第九章 観測者
扉を抜けた先は、静寂に満ちた白い空間だった。
広くて、何もない。
壁も床も天井も、同じ質感の無機質なパネルで覆われている。
「……こっち、来れたか?」
「うん。声、すぐ近くに聞こえる」
姿は見えない。だが、確かに同じ空間にいる。
それでも、なお視界の中に“相手の姿が映らない”という事実が、妙に不気味だった。
(ずっとこのまま、互いの姿もわからないまま……?)
そのときだった。
ふわっ、と空気が揺れる音がして——
「やっほ〜☆」
高くて、愛らしい声が響いた。
シズハもカエデも、同時にその方向を振り向いた。
そこに現れたのは——
もふもふの白い球体。耳の長いうさぎのようで、尻尾のふわふわしたリスのようでもある小動物。
ぱっちりした目に、小さな手。全身から“あざと可愛い”オーラを放っていた。
「え……誰?」
シズハが思わず声を漏らすと、その小動物は元気よく跳ねた。
「うん、初めましてだよねっ♪ ボク、ポルルっていうんだ〜!」
声はまるでぬいぐるみの自動音声みたいに、天真爛漫で、感情の抑揚が妙に安定していた。
可愛い。でも——可愛すぎて不自然だった。
「きみたち、無事に“同期通過”できて、ほんとよかったね〜☆
もし失敗してたら、“魂バッファ”破裂して消えてたかも〜、ぷしゅ〜ってねっ♪」
シズハの背筋に、冷たいものが走った。
「……何それ。どういう意味……?」
「ん〜? ん〜〜〜……ないしょ♡」
ポルルは身体をくるりと回転させ、しっぽをふりふりしながら浮かぶ。
「でも安心して、ログはちゃんと送ったから〜。2人とも、いいデータだったよっ♪
とくに“感情値”、高かったね〜〜、びっくりした〜〜!」
(見られてた……?)
シズハの心が冷えていく。
この存在は——ただのマスコットじゃない。
見ていた。記録していた。評価していた。
「……お前、“誰”なんだ」
カエデの低い声が響く。だがポルルは、くるりと一回転して笑った。
「誰でもないよ〜。ただの“選別ユニット”だもんっ♪
きみたちの“適性”、まだまだ見ていくからね〜っ!」
その言葉を最後に、ポルルの姿はふっと消えた。
まるで最初からそこにいなかったかのように、空間はまた、音を失う。
「……今のが、この世界の“本体”か?」
カエデの言葉に、シズハは答えられなかった。
ただ、胸の奥にひとつの疑念が生まれ、ゆっくりと形を持ち始めていた。
——私たちは、見られている。
それは誰かの好奇心なのか、監視なのか、競技なのか——まだわからない。
けれど確かに、この世界は“仕組まれている”。
その確信だけが、シズハの足元をそっと、冷たく締めつけていた。