32 お嬢様の事情
朝目覚める。
隣に葉那はいない。
未だ仄かに温もりが残る。
一緒に過ごした翌日はいつも俺より早く起きていて、朝食を用意してくれている。
お嬢様のくせに、料理が上手い。
いや、高校の臨海学校ではジャガイモの皮も剥けないくらい下手だった。それが今じゃ料理人顔負けの懐石料理すら作れる。才色兼備と言われた彼女は、誰よりも努力を厭わない。
完璧であろうと一心に、追いかけて――
『だから私は、貴方とは結婚しない』
彼女の抱えていた事情は分かった。
だけどやっぱり、気負い過ぎだと俺は思う。
異様な迄に家を畏れるのは、幼い頃からの刷り込みなのか、失うものの大きさなのか。
温もりにうつ伏せて目を瞑ってみる。
花のような残り香がする、気がする。
こんなことをしていると、気持ち悪いわねと言う彼女の声が聞こえるようだ。
時計を見る。明確な出勤時間はないが、いつまでも寝ていると葉那は起こしたりはせずに出て行ってしまうので身を起こした。
朝に弱い。ぼーっとしながら、洗面所まで行った。学生時は自主的に早朝ランニングもしていたのに、慣れなのか年なのか。
顔を洗う。コンタクトレンズを付けようとしたが……箱が空になっていた。度なしのカラーコンタクトは合うものが一日用しかないので少し不便だ。
鏡を見れば紛う事なく色の付いた瞳が見返していた。
この目の色は……葉那が嫌う。
でも今もそうだろうか? とふと思った。
以前は確かに父親に想いを寄せていて、俺は代わりになると言って瞳を黒に変えた。だけど今は……“俺”を好きだと言ってくれた。
鏡に写る青色の目。くせっ気の黒い髪。
彼女は今どんな反応をするのだろう。
ダイニングに行く。
やはり朝食の温かくいい匂いがして、テーブルに和食が並べてあるのが見えた。アメリカにいた頃は葉那が作るのは洋食ばかりだったが、特に最近は和食が中心だ。単に日本だからか、もしかしたら和食が好きだと言ったからかもしれないと勝手に期待している。
「あら、おはよう。今出来たところよ――」
葉那が出て来て、でも目が合った瞬間ふいと逸らされた……気がした。
席に着く。
特に何も喋らずに、いただきますとだけ言って静かな朝食が始まった。
普段から俺が眠そうなせいで会話はそれ程ないが、今日はいつにもまして寡黙な気がする。
「今日は会えるか」
「今日は――仕事があるわ」
「終わった後」
「ええと……ちょっと実家に寄る予定があるの」
「……分かった」
言い淀む葉那を見て、ふう、と気づかれないように小さく息を吐いた。やっぱりだめだな。明らかによそよそしい。
「週末のデート、楽しみにしてる」
「ええ……」
彼女は曖昧に愛想笑いをして答えた。
・・・
「申し訳ありませんが、こちらの型は在庫がございませんのでお取り寄せに一週間程かかります」
――予想しておくべきだったろうな。
日本で、度なしの黒色カラーコンタクトなんて需要がある筈がない。つまり次のデートには裸眼でいくか、目をくり抜くか。
今朝の彼女の態度を思い出すと、本気でキャンセルしようかと悩む。
が、結局そのままで行ってみる事にした。
もしかしたら素っ気ない雰囲気も俺の気のせいで、なんともないかもしれない。
「葉那、」
「あ、霧崎――くん……」
待ち合わせ場所で声をかけると、明らかに葉那のテンションが下がるのが分かった。
二人で並んで歩くがいつもより半歩分離れている気がする。
手を繋ごうとしたら引っ込められた。
こんなにかよ……
「寒いな……」
「え、ええ……そうね」
会話はぎこちなかった。
葉那は表立っては言わない。付けていろと指図された訳じゃない。付けていないのね、とも言わない。これについての話題は避けている。
映画を見て、カフェに入って、それで。
いつもなら自然と一緒にどちらかの家に帰るが……今日は断られる気がする。
「霧崎君、私、少しやり残した仕事があるから今日はこれで――」
先手を取られた。嘘じゃないかも知れないが、いつもの優先順位ではない。
「俺ん家来て」
半ば遮り、有無を言わさず手を引っ張ってタクシーに乗り込んだ。
「霧崎君……」
「葉那、キスをしよう」
玄関の扉を閉めるなり告げる。
いつもキスをする恋人の距離で、葉那を正面から見つめて。
「いつもそんな事わざわざ言わないじゃない」
「葉那、俺を見て」
目を逸らしている彼女の肩に手を置くと、身体の強張りが伝わってくる。チラと目を向け、そしてまた戻す。
「見たわ、」
「好きだ」
「何? 今更……」
「葉那に好きになって貰いたい」
「そう……」
「今日はこれで葉那と過ごすから」
「今日は、もう帰るって――」
振り払って出て行こうする手を引き留めた。
「私、無理矢理な人嫌いって言ったわよね」
まるで昔のように冷ややかな声だった。
「無理矢理じゃない。葉那に決めてもらう」
後ろから包み込むと、腕の中に小柄な体が収まった。その頭を優しく撫でる。
「いつもの俺と同じだよ」
「ごめんなさい……」
されるがままにしながら、葉那は呟いた。反動のようにしょげている。
「酷い事させているわよね、私……」
「違う。俺が勝手にしていただけだ。葉那に少しでも好かれたくて」
「じゃあ何で今日は……?」
「普通にコンタクトレンズが切れた」
「じゃあ戻るの?」
「戻ってほしい?」
「……」
俯く彼女の耳を甘噛みする。
「どっちでもいい」
「嘘……」
消え入りそうな声で彼女は葛藤していた。
「本来の貴方を見て欲しい筈だわ、青い目でくしゃくしゃの髪の」
「俺はどうだっていい。外見だけで本来っていうのも違うしな。けど、似せた分だけ忘れられなくて、お前がいつまでも辛いんじゃないか」
先が綺麗にカールした黒く長い睫毛がそっと伏せられる。
「……違うわ、きっと。今まで付き合ってきた姿じゃなかったから、違和感を感じて、落ち着かなかっただけ――」
葉那は自分に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「その姿でも……慣れればきっと」
「じゃあ、キスから始めてみる?」
後ろ向きだった体を振り向かせ、もう一度向き合う。
「目を閉じて」
その唇に、ゆっくりと口付ける。
手を取って髪を掴ませた。
「何も変わらない――葉那はもう俺を知っている」
「うん……」
一度ぎゅっと髪を掴んだ手が、緩んで首に降りてきた。もう一度口角を変えて食むと、応えるように柔らかく開く。
「今日は俺と過ごしてくれる?」
「うん……」
ゆっくりと、葉那は目蓋を開けて頷いた。
「でも、いつもみたいに……優しくしてね?」
「それが本来の俺だろ?」
笑って、抱えた彼女の靴を脱がせた。
§ 三章 お嬢様の事情/了




