第四章 同じ空間、異なる視界
壁越しに、静かに呼吸が重なる。
見えない。触れられない。でも確かに“いる”。
そんな奇妙な実感が、シズハの中でゆっくりと根を下ろしていた。
「なぁ、お前。目の前に扉、見えるか?」
唐突に聞こえた声に、シズハは一瞬戸惑った。けれど、すぐに辺りを見渡す。
「うん。ひとつだけ、目の前にある。灰色で、ちょっと錆びたような……少し揺れてる、鉄の扉」
沈黙。
数秒後、男の低い声が、ゆっくり返ってきた。
「こっちには、そんなもん見えねぇ。俺が見てるのは、金色の取っ手がついた白い扉だ。しかも……ピクリとも動かねぇ」
「……え?」
言葉が詰まる。
同じ場所にいる。話はできる。壁越しとはいえ、距離はきっとわずかだ。
なのに——見えているものが、まるで違う。
「嘘じゃない。俺の目にはそう見えてる。
っていうか、お前の言う“揺れてる扉”っての、そっちの世界じゃ大丈夫なのか?」
「……わからない。でも、さっきから気になってた。
こっちの空間には、似たような扉がいくつもある。揺れてるのも、いくつか。
でも全部、どこか現実味が薄くて……」
(まるで、幻を掴もうとしてるみたい)
「……ねぇ。こっちから見える扉、もしかして……全部“偽物”なのかも」
言葉にして、自分の背筋が凍った。
そうだ。最初に感じたあの違和感。輪郭のにじんだ扉。風もないのに揺れる構造物。
あれは、罠だ。きっとそうだ。
「もし……もし本当に、私の“見えてるもの”が間違いなら……」
「じゃあ、お前に必要なのは、“俺の目”ってことか」
男が言った。穏やかでも、優しくもない。ただ、事実を突きつけるような口調で。
「俺が見る扉は、揺れない。触っても、ちゃんと手応えがあった。
こっちから見る限り、お前の“道”は全部ニセモンにしか見えねぇ」
沈黙。長く、重い沈黙。
シズハは自分の足元を見た。影が揺れていた。心臓の音がうるさい。
(私の目は、間違ってる? じゃあ……何を信じればいいの?)
「教えて……」
小さく、呟くように言った。
「あなたの見てる“本物”の扉、その場所を。……教えて」
その一言に、男は一瞬だけ黙った。だがすぐに、低く返す。
「分かった。お前が、それで進むっていうなら——案内してやるよ」
シズハは、壁にそっと手を添えた。
見えない向こう側にいる“誰か”に、静かに呼応するように。