14 ワンアフター・スキャンダル
「ただいま」
スーツケースを扉脇に置いてキッチンに向かう。冷蔵庫を開けると、卵と豆腐と韮と……言っておいたものは揃っている。
早速豆腐を取り出して包丁で線を入れた。が。
「ねぇ……危ないから離れて。刺すわよ」
彼氏(仮)がぴっとりと後ろから抱きついていた。最近増々持って鬱陶しい。
「葉那、おかえり」
耳元辺りの髪に顔を埋めて、多分、匂いを嗅いでいる。邪魔。
「出張どうだった?」
「別に……いつもより解放感に溢れた三日間だったわ」
「俺がいなくて寂しかった、てことか」
煩わしい。どうしてこんな風になってしまったのかしら。ふう、と悲しく息を吐く。
「色っぽいな……誘ってんの?」
「今すぐ離れないとスーツケースを持ってこのまま出て行くわ」
「もう片付けた」
笑いながらも手を挙げて離れた。
「じゃあ大人しく待っているから……」
「お皿を出して」
「はい」
霧崎夭輔と付き合い(仮)始めて約一年。
無口で暗い面影の彼はどこにもなく、今やただの盛った雄犬同然に成り下がっている。関係は特に変わっていないと思う。それでも意外と彼は諦めず、取り立てての落ち度もなく続いてしまっている。早く別れたい。でも面倒くさそう。そんな感じ。
「葉那の湯豆腐、すげぇ旨かった」
「そう。それで、私の後ろに座るのをやめてもらえる?」
早々に夕食を済ませてリビングで読みかけの本を開いたら、彼まで付いてきて、抱き上げて自分の膝に載せた。髪を手で梳いている。自分が少しくせっ毛だから、さらさらした髪が好きだとかなんとか。
「何でつれないんだ?」
「いつも通りでしょ」
「そうだけど。久しぶりだから少しは甘えてくれてもよくねぇ?」
「……甘えたら離れる?」
「ああ。」彼が笑顔で請け合う。
「そう」
本に栞を挟み、振り返って彼を見上げる。甘えた声で。
「霧崎君……浮気、してない?」
「してない」途端に彼がぎゅっと抱きしめる。首筋に何度も頬をすり寄せて。犬なのかしら。
「……早く離して」
「無理。今のは来た来た」
「ちょっと……んっ」
抱きしめたまま唇が奪われて咥内に入り込む。
おまけに手がスカートの中に忍び入った。
(ふざけないで……!)
そう言いたいのに口が塞がれ体も拘束されて身動きがとれない。
(もう……!)
なんとか舌をできるだけ強く噛むと漸く力が緩んで離れる。
「……ッ」
彼は口を抑えて顔を顰めていた。
「血、出てない?」ちろっと舌先を見せて言う。
「出てるわよ。うがいしてきたら?」
「……悪かった。そんな怒んなよ」
「怒ってないけど。凄くストレスがたまるわね」
「自分でもおかしいと思っている。葉那を見ると止まらなくなる」
「少し頭を冷やした方がいいんじゃないかしら。暫く距離を置かない?」
――意外とすんなり言えたわ。彼もしおれているし、うまくいくんじゃないかしら。
「それは無理だ」
しかしきっぱりとした口調で突っぱねられる。
「私も無理よ、貴方がそんな調子だと。少なくとも前はもっと紳士さを心がけていたのに。忘れてない? 私との約束」
――“理想の恋人”代わり。
「忘れてた……。分かった、反省するから少し様子を見てくれ」
「了解。改善が見られなかった場合別れます」
「……」
「シャワーでも浴びて来たら?」
「ああ……」
明らかに肩を落として浴室に向かう。
「葉那……今夜って、」
と言いかけてて止めた。当然ね。何を言おうとしたか想像に難くない。
彼がいなくなった後、ふう、と息を吐く。少し乱れた髪を整えた。
別に彼の事、嫌いじゃないけど。
乱暴なところが苦手なのよね、本人はそう思ってないだろうけど。力加減じゃなくて、気や体の流れを読めないというか――彼の剣道もその傾向があったわ。変わる見込みが薄そうね。
打って変わってしんとした部屋。肌寒さに気づいた。
……スパでも行って来ようかしら。
メモを残して出て行った。
◆◆◆◆
メモ書きを見て家を出た。
ああ言われた直後だけど、やっぱり心配だ。
葉那は不用心なところがある。
この外国で、若い女が夜のスパに一人でいて口説かれない方が不自然だ。見張っておくのは紳士的な行動だと思う。
きちんと髪を整え目に黒のカラーコンタクトレンズを入れる。こうしないと相手にもしてもらえない。さっきもそうだ。
無意識のようだが態度が違うのは明らかだ。
――未だに彼女は父親の面影を追っている。
一流ホテル内にある会員制のスパ。
俺が密かに会員になっている事が知れたらきっと退会するので、財布の奥にカードをしまう。
スパは広く平日のせいか人気も少ない。プールは勿論岩盤浴や数種類のサウナ、マッサージもあって南国風のリゾート施設になっている。通常、会員になるには一年待ちらしい。水着の女が通り際にウィンクしていく。女受けしそうな施設だが男も同じくらいいるのは施設の魅力だけじゃないのだろう。
遠目に分かる、モデルのような存在感――
あんな美人に話し掛けられるなら俺だって毎日通う。
危惧した通り、葉那の浸かるジャグジーには不自然に人が偏っていた。舌打ちせざるを得ない。
華奢な体は一分の無駄なく引き締まり、女性的な柔らかさも感じさせる。すらりと伸びた美しい脚。弾かれた水滴が反射して肌を輝かせる。日本人的な小柄さも相まって、大人と少女が混在する不思議な神聖さを醸していた。
身の程知らずの人夫達が集っても相手にされる筈もない――とも言い切れない。同年代は拒絶と言っていい程寄せ付けないのに、年輩になると途端に隙を見せる癖がある。特に父親くらいの年齢層。紳士さを期待しているようだが、男なんて下心にさして違いはない。
植栽のヤシの木に紛れたプールサイドチェアから遠目に見張る。
何の為か分からないがサングラスをしている奴は他にもいるので心なしの変装も目立つことはないだろう。会話は聞こえないが、何か話しかけられている。
――なんか、満更じゃないんだよなあ。
知性的な彼女の色気は教養のある年配層、『紳士』気取りの輩を惹きつけがちだ。一輪の花に群がる虫どもをどう追い払おうか。
「ハイ、ここいい?」
「……どうぞ?」
パラソルを挟んで対になったリクライニングチェアに見知らぬ女が座った。
他に空いている椅子は幾らでもあるので知り合いかと思って顔を思い出そうとする。人の顔が全然覚えられないから大学内でも困る事が多い。ただ知り合いは大抵職場関係だ。
「えーと、この間はどうも」
ぷっと女が笑う。
「ええ、どうも。この間は楽しかったわ」
……何だっけ。パーティの類いは欠席してるし……
「彼女を狙っているの?」
笑いながらジャグジープールの方に視線を向ける。
「まあ……」
「無理だと思うわよ」
「何で?」
「一目瞭然でしょ。社会的地位のある男しか眼中にないって感じ。確かに若い男に振り回されるよりも、お金持ちにちやほやされるのは悪くないかもね」
思わせぶりに足を組み替える。
「でも私は、断然若くてハンサムな人ね。精力が違うし」
女がウィンクして覗き込む。
「今夜私と遊ばない?」
「――分かった、お前初対面だろ」
「最初からそうでしょ」くすくすと女は笑う。
「あなた、面白いわね。手当たり次第にパーティに参加してるプレイボーイかと思ったら、意外と奥手な人なのかしら?」
「悪いけど彼女いるから」
「心配ないわ。私もデートしてる人は複数いるから」
「いや、駄目だろ」
「あなたもしかして日系?」
「国籍の問題なのか?」
「いいじゃない……ブロンドの女は抱いた事ある?」
女が首に手を回して来る。しまった。隣に座られた時点ですぐ移動すればよかった。こういうのはどう対応したらいいか分からない。
「いや、ちょっと……さっきの、俺の彼女だから」
「さっきの?」方を見ると最早誰もいない。少し目を離した隙に、と焦る。
「嘘が下手ね、アナタ。でもちょっと可愛いかも」
すり、と指が胸を撫でた――ことに驚く。こういう時は日本が恋しい。
「あなた可愛いから色々教えてあげるわ。多分そんなに経験ないんでしょ」
「心配される程じゃない」溜息を吐きながら肩を離した。
「ガール・フレンドがこんなところに来ているのを見ると心配しちゃうわね。こんなにハンサムなのに、余程下手なのかしら?」紅い唇が挑発する。
「新しいお友達ともうベッドインしたのかも」
「そんな訳あるか」
やや突き飛ばすようにしてその場を去った。悪いと思ったが、それどころじゃない。




