言わない鑑識になりたいです」
黒江は春田を見て、ほんの少しだけ笑った。
「言ったな。じゃあ今日から、“言わない強さ”を覚えろ」
春田は深く頷いた。
派手な言葉は事件を動かさない。
地味な事実が事件を動かす。
そして今日もまた、地味のプロへの一歩が静かに積み重なっていく。




