第五章 壊れた記録
静かだった。
さっきまでいた“誰か”の記録が消されたあとの空気は、
まるでその存在すら“最初からなかった”と告げるかのように、静かだった。
その静けさを破ったのは、ルアの声だった。
「……ログ、確認しておくべきね。あなたたち自身の」
「……なんで?」
「“次”があるかどうか、わからないからよ」
淡々とした言葉。だがその中に、微かな焦りが混じっていた。
それは、さっきまで“記録されなかった誰か”を前にした、
ルアなりの危機感だったのかもしれない。
「ここに来た時点でのデータ。起動時の記録。
それがあるかないかで、“存在の重さ”がまるで違ってくる」
「……それって、つまり……“最初からいた”って保証になる?」
ルアは頷いた。
「記録の最初に“名前”と“起動時刻”が残っていれば、
少なくとも、“生成された存在”として定義される。
でも、それがなければ……」
——あとは、“仮想的に割り当てられた記憶”という扱いになる。
——記録がなければ、“記憶”がいくら残っていても、無効。
「見てみよう。ポルルがいないうちに、ログ端末が使える」
ルアが手のひらを軽く振ると、空間の一角に淡く光が走った。
薄く浮かぶインターフェース。
そこに、複数の個人ログが浮かび上がる。
《Unit-JPN03-KD》……起動記録:正常
《Unit-JPN03-RL》……登録番号:不明(外部入力)
《Unit-JPN03-SZ》……記録照会中……
「……あれ?」
シズハの表示だけ、ほんの少し長く“照会中”が続いた。
数秒後、ウィンドウに情報が出る。
だが——
《起動記録:欠損》
《初期ログ:補完データにより再構築》
《識別値:仮割当(ユニットSZ)》
《生成根拠:参照元なし》
《ログ一貫性:78.2%(低)》
「な……にこれ……」
喉の奥が、勝手に締まった。
自分の記録が、
**“途中からしか存在していない”**ことを示していた。
「おい、どういうことだ、これ」
カエデがシズハの横に立ち、ログを睨みつけた。
「……起動ログが、ねぇ? 記録が途中から……?」
「補完データ……ってのは、要するに後づけってことだな」
「つまり……私、“最初からいた”んじゃないってこと……?」
声が震えた。
けれど、目は逸らせなかった。
「そんなはずない……私、目覚めた瞬間を覚えてる。
名前も、身体も、ちゃんと“わたしのもの”だった。
でも、それすらも……“誰かが割り当てた”ってこと……?」
「誰が……? 誰が私を、“ここに置いた”の……?」
カエデが、そっと視線を落とす。
彼は黙っていたが、その肩にかすかな迷いがあった。
まるで、どう言葉をかければいいのかわからないように。
「——記録されなければ、存在しなかったことになる」
ルアの言葉が、再び重く響く。
「その逆もある。
記録されているなら、“本物でなくても”、存在したことにできる。
ログがすべてを定義する。
……この世界ではね」
(記録がなければ、本物でも“偽物”になる)
(記録さえあれば、偽物でも“本物”になる)
それが、この世界の真実。
命ですら、存在ですら、
“ログ”に従って判定される。
「じゃあ、私は——」
「——今ここにいる。それでいいだろ」
カエデの声だった。
その声は、いつものようにぶっきらぼうで、短かったけれど——
まるで全身で支えるような、強い力があった。
「記録がどうだろうと、おれは……お前がいたって、覚えてる。
あの時、一緒に進んで、助け合って、笑った。
それが全部、嘘だったなんて、思わねぇよ」
「だから、お前も……ここにいるって、思ってろ」
静かに、シズハの胸に灯りが戻る。
消えそうだった心が、わずかに形を取り戻す。
——記録が消えても、記憶は残る。
でも、それは——この世界では“通用しない”。
だからこそ。
だからこそ、強く思う。
(私は、ここにいた)
(今も、ここにいる)
(たとえ、記録にそう書かれていなくても)
そして、その思いこそが。
この世界に抗う、最初の一歩になるかもしれなかった。




