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16 カウント・ダウン

「霧崎君、私、次は日本に戻る事になったわ」


「――え?」 

「異動の話よ……ロシアで一年、アメリカで一年だからまあ妥当ね。貴方のお父様も日本に戻るんじゃないかしら」

「まあ、後ひと月はここだけどね」



 後ひと月……

 大学新棟の処置室の戸をからりと引く。

 去年の秋、ここは新しく竣工したばかりで未だ誰もこの棟にはいなかった。


 それで近くでテロが起き……近隣の病院は受け入れ人数を越え、軽傷者を受け入れる事になった。研究開発とはいえ医療分野の為に医師免許を持っている者も多く、新設された棟にも病棟と変わらないような入院室が幾つかあった。初めは免許の所有というだけで応急処置に駆り出されて少し迷惑していたが――『日下葉那』という名を聞いた時は驚いた。


 中高とずっと、苦手意識を抱いていた。何故自分にこんなに敵意を向けて来るのか、(わずら)わしく思っていた。

 だが海外に渡ってから思うのは、そこに彼女が『いない』ことだった。

 壁にぶつかった時に何故か現れるのは友人でも親でもなく、決まって彼女だった。振り返れば導くように、いつも見つめられていた。――好意と自惚れるにはあまりに刺々しい視線で。


『約束、したから』


 帰国して中等部へ入学し、入れ替わるように海外へ赴任した父親。

 誰とのどんな約束だったか、今なら想像に難くない。

 嫌いだったのは彼女か父親か、あるいは彼女と父親との関係だったか、もう分からない。


 日下葉那……


 彼女は目覚めなかった。脚の怪我とは別に、何かとても苦しんでいるようだった。欠点などない、少なくとも人に見せない彼女の苦しむ姿を初めて見た。 

 手を握ってみると何か今迄感じた事がない奇妙な気持ちになりずっとそこで眺めていた。見つめて汗を拭いて、彼女の世話をする事が中心になっていた。自分が見ていたいと思った。鍵を掛け、彼女の弱った姿を誰にも見せたくなかった。葉那。誰も聞かない病室で口にしていた。葉那、葉那……目蓋が開く時が、その終わりだった――筈が



『あなたの事が、ずっと好きです……』



 心臓が、(きし)んだ。


 直向(ひたむ)きで、懸命で、懇願するような

 甘えるような訴える様な透き通る声

 恋をする少女の瞳……


 無意識に避けていた最後のピースを嵌めるように、唇を重ねてしまった。

 それが自分に向けられたものではない気付きながら。




 触れ合った唇を離して彼女は微笑(わら)う。




「貴方とのこういう怠惰な関係も、終わりね」


 一年。

 もう『契約』は切れるのか。

 いつまでと約束した訳じゃないが遠距離恋愛の形を取れる程効力のあるものじゃないのだろう。そもそも彼女の望みは叶わなかった訳だし、自分が協力する呈でむしろ潰してしまったところがある。

 あの時自分は本気で彼女の望みを叶えようとしただろうか? 自分が意図的にその恋を摘み取ったのではないか? そう考えると罪悪感が滲み出て胃を溶かすようだった。


「どうしたの?」


 しっとりとした手に頬が撫でられた。時々顔に触れる。彼女が俺といる理由。

 細くて白魚のように繊細な指。

 この指に……

 それを手に取って口付ける。


「ねえ、霧崎君」


 葉那はちょっと困った顔をしていた。

「日本に帰ったら今迄の事は忘れない? お互いに」

「不思議な一年だったわね。まさか貴方と同棲する事になるなんて」


 口元を可笑(おかし)そうに形造る理由が分からない。自分だけの幻想だったのだろうか、恋人のように過ごした時間の全てが。

 デートの数は少なかったかもしれないが、幾らか一緒に出かけた。オペラに連れて行って貰い映画館に行ってカフェをした。ショッピングでは腕を組んで街を歩き服を選んで貰った。笑い合ってキスをして、恋人気分を共有していたつもりだったのに、やっぱりこの微笑は分からない。


 父親(あいつ)と同じだ。

 相手の事をなんとも思っていない、仮面の微笑だった。

 どうして彼女を責められるだろうか。

 この一年でその瞳に届かなかった、自分が敗れただけなのだ。


「霧崎君……」


 余程悲壮な顔をしていたのだろうか、声音が気遣わしげに変わる。続きを聞きたくないと思いながらも向けてしまった目は、きっと縋るようで情けないものだっただろう。


「以前の関係に戻りましょう?」

「無理だ……」


 正直に呟いた。

 仮面を付け替えるような、そんな割り切り方は自分にはできない。彼女の方こそそれが分かっている筈だ。 


「それもそうね……。分かったわ、じゃあ極力接触しないように気を付けるわ」

「そんなの嫌だ」


 手を掴んで言っていた。子どもみたいだとは分かっているが。


「嫌だ」

「……そんな事言われても。実際交際を続けるのは難しくなる訳だし、一時の感傷でうやむやにするよりはここできっちり関係に清算を付けた方がお互いにとっていいと思うの」

「時々電話してもいいか?」  

「困るわ」

「日本くらい簡単に会いに行ける。毎週通う」

「諦めて、霧崎君……。焦らなくても貴方にもっと合う人、いると思うわ」

「俺は葉那がいいんだ」

「分かるわ……。偶然海外で再会して、何にも縛られず普通の恋人みたいに過ごして、ヒロイックな気持ちにもなるわよね? でも一時的な感傷だわ。日本に帰れば今迄のようには付き合えない。次はもっと貴方を幸せにできる人を――貴方の優しさを受け止められる女性にするといいわ」


 辛抱強く言い聞かせる、てんで的外れな言葉を無視して華奢な身体を抱きしめた。


「俺は優しかったか?」

「ええ……乱暴だったけれど、優しかったわ」

「乱暴だった?」

「今だって乱暴だわ……」


 葉那が少し胸を押すので腕を離す。


「もしかしたら強引な方が好みの人もいると思うから一概には言えないのだけど、」

「葉那が嫌なところがあったなら直す」

「無理矢理なところ、かしら」

「俺が……いつ?」

「結構いつもだと思うけど。キスとかハグとか体に触ったりだとか……。いきなりだし、抵抗も疲れるの。『恋人』だから多少目を瞑らないといけないと思うし」

「ごめん。嫌だとは思わなかった……」


 本当馬鹿だ。受け入れてたんじゃない、我慢だったんだな。何が『伝えた気』なのか。

 生花の花弁のようにしとやかな体に()れない日はなかった。そうする程近づけた気がして、自惚れていた。


「拒みにくい女性もいると思うから気を付けてね。――私って、貴方に説教ばかり」

 彼女は呆れ笑いをする。

「私と付き合えたなら大抵の女性と上手くやれるわ。感謝してよね」


 冗談めかして言うが、笑える筈がない。本当に終わらせるつもりなんだな。


「そんなに落ち込まないで――意外と楽しかったわ」


 慰めるように言う。

 叶うはずがない恋を馬鹿だと笑うなら、俺も相当の馬鹿なのか


「それと……守って(、、、)くれて、ありがとう」

「何を?」


 葉那は答える代わりに目を逸らし、恥ずかしそうに頬を染めた。


「……気持ちがないは言い過ぎたわ。ちょっとやきもちだった、かも」



あった(、、、)ってこと?」



 気づいたら彼女を抱き上げていた。 

 言われたことを思い出して丁寧に下ろす。


「あるってことだよな?」


 彼女はまずいことを言ってしまった、という表情をしていた。


「つまり――葉那も俺のことが好きで」

「違うわ」慌てて否定する。

「遅いぜ。今のはだから――俺なら抱かれてもよかった」

「違うってば……!」

「これが、そうか……」

「多分、違うわ」

「ツンデレ(、、)、だな?」

「――私が霧崎君なんかにデレ(、、)たりする訳ないじゃない……!」


 笑ってしまうのを止められなかった。


「やっぱり、おかしいとは思ったんだ。お前が俺へのサービスで気持ち良さそうな顔する訳ないもんな?」

「絶対してない。勘違いしないで」

「何への勘違い? 思い当たることがありそうだけど」

「もう……知らない!」

「じゃあ確かめようぜ。あと一ヶ月あるんだし」

「何を?」

「お前の言う通り、触れないようにするから」

「願ってもないわね。何を確かめるのか知らないけど」

「この一年、ずっとお前に触れてきた。急に俺がいなくなったら身体寂しさに変な男に引っ掛かるかもしれないし、遠距離恋愛も視野に入れて、葉那がちゃんと我慢できるか確かめよう」

「馬鹿じゃないの……。貴方を我慢することがあっても、貴方がいないことを我慢するなんて有り得ないわ」


「明日から検証開始だな」

「付き合っていられないわ」 


 ふうと倦怠気にため息を吐く彼女の頭に、愛おしみを込めて口付けた。


「おやすみ、葉那」



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