31 クルーズ・デートは偶然に
「ねぇ霧崎君。今度の日曜なんだけど、」
「ああ。俺も今デートに誘おうと思っていたんだ」
チケットを見せると、葉那は驚いたように目を見張った。
「このディナークルーズ……どうしたの?」
豪華客船の初出航を記念したクルーズで、チケットは抽選予約も殺到して手に入れるのはほぼ無理な確率らしかった。しかし幸運にも
「取れたんだ」
「本当?――凄いわ。行きたかったの」
目を輝かせる彼女が眩しかった。
***
「奇麗ね」
夜の海にライトアップされた観覧車の影やビル群の光が映り込み、港は異国情緒に溢れた赤煉瓦の建物が立ち並ぶ。そこに大きな客船が白く浮かび上がって、成る程確かにドラマチックな予感をさせた。
ここでプロポーズをすれば意中の女性の心も動くかもしれない。
しかし何よりも輝くのはやっぱり――
真紅のタイトドレスを身に纏い、夜風に溶けそうな長い黒髪を抑える。たちまち美麗な背景も彼女の為の舞台装置と化した。
その姿に誰もが心奪われて、他のカップルが破綻してしまうんじゃないかと気の毒に思った。
「今度はここを貸し切って葉那と二人で乗りたいな」
「期待しているわ」と彼女は笑う。
チケットを切って船に移動する。
と、別口があるのも見えた。
「何かあっちにも入り口があるな。絨毯引かれてるけど……ハリウッド女優でも来るのか?」
「さあ……私たちはこちらで合っているわ。行きましょう?」
葉那は微笑んで、腕を組んで入った。
ロビーは広く、シャンデリアが下がっている。映画で目にする王宮のダンス会場みたいに絢爛だ。
「ちょっと緊張するな……」
「そう?」
「葉那は慣れてるんだろうな、こういう場所」
「霧崎君の家の方が落ち着くけどね」
指先を絡め合った。ベルボーイに席を案内される……と、
「旦那様! お人がたくさんいます。ここでしょうか」
「ああ、ロゼット。ここからエレベーターで行けるようだ」
非常に聞き覚えのある調子の声が聞こえて来たが、冷静に無視しようと手を引っ張る。しかし葉那は既に振り向いていた。
「――真次さん」
「――葉那君……」
二人が運命的な再会でも果たしたかのように見つめ合っていた。同じ勤務先で全く会わないと言うから、日本にいるかも怪しかったが。
「葉那ちゃん!」
しかしばふ、と白い塊が彼女に抱きついて、見事にドラマのようなシーンは打ち崩された。よくやった、と母親を見直す。
「今晩は、ロゼットさん」
葉那は作り笑いをしてさりげなく離れる。確かにどう考えても意気が合うことはなさそうだ。
「夭輔も久しぶりだな」
「え……夭?」
微笑む父親と目の前できょろきょろする母親。何を呆けているのか、この人は。
「ロゼット、ほら。夭輔だよ」
父親がつかつかと歩いてきて手を伸ばす。どういう術なのかいとも簡単に間合いに踏み込まれていた。格好付けた眼鏡が為すすべなく外され、整えた髪をくしゃくしゃにされる。
「あ……夭?――けれど、何か、」
「カラーコンタクトを入れてるんだ。ほら、目が黒いだろ?」
父親が解説して母親がまじまじと見る。暫し見てから、
「――夭!」
飛びついて来た。躱すがそれで転びかけるので支えて、結局ぎゅう、と抱きつかれた。深く溜め息を吐く。
「夭、夭……とても嬉しいです。お母さん、とても寂しくて」
「分かったから。今は離れてくれ。今度帰る」
「本当ですか、夭」母親が跳ねる。
「今日は夭と葉那ちゃんと一緒にお夕飯を食べられます。ロゼ、今日はとても嬉しいです」
「いや、俺たちは別の席だから」
「え」母親の八文字眉が下がり、
「旦那様……?」
ぎゅ、と横にいる父親の腕を引っ張った。
まさか邪魔はしないよな、と睨むつもりだったが奴の視線は母親に向いていた。
「どうだろう。君たちさえよければ一緒に」
「ええ、勿論喜んで。真次さん」
断る間もなく葉那がすまし顔で微笑み返していた。
そうは言っても満席のクルーズでどう都合する気なのかと思っていたら、案内されたのは最上階の個室だった。席というかレストランですらなく、スイートルームのような室空間だ。
遠く階下に離れた喧騒はなく嘘のように静かで、ざざん、と波の音が聞こえて来る。赤絨毯の正体が分かった気がした。一般客は存在さえ知らない『席』なのだろう。
「ところで何で変装なんかしているんだ、夭輔?」
「変装じゃねぇよ。いつもこれだ」
「そうか? 老けて見えるぜ。瞳も勿体ないな、奇麗な色なのに」
葉那が少し恥ずかしそうにうつむいた。
「またあんたの仕業なのか? 『全ては偶然じゃない』んだろ」
「いいや、偶然だ。デートの邪魔をしてすまない」
嘘みたいな微笑を絶やさず言ってのけるが、母親は能天気に気にする様子もなく、葉那も疑う事を知らずに熱い眼差しを送っている。
「邪魔だなんて。久しぶりにお会いできてとても嬉しいです」
「私達もだ。君のお父上に感謝しなければ」
「――父が何か?」
「招待頂いたんだ」
「そうだったんですね」
葉那は微笑んでいるが、ずっと傍にいてポーカーフェイスも見抜ける事がある。少し気まずそうな顔を隠していた。
*
ホテルの窓に映り込む電飾は未だに港を彩っている。
有耶無耶な灯りの中にきっと沈めてしまったほうがいい。柔らかな唇を重ねたままなにも暴くことはしないと口をつぐんでしまった方が。それが悉く、できなかった。
「なあに?」
唇を離しただけでそれが彼女に分かってしまうほど、俺は物言いだけだったのだろう。ベッドに腰掛け、口を開いた。
「俺は察しが悪いから、よく分からない。あのチケット……今日の事は、本当に偶然なのか?」
「分からないわ」と彼女もあらかじめ予見していたように、首を振った。
「私も初め、父から招待券を頂いていたの。貴方を誘おうと思ったのだけど――」
「俺が持ってきたから、気を使ったんだな」
一般枠なんかの招待券で喜ばせようと思ったのが恥ずかしい。
「貴方から誘われた時の方が何倍も嬉しかったわ」
しょげていたのが出たのか、彼女が気遣わしげに慰める。そうしてちょっと考え深げに眉を寄せた。
「代わりに貴方のご両親を招待したのか、元から招待していたのか――それも、鉢合わせるような意図があったのか、分からない。けど今思えばペアチケットを譲るということは、交際は知られているということよね」
その表情は剣呑に曇っていた。
「葉那の父親は俺達の交際を認めている・てことか?」
「――最悪、そうかも知れない」
「最悪?」
「ただの交際を認める筈がないわ……結婚させる気かも」
「最高の間違いか」
「何度も言うけど、貴方と結婚する気はないの。例え両家の総意でも」
「だから、何なんだよそれ。お前だけが意固地になっている意味が分からない」
葉那は観念したように深く溜息を吐いた。
「真次さんを困らせたくないわ」
「何で親父が困るんだよ?」
「昔、私達の縁談を断ったのは真次さんなのよ。――破談になるなんて、誰も考えなかった」
真次さんが仰っていないなら貴方にあえて話すべき事ではないと思っていたのだけど、と彼女は断りその顛末を語り出した。
曰く、その「縁談」は霧崎家と日下家に纏わる“百年越しの約束”だったらしい。当時の家事情や時代に阻まれ叶わなかった悲恋を孫子の代で成就しようと約束し、それも直系だとか長子だとかややこしいこだわりのせいで脈々と持ち越され――
その両家の悲願が遂に達成される、という時になって翻したのが父親、“霧崎真次”だった。
家の不自由で叶わなかった悲恋を、子の自由を奪って成就させるべきではない、と。
正論ではあるが一族一致の圧力に刃向かうにはそれなりの代償が必要だった。その結び付きが両家の実利を伴うものだったからこそ継承されてきたのだから。
――あれだけ抜きん出た人、本来なら家督も役職も登頂して然るべき――
ただその矛先を家族に向けさせないために。
俺が幼少期に母親の実家で過ごしたのも、父親が多忙な赴任で家を空ける事が多かったのも全部、
「そうまでして貴方の自由を守りたかったんじゃない」
と、我が事のように誇らしげに締め括った。どこかようやく伝えられた、というように。それだから彼女は、よく俺を¥詰っていたのだろう。
だがそれを知ってなお、俺にはどこか一面的な美談のように感じられた。
嘘ではないが本当でもない――あの父親が何かを犠牲に、何かを諦めたというのがどうも腑に落ちない。あの常に飄々とした様、そもそも親族内での序列や出世レースに興味があるだろうか。
まあそんな真意のありかを議論しても意味はない。いずれにしろ、
「昔の話だろ。今は俺自身の意思、お前といることが俺が選ぶ自由だ」
「私は選ばない」
きっぱりとした口調で彼女は告げる。
「どういう過程があろうと、日下家は貴方を『霧崎家』としか見ない。必ず貴方を家督騒動や家のしがらみに巻き込むことになる。貴方自身が築いた力や人間関係でさえ、権力に利用される。仮に駆け落ちしても、その始末の責任が誰に向かうか分かってる?――そんな裏切り、絶対にできない」
それでも俺が納得できない事を読み取ったのだろう、彼女は哀しげに、しかし決然とした瞳で見つめた。
分かり合えなくてもいい
貴方は自由でいてほしい
だから私は――
「貴方とは、結婚しない」




