26 溺れるように恋をして
ガタン……
丁寧に閉めても消防用に作られた鉄扉は重く、静かな非常用階段に反響する。カツリとヒールの音が響く。携帯電話を取り出そうとした時――
「何て言って出てきた?」
捕まえるようにふわりと後ろから腕が回った。鼓膜をくすぐる男性の声。
「特に何も。すぐに戻れば問題ないわ」
「俺も帰るところだから、葉那の顔が見られればいい」
「言ってる事としている事が違うんだけど?」
骨張った手がスカートの中に忍びこんで、すりと腿を撫でていた。
首に腕を回して口付け合う。
夢みたいに現実的じゃない。自分がこんな非常識的な事をしているなんて。
学生みたいにスリルに身を委ねている。
反抗期にちゃんと反抗しないと非行に走るって、こういうことね。
霧崎夭輔との関係に溺れてしまった自分がいる。
好きだと言って好きだと返される真っ当な恋の感覚、何度も与えられ慣れてしまった体の快感に。
唇に触れた冷たい空気を吸って呼吸を整える。息が苦しくなっていることにも気が付かなかった。惚けた顔を正す努力もせずにぼうっと眺めていた――仄かに笑った口元を。肌を伝った掌がショーツまで這い上がる。
「いつから感じてんの?」
揶揄う口調に抗議の声を上げなければならないのに、自白剤を飲んでしまったように脳の言語分野が真っ当に機能しない。
「貴方の声を聞いた時よ」
それを肯定するようによしよしと撫でる手にまた蝕まれている。
「葉那が素直で可愛い。俺はお前の匂いがした瞬間」
「匂い、するの?」
魔法の小瓶のように並べて選んだ香水も、そう言えばもう付けていない。花のように匂い立たせて待つ必要もなくなったから。
「いやフェロモン? 多分男にしか分からない」
「ううん、分かるわ……私も貴方の事、きっと目隠しでも分かるもの」
匂いなのかも分からない、陽だまりのように暖かな気配。
「じゃあ目隠しする?」
「そういう趣向の話じゃないの」
デリカシーの欠片もないのは相変わらずなのに、ちょっと睨み付ける振りをするだけで以前のようには糺せない。こんなに近いともっとキツく睨まないとただの上目遣いだと誤解されてしまわないか。その証左に最近の彼は益々調子に乗っている。
「葉那は自分の性的嗜好を否定したがるもんな」
「んっ……」
指先が股下をなぞって遊び思わず震える。
『恋人』はどこまでが普通なのだろう。
喧々言うのも子供っぽい気がして、いいやそう思われたくなくて平然とした振りをしているけれど、このまま身を委ねるままでいいのだろうか。掠める不安を覆せるだけの自分はどんどん薄まっていて、結局流されるままになる。弄ばれているのが分かっていても、逆らえない。
――もっと欲しい。
反抗期の脳に指揮系統を奪われている。
「職場でこんなに興奮しているくせに」
体の芯が熱っていることを見透かされていて顔まで熱くなった。
「けど、お預け」
「あ……」
引かれた指に惜しそうに漏れた自分の声、赤面したのはそれだけではない。
こんなに
湿った指先を目の当たりにしたからだ。
声を失っている間にもその手はスカートのポケットをまさぐって、ハンカチを引き出すと自ら指を拭き取った。「はい」と皺を作ったそれが元通り正方形に畳んで返される。
「最低……」
今度は目頭が熱い。えも言えぬ悔しさに今度こそ精一杯に睨みつけた。
「買って返すから」
と、しかし彼は悪びれもなく笑う。「当然よ」とつっけんどんに返しても、
「じゃあ葉那、続きは今夜」
彼はあっさりと、軽く手を振るとそのまま非常階段を降りて行った。寒空の下、体には妙に熱が篭っている。カンカンと鳴る足音が遠くなっていくのを聴きながら、最低、ともう一度口の中で呟いた。
◆◆◆◆
最低、と睨みつける滲んだ瞳。
思い出して呵責もなく漏れた笑みが人目に付かないよう口元を抑えた。夕刻を過ぎた百貨店前は人通り多く賑わっている。その車寄せ前で彼女を待っていた。
早く着いて日の色が藍に変わる迄扉を開けるボーイよろしく眺めていたのは、有閑の日課に着飾った老婦人やブランドの紙袋を下げた若い女性達。誰も彼も意気揚々として見えるが、間違いなく言える。
一番浮き足立っているのは、俺だ。
秒針がカチリと真上を指すのと同時に
キ、と黒塗りの高級車が目前に止まる。
スラリと美しい脚が伸びてピンク・ベージュのハイヒールが石畳に降り立った。
「帰りはいらないわ」
「はい、お嬢様。お気を付けて」
扉を開けた運転手が畏まって背筋を伸ばしお辞儀をした。カツカツと悠然と歩く様、まるでモデルショーのように自然と周りが道を空ける。
「監視役をどう躾けたんだ?」
彼女の辿り着く扉の前で、笑って声をかけた。『お嬢様』は微笑する。
「知りたい?」
黒く艶やかな直毛の髪を耳にかけながら、きらきらと光の灯った黒い瞳で悪戯げに小首を傾ける。透き通る白肌に完璧に配置された目鼻口、誰もが振り返るこの美貌。
「知りたい」
すぐ様その手を取って握った。彼女に許されるなら衆目も気にせずそのまま跪いて口付けたい。
「自分の魅力に気付き始めたわ。私って男性にもてるみたい」
まるで気付いていなかったかのような言いぶりに、驚いて見せた方がいいのか。いやもしかしたら本気で気付いていなかったのかもしれない。有象無象に眼中はなく、意中の人間には決して振り向かれることがなかったから。
冗談めいた口調だったので尤もらしく神妙な面持ちを作って太鼓を持つ。
「特に最近は色気を振り撒いているからな」
「今なら大統領も落とせる気がするわ」
「余裕で落とせますよ、お嬢様」
「貴方のお父様も落とせるかしら?」
「きっともう落としてるぜ」
「それなら苦労していないわ」
ふうと憂鬱げに吐く溜息はどこまで本気か分からない。それさえどうしようもなく色を醸していた。彼女が変わったのか、俺の見る目が変わったのか。ガラスケースが取り払われように触れられる距離を何度も確かめたくなってしまう。
「お前の前に姿を現さないのがどうもおかしいと思わないか? 余裕がなくなったんだと俺は思う」
「喜ばせるのね。続きが聞きたいわ」
くすぐったそうに漏れる笑み、ただ避けられていると思い込んでいた方が俺にとっては都合が良いのだろうが、無闇に傷付いて欲しくはない。なんとなく至っていた考えを素直に述べる。
「アメリカに寄越したのも偶然じゃないんだろうな。俺を使って自分の手中に収める気だ」
それもボストンに。気付けばいつもあいつのチェス盤に乗っている気がしてならない。
不穏な動きを察知していながら彼女が危険な目に遭う事までが想定内だとしたら許せないが、勿論何の証拠も出さないので詰問したとしても妄言だとちょっと驚いたように返されるだけだ。
『どんな《犠牲》を払っても――』
信条らしいそれは仮定ではなく条件で、悪魔の取引のような思考をする本性に誰も気付かず信奉者ばかりいるのが今日まで不可解だ。
「拗らせ過ぎよ。真次さんの愛情に未だ気づけないようね」
口に出せばこんな風に立場を悪くするのは俺の方だ。
「親の子どもへの愛情は自己愛だろ? 半身のように錯覚した」
「真次さんの半身? 本当なら素敵だわ」
「そうやってお前がコンプレックスを植え付ける……」
「冗談よ」
相変わらず悪びれなく彼女はくすくす笑う。手を繋いで百貨店に踏み入れた。
最近はこうやって貢物も受け取って貰える。彼女好みのものを選べないという理由で同伴して貰い、デートの時間も増えるので嬉しい。
「今日は何が欲しい?」
「あら、ハンカチを買ってくれるんじゃないの?」
「これで気に入ったのがなければ」
肩を竦めて箱を差し出した。数枚のハンカチが丁寧に収められているのを一瞥して彼女は頷く。
「同じ銘柄ね。よく分かったわ」
「合格?」
「センスがいいわ。誰に選んで貰ったの?」
「店員のお姉さん」
デパート内を右往左往して呆れられないよう予め下見のつもりで覗いていたら声を掛けられて、曖昧に受け答えをしていたら誘導尋問のように気が付いたら包装までされていた。
「そう、」とつまらなさげに呟く、不満気な響きを感じ取った。
「まさか嫉妬しないよな?」
「嫉妬なんかしないけど、気に食わないわ。恰好付けてこんなに買って」
「それは嫉妬って言うんだぜ、ハニー」
「黙りなさい」
「はい」
おどけて言えばぴしゃりと返されて、素直に肩を落として見せる。
「まあいいわ。でも私、口紅も欲しいのダーリン」
「喜んで、お嬢様」
「いつまで鞄を持たせるの?」
差し出された小ぶりの鞄を受け取る。我儘に振る舞うのはちょっと拗ねているのもあるのだろう。
日中は彼女の職場に寄ったついでについ悪戯心を起こしてしまったが、どこまでも振り払われないので引き時も失って調子に乗ってしまった。
我儘を言わせるのが可愛くて止められない。普段は誰にも言わない事を知っているから。




