第六章 ずれた世界
シズハが“扉”を抜けた瞬間、空気の密度が変わった。
風が通り抜ける。
それまで死んだように重かった空間が、ふと、動き出した気がした。
「……通れた。ほんとうに、“ここ”が正しかったんだ……」
自分の目には、直前までそこが奈落にしか見えなかった。
今は確かに扉がある。床もある。壁も——そして、天井も。
「そっちは、どうなってる?」
カエデの声が、すぐ近くから届く。
もう壁越しではない……はずだった。
なのに。
「見えない……まだ、あなたの姿が」
「こっちも同じだ。声はすぐ近くに聞こえる。でも、どこを見てもお前はいない。
……なんだこれ、同じ空間にいるのに“視界”だけ別々って、どういう構造だ?」
シズハは、目の前に広がる通路を見つめた。
床には誰かの足跡——いや、足跡のような“陰”が、かすかに浮かんでいる。
「もしかして……“あなたが通ったあと”が、少しだけ見えてる……?」
「それ、こっちにもある」
“気配”だけが、交差する。姿はない。手も届かない。けれど、同じ場所にいる。
「ねぇ……この空間、本当に“ひとつ”なのかな」
「……どういう意味だ?」
「私が見てる世界と、あなたが見てる世界……どこか、噛み合ってない。
空間の形は似てるけど、見えるものが違ってる。
……もしかして、それぞれ別に“生成されてる”んじゃないかな、この空間自体が」
自分で言いながら、背筋がぞわっとした。
(同じ空間を共有してるようでいて、実際はそれぞれに“別の環境”が与えられている?)
それなら、なぜ声だけは届く?
なぜ、物理的には“同じ位置にいる”ように振る舞える?
そして——なぜ、空間は“2人の動きに合わせて変化しはじめている”のか。
「さっきまで、俺の足元にあった道が……今はなくなってる。
代わりに、こっちにもお前のいた“歪んだ扉”が現れた。
……このステージ、“俺たちが一緒に進んでる”ことを、理解して変わってきてるぞ」
「……ミッションが、“協力前提”に?」
「最初は違った気がする。でも今は……確実に、“2人用”になってる」
空間そのものが、ふたりの動きと関係に応じて、動的に形を変えている。
それは——単なる迷宮じゃない。
“観測され、調整されている空間”だ。
シズハは、その不気味さを喉の奥で噛みしめた。
(誰が、この空間を見ているの? 誰が、設計してるの?)
見えない壁、見えない姿、すれ違う視界。
それでも、たったひとつ確かなのは——
「私は……今、ひとりじゃない」
それだけが、どこかで、奇妙に安心だった。