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39 涙の行方

「会いたかった」


 ―― 一ヶ月前。

 晴れやかに放たれた言葉に面食らった。見合いの席だ。 


「ああ、忘れている――というか覚えていないですよね。小学生の時、銀座のクラブで(、、、、、、、)あなたに一目惚れしたんです」


 聞き返しそうになる文脈だが、父と病院長の繋がりでクラブで祝賀会をしたことがあった。言う通り記憶にないが、その時に子息も出席していたのだろう。


 沚水(しすい) 一成(いっせい)

 

 シスイと言えば多くの人が聞き馴染みのある、全国区の病院グループだ。製薬や医療機器メーカー、関連事業とのコネクションも厚い。政界の父との関係を考えれば縁談は妥当だ。

 しかし医師であり、その後継を期待される人物が易々と“婿入り”に応じるだろうか。

 ――しかも。

 きっちりと整えられた黒髪に、銀縁の眼鏡。端正で真面目そうな顔付き。医者家系の御曹司を絵に描いたようで、条件を選ばなくても引く手数多だろう。

 

「僕は次男なんです。名字が変わるくらいこだわりませんよ――何より、」

 

 その眼鏡の奥から、真っ直ぐな瞳で見つめられる。


「あなたと結婚できるなら、本望だ。お恥ずかしいことですが、ずっと忘れられませんでした。年齢差もあるので選ばれる訳がないと諦めていたのですが」

 

 釣り書きを思い出す。若く見えるが、十歳年上だ。微笑みを作って軽く頭を振った。


「年齢なんて気になさらないでください。でも、私の未熟が目に付いてしまうでしょう」

「いいえ、あなたは僕の理想の女性です。この縁談は、運命じゃないでしょうか」


 その眼差しを直視できず、曖昧に口元を形作った。


  *


「断って」


 下ろした髪をほぐしながら、着物を畳む女性に告げる。


「お父上のご友人筋の方ですよ、」

「だからこそよ。割り切った関係以外はいらない」


 世話係は気遣わしげに目を左右させた。


「お嬢様……差し出がましいですが、今は一度期間を置かれてはどうでしょう。急ぐことでは」

「……何か聞いているの?」


「いえ、」と目を伏せるが、女同士の噂話は回るのが早い。父だけが把握していた訳ではないだろう。少し捻じ曲げて、先方から「二回も」断られたと言えば面白く、普段から鼻に付くお嬢様への胸もすく。


「海外へ行かれてから、本当に一層お綺麗になられて……お嬢様が笑うのに驚き、恥じました。私共がきっと封じていたのでしょう。家を出た奔放の噂はありましたが、それを霧崎家の――」


「片付いたならもう出ていって。それと、下らない噂話は止めなさい」


 何も感じない。声は乾いていた。


 もう二度と顔を見てしまわないよう、部屋に篭り切りになった。真次さんさえ避けて、出勤の気も重い。私の代わりはいる。もういっそ――


 茶室に一人入って正座する。抹茶を点て始めた。

 ――違う

 縁談に、家に逃げる訳じゃない。

 分かっていた、先延ばしてきたその時が来ただけだ。


 深緑の水面が掻き混ぜられて泡が立つ。

 

 “美味しい”

  “葉那”

   “愛してる”

 

           ――幸せにする

 

 あんなに

 あんなに嘯いて

 それで“笑う”ようになったというなら可笑しい


「ふふ」


 器を掲げて啜った。

 彼に非はない。偽りの関係を求めて始めた、その答えだ。


 もう涙は流さない


  *


沚水(しすい)さん」

    

 度々贈られてくる花束に埒が明かなくなって自分から直接出向いた。


「気を悪くされないでほしいのですが、私は貴方の想いに応えられません。申し訳ありませんが、縁談はなかったことにして下さい」


 男性は眉尻を下げた。

 

「……僕の嫌いなところを教えてくれませんか」

「いいえ、ただ、私は結婚はお互い割り切ったものにしたいのです」

「それなら僕を試して頂けませんか。あなたから何かを求めることはしません」


 食い下がられて、あまり無碍に出来ず“試し”に一日付き合うことを了承してしまった。


 お台場のデートでは映像に入り込むような光のアートや水上バスに興じ、それからパンケーキ店に入った。出てきたその山盛りのホイップクリームに驚いていると、半分に取り分けてくれた。どこへ行ってもカップルがたくさんいて、多分こなれたデートコースなのだろう。

 レインボーブリッジの夜景を背景に、というラストシーンも。


「若い女性が喜ぶものをと調べたんですが、葉那さんには庶民じみていたでしょうか」

「いえ、今日はとても楽しかったです。お誘い頂きありがとうございました」

「……その答え方だと、良い返事は頂けなさそうだ」


 男性の顔は翳る。 

「沚水さん、」と改めて口を開くが「言わないでください」と遮られた。


「忘れられない人がいるんですね。どこか心あらずでした」


 そんなことない、と喉が詰まって声にならないでいると、見透かしたように静かな声が語りかける。


「割り切った関係と言いましたよね。僕にも分かります。家の事があるから……好きだから結ばれると言う訳には行かない。そんなことは関係ないと、言うのは簡単ですが無責任だと思います。背負っているのは、自分の人生だけではないんですから。今の僕があるのも、家があるからです」


「そう……ですよね」視線を落としぎゅっと手首を抑えた。

「でも、心までそこに嵌めるのは窮屈です」

「え」


 思わず目を上げると、優しげな目が見つめていた。


「好きな気持ちを否定してはいけない。あなたはそのままでいい」

「あ、」グッと、力強く腰を引き寄せられて、胸板に手を付く。


「好きなだけ泣いてください。いつでも……ただあなたを支えたい」


 白いシャツからは、心を撫でるような甘いコロンの香りがした。


 

 ***

 


 携帯電話をつい見てしまう癖は減ったと思う。着信拒否やブロックなんかしなくても掛かって来なかったかもしれないけど、きっとそれで自尊心を守っていた。


「葉那さん、眠れるようになりましたか」

「ええ、お陰様で」

「それは良かった。まだ暫くは続けてください」

 

 睡眠薬を処方してもらってからは、寝付きも良くなり気持ちも前向きになっていた。

 仕事も家も、重く捉え過ぎていた気がする。どちらも誰にはっきりと言われた訳でもないのだし。

 ――そんな風に考えらえるようになったのはきっと。


「本当に、ありがとうございます……一成さん」

  

 甘く色気のある香りに目を瞑り、頭を撫でる手は心地良かった。

 それ以外に触れられることはない。お見合いから始めたらもっと性急に事が進むものかと思っていたけど、ゆっくりと待ってくれる。


 他愛のない話を聞いてもらいながら自宅まで送って貰い、門前で別れた。

 もうずっと実家で過ごしていた。間借りした部屋も解約すべきだ。もう片付けに行ける……けれどううん、急がなくていい。残したい訳じゃなくて、『時間が必要』なことだから。


 一人きりで布団にもぐる時が一番怖い。思い出してしまわないうちに、青い錠剤を飲み込んだ。


  *

       

「僕は……恋人は葉那さんが初めてです。お付き合いできるとしたら、ですが」


 こうも優しく失恋に寄り添ってくれる、きっと同じような痛みを抱えたことがあるのかもしれない。もし自分にも人を癒すことができたら――と思ったが、返ってきたのは意外な答えだった。

 誰にとってもまるで欠点のない、この人が。

 驚きが伝わってしまったのか、その人は気恥ずかしそうにした。 


「少しでも立派になろうとずっと勉強や仕事一筋で……十年も前にあなたに心を奪われてから」


 気持ち悪いでしょうか、と不安そうに窺うので、ゆっくりと首を振った。


「いいえ……とてもよく、分かります」

「僕たちは、似たもの同士の気がします」


 ――そうかもしれない。

 胸が締め付けられる思いがした。この想いに応える事は、自分への慰めかもしれないけれど

 

「僕と、結婚を前提にお付き合いして頂けませんか」

  

 もう、答えは出した筈だ。いつまでも“お嬢様”ではいられない。



 ***



“結婚しよう”

   “葉那”


「こ……来ないでっ」

  

 ガバリと布団から跳ね起きる。濡れる頬に夢を見ていたと気づいて、頭痛に苛まれながら引き出しに手を伸ばす。辛い時は追加で飲んでいいと言っていた。震える手で掌に押し出す。あっという間に、足りなくなる。


「それは……量を増やした方が良さそうですね。予備があるのですぐに渡せます」


 レストランで改めて正式なプロポーズを受け、送ってもらう車内でした会話のそのまま着いたのは、タワーマンションだった。自宅なのだろう、にわかに緊張しいつもより重い左手をぎゅっと覆った。


「あの、今日は遅い時間にご迷惑ですし、ご挨拶はまた改めて」

「気にしないで、もっと僕に気を許してください。もう婚約者なんですから」


 肩を押され乗った高層階行きのエレベーターでは途中から耳に膜が張られたようになり、降りられないところまで昇って行くような落ち着かない心地になった。

 扉の前でせめて身なりを正していると、鍵を開けたその人は可笑しそうに吹き出す。


「僕は一人暮らしですよ」

「え」


 自分の勘違いに気がついて恥ずかしくなった。ここのところすっかり実家暮らしが板についていたが、そうか、大人の男性だ。 

 部屋はモダンなインテリアが置かれ、ダーク調でシックな雰囲気だった。あの甘く官能的な香りも色濃い。


 ソファに掛けて待っていると、ワイングラスを二つ持って現れた。

 そう、か……


 渡されたグラスにそのままチンと軽く当てられる。乾杯、と微笑むのに促されて、紅い水面を傾けた。

 緊張と疲れもあってかその一口二口でもう酔いが回る。ハァ、と息を吐き心なしソファに身を預けた。熱くて全身が気怠い……

 

「ああ、とても綺麗だ」

 

 眼鏡を外し、ガラスのローテーブルにツルを畳んで丁寧に置く。

 間近に迫る顔をぼうっと眺めていた。ああ、違うんだ、もう

 手の甲を優しく撫でてから持ち上げて、それが目に入るように顔の前で止まる。左手の薬指。嵌められたばかりの、青く大きなサファイアが煌めいた。


「婚約指輪はダイヤモンドが定番ですけど、葉那さん、青が好きでしょう。僕ね、分かってしまうんです。視線や会話、背景からその人の好みや弱い部分、欲している言葉が……。精神科医は、僕の天職なんだと思います。父や兄も含め、医科の中では軽視する人も多いんですが……分かっていない、分からないんだ、何も。葉那さんには分かりますよね。ああ、とても美しい。あの時からずっと変わりない。この何にも染められないキレイなままの黒髪と瞳……汚れたところが一つもない。いつも微笑んで素直で僕を理解してくれて……完璧で、僕の理想の女性だ」


 とても饒舌に話しているのに、頭がくらくらして理解が追いつかない。

 声が遠く、霞みがかっていく 恍惚とした瞳に自分の顔が写って近づく



「僕に、あなたの初めてをください」



 ハジ……メテ?

 その目に写っている

 完璧で、理想の――私……は、 



「ちが、う……」



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