第五章 見えない扉
壁の向こうの声が導く。
「次の角を左。その先に三つ目の分岐がある。そこの右、奥の角の……床の模様が歪んでる場所。そこが“扉”だ」
「……了解、した」
声に出した途端、自分の呼吸がまた浅くなったことに気づく。
(本当に、そこに扉なんてあるの?)
目の前に広がるのは、ぽっかりと空いた黒い穴。
底は見えない。縁には手すりもなければ、橋もない。
どこからどう見ても“落ちたら終わり”の、奈落だった。
「……嘘。これが……“出口”だっていうの……?」
口元が震える。足も、勝手に後ずさろうとする。
この一歩を踏み出すには、“自分の目”を否定しなければならない。
——否。それだけじゃない。
“他人の言葉”を、自分の命よりも信じるという行為そのもの。
「……無理、だよ……こんなの……」
喉の奥で絞り出すような声が漏れる。
壁の向こうから、カエデの声が返ってきた。
「お前には“穴”に見えてるんだな。だが、俺の目には“扉”がある。
開いてるし、光も差してる。揺れてもいない。手を伸ばせば、ちゃんと触れる」
「でも、私の目には——」
「わかってる。でも、言ったろ? 俺の目を信じるって、決めたのはお前だ」
(……そう。私が言った。信じるって。けれど——)
足元の黒い空間が、こちらを嘲笑っているように見える。
飛び込め。落ちろ。それは罠だ、と。
全身が、拒絶していた。
でも、その声よりも強く、
壁越しの“誰か”の言葉が、心の奥に響いていた。
(この人は、騙そうとしてるわけじゃない。そんな声じゃない。
怖いけど……でも、きっと——)
シズハは、深く息を吸った。
一歩、踏み出した。重力がふっと宙を掴む。
その瞬間——
“穴”だったはずの空間が、光に包まれて反転した。
重力は消え、足元に硬質な床が現れる。
黒かった闇は透き通り、そこには確かに——一枚の白い扉があった。
「……見えた……!」
声が、息のように漏れた。
視界が、一瞬にして切り替わったような感覚。
幻が剥がれ、真実が現れる。
「おい、お前……今、足を踏み出したのか?」
カエデの声が、やや慌てたように響く。
「うん……踏み出した。あなたの言葉を……信じて」
壁越しの向こうで、少しだけ間が空いた。
「……バカだな、お前。普通、そんなの怖くてできねぇよ」
「……怖かったよ。でも……」
言葉を止めた。止まった心臓が、また静かに鼓動を打ち始める。
「でも、あなただけは——“嘘をつかない声”だと思ったから」
再び、沈黙。
その静けさが、なぜだか少しだけ心地よかった。