27 これは夢ではない
「どれがいいかしら? この三つで選んで」
化粧品売り場で口紅を指し示される。どれだって似合うと言ったら怒られるので「付けて比べよう」と提案すると「そうね」と彼女も頷いた。
店員の女性が笑顔を浮かべ「今季の新色なんです」と鏡付きのカウンターの椅子を引く。
自社製品の宣伝を兼ねているのだろう、ベージュのキャンパスの如く顔は様々な線が引かれ色が載っている。肌全体すら鱗粉めいた煌めきが塗されていた。恐らく年齢はそう変わらないだろうが、比べると葉那は随分薄化粧のようだ。
ちょっと観察をし過ぎてしまったか、目が合うとにっこりと微笑んで「お連れ様もおかけになってください」と隣を示された。
「必要ないわ」
間髪入れずに葉那は言い放つ。案の定「ええ、と」と店員はたじろいだ。唐突に不機嫌になるのは割と慣れているが、初対面で失礼な印象を与えないよう代わりになるべく気さくな顔で、お構いなくと伝えた。店員も笑顔を作り直し、コットンに化粧瓶から何か染み込ませる。失礼しますね、と唇に近づけるとしかし彼女は顔を背けた。
「彼にやらせるわ」
「お前……ここ一般のデパートだから。余りツンツンしてやるな」
流石に耳打ちして注意するが、葉那は素っ気なく何も答えない。
「じゃあ、お借りします」
コットンを受け取って、ふっくりと柔らかな唇を潰さないよう慎重に拭き取る。目配せすると店員はいそいそと離れて行った。
引き結んだ唇に腰を折って一つ目の口紅を載せる。
ピンク系の可愛らしい色合いだった。鏡の彼女はやっぱり可愛い。
「……次」
オレンジ色で、雰囲気がポップになる。
「次」
最後はブラウン系で、シックな感じに。
口紅だけでこんなに印象が変わるのか、と女の化粧を不思議に思った。
「決めた?」
「え?」
そう言えば最初に選べって言われた気がする。
「全部買う?」
「適当な事言わないで。ちゃんと見てたの?」
「じゃ――これかな」
三つのどれでもない、真紅のルージュを摘んだ。刺々しい表情も可愛いらしい、彼女にきっと似合うだろう。
「可愛い」
ソファに掛ける葉那に紅い口紅をつけて微笑む。未だ少女の面影も残る若々しさに口紅が不釣り合いな程大人びさせていた。
「ラブドールみたいな不自然な美しさがあるな」
「何それ、人形?」
「擬似的な性行為ができる等身大の人形」
「人形と? 悪寒がするわ――まさか貴方そんな事してたの……?」
恐々として目を見開く彼女が可笑しい。早々に誤解を解いた方が良さそうだ。
「そういう趣味はないが、大学で見た事がある」
「大学って……それ違うんじゃない?」
「いや。同じ寮の奴が、ロボット工学の参考にとか言って改良していた」
「変じゃないと入れない大学なのね」
変という括りを一例から結論付けるとも思えず、まさか自分も含まれているのだろうか。
「確かに真面目な日本人学生には刺激が多かったな」
さり気なく自分の無罪を主張すれば、
「それでこんなに軟派になっちゃたのね」と妙な納得をされる。
「それはお前の所為かな」
額をピンと弾いた。
全く分かっていない。誰にでもこうだと思っているのだろうか。
近頃の行動を省みれば、確かに非常識的であることを否めない。職場に押しかけてイチャついたりプレゼントをする為半日もデパートをうろついたり、以前の自分には到底あり得ないことだ。
今後「入れ揚げている」男を見たとしても二度と笑えないだろう。半分脳が働いていない、夢中とは言い得て妙だ。
「ところで……さっきの店員への態度はダメだろ」
「だって、貴方に選んで貰いたかったんだもの」
不貞腐れたように紅い唇を尖らせる。他の女性に愛想を振りまいて、と小さくむくれられては、危うく心肺が停止しそうになってそれ以上は叱れない。
「本当に似合う?」
甘えるように見上げる。薄化粧に紅い唇だけが浮いて艶めいていた。
「それを付けるのは二人の時だけな。ただでさえ心配しているんだから」
脚を撫で上げつつスカートを捲った。
実用性を主張する愛用のガーターベルトの下に黒いレースのショーツが覗く。
「こんな扇情的な下着を付けて」
「普通よ。霧崎君って本当はあまり女性経験ないでしょ」
「最近結構積んでるけど?」
ブラウスのボタンを一つ二つ外すと、白肌を際立たせる同色のブラジャーが顔を出す。
彼女の実家だったらお嬢様の下着事情が問題になりそうだ。つまり家を出た反動かもしれない。止まった手にもどかしそうな表情をしている。お預けされているのは彼女だけじゃない。すぐにでも期待に応えたくはあるが
「夕飯の後ゆっくりしようぜ」
未だ抗議できない程度のプライドは持っているようで、立ち上がるのを止めなかった。不満げな表情にボタンを外したままの反抗だけをして。
作り置きしていたラザニアをオーブンに入れる。ミキサーにかけたポテトポタージュを温めながら、生野菜を取り出した。サラダ用にスライスする。
ちょっと前までテイクアウトばかりだったのがすっかり自炊も板に付いた。彼女には出来立てのものを食べて欲しいし、レストランより二人でいたい。
キッチンに立っていると後ろから葉那が抱き付いてきた。細い腕が胸の下に回っている。そう言えばアメリカで同居をしていた頃は自分の方が抱きついてよく叱られた。料理する背中に無性に抱きつきたくなる気持ちは分かる。嫌がられたのは彼女も刃物や火で危ないから離れていて欲しいという優しさだったのかもしれない。
「シャワー浴びてこいよ。その間に出来る」
「うん……」
葉那は大人しく離れて行った。
早く全部を済ませて二人の時間を取りたい。
彼女もそう思ってくれているだろうか。
少しだけ幼くなった葉那がもくもくと料理を口に運ぶ。化粧をしても殆ど変わらないと思っていたが、やっぱり大人びさせるものなんだな。というよりは、今日の化粧の不思議を見るとあえて背伸びをした装いにしているのか。
よそゆきの表情をせずにただ口を動かす彼女を見ていると幸せな気持ちになる。これも家で食べる特権だ。人前だとすぐに猫を被るから。ただこれまでの食生活に比べると彼女にとって物足りないものにはなっているだろう。
「簡単で悪いな。そろそろ実家の味が恋しいか?」
「霧崎君のが一番美味しいわ」
変な微笑みを貼付けずに言うからやめられない。
ようやくベッドで抱き合うと、待ちきれないと言わんばかりに彼女は脚を絡めてきた。
もっとゆっくり愛したいのに許してくれない。それでも快感に身を委ねる姿はとても可愛らしくて、逆らいようがなかった。
「葉那……」
満足した途端にうとうとと眠り始める彼女に未だ構ってもらいたくて、前髪を撫で付けながら話しかける。
「葉那の大学時代は?」
「ん……私は……普通よ。霧崎くんと、違って……」
「そろそろ名前で呼んでもいいんだぜ」
「また……今度ね」
囁く声は吐息のように微かになって完全に瞼が降りた。すうすうと寝息が聞こえる。惜しみながら最後に額に唇を落とした。
全部を欲しい。
思い出を大切になんて言わずに全部を忘れさせて全部を上書いてしまいたい。
今迄が嘘みたいに甘えて求めて
まるで夢の中にいるようだ。
食べても何処か満たされないところも。
俺の夢か彼女の夢か分からない。
でもこの彼女はどこか享楽的で、まるで覚めて失くなるのを分かっているようだ。
――悪い子でいいって、言ったじゃない。
揺さぶって起こしたらそんな風に忽ち冷めてしまいそうで、大人しく自分も目を閉じた。




