第八章 第4の挑戦・前編
足音のない空間を、シズハは歩いていた。
一歩ごとに、風の流れを感じ、床の模様を目で追い、全神経を“今”に張りつめて。
(大丈夫、次の板は……風が流れてない)
空調のないゾーン。
音が響きやすい“危険域”。
踏み込むと、何かが感知する可能性がある。
——だが、風がない場所ばかりを避けていては、先へは進めない。
(風の有無だけじゃない。……反射。質感。空気の圧力……)
ほんのわずかな明暗。
床の金属表面に浮かぶ、無数の“細い傷”。
それらは前回の自分の動線か、あるいは“罠を誘うための装飾”か。
(これは……試されてる。私が、“読むこと”を止めるかどうか)
五歩目。
六歩目。
汗が背筋を伝う。
けれど、体は一切音を発さない。
(静かに……そして、速く)
息を吐く。長く、細く。 目の前の床は、まっすぐに続いていた。 罠もないように“見える”。
(違う。簡単すぎる場所こそ——)
気配を察知した。
空間の“構造”が、一歩先でわずかに“たわんで”いる。
(この先、段差がある。床板の裏に空間……空洞か)
彼女はその段差の縁ぎりぎりで足を止め、左へ踏み出す。
金属のきしむような応力音が、かすかに床下で鳴る。
(……踏ませようとしてる)
完全に“意図された罠”だ。
同じパターンを歩かせようとする配置。
記憶では通じない、環境を読む者だけが見抜ける誘導。
それを、彼女は読み切った。
(ならば……その誘導を、逆手に取る)
次の瞬間、シズハは正面ではなく、右斜め後方の壁際へと身を滑らせた。
足音はもちろん、衣擦れの音すら許さない動作。
壁際の床は、微かに湾曲していた。
風が巻く地点から、音の“渦”が外れている。
そこなら、感知のリスクが減る。
(壁際を……沿って進む)
まるで忍ぶように、彼女は静かに、慎重に、そして的確に“次の一歩”を選び続けた。
記憶に頼らず、感覚だけを武器に。
世界が変化しようとも、読み続ける意思を止めずに。