第三章 交錯
その声は、確かにすぐ近くから聞こえた。
けれど、振り返っても、左右を見ても——誰の姿もなかった。
「……どこ?」
シズハは立ち止まり、周囲を見回す。
声が届いた方向を見据えるが、そこにはただ無機質な壁があるだけ。
「おい、そっちに誰かいるんだろ?」
再び、男の声。はっきりと聞こえる。
声の質感、反響——間違いない。すぐ、隣の空間からだ。
「いるよ……でも、どこにも……見えないの」
シズハは壁にそっと手を当てた。ひんやりと冷たい感触。
この壁の向こうに、声の主がいる。だが、その姿は見えない。
(こんなに近くにいるのに……どうして?)
それは空間の構造の異常か、視覚の干渉か。どちらにしても、“見えていない”のはどちらかが間違っているということ。
「こっちには……黒髪で、小さい女の子が見える。けど、動かない。お前……まさか、幽霊とかじゃないよな?」
「は?」
言葉の意味を一瞬理解できなかった。次の瞬間、ぞっとした。
(彼には、私が“見えてる”……? でも……動いてない、って……)
彼の声は冗談めいていたが、それが逆に怖かった。
自分には見えない相手が、自分の姿を見ている。
しかも、それが“動いていないように見える”という、不可解な証言。
「……ねぇ、あなたの目には、私がどう見えてるの?」
「……しゃがんでて、壁に手をついてて、動かない。今の声は……お前が言ったのか?」
「そう……私が言った」
「じゃあ、なんで動かねぇんだ、お前の体……?」
シズハは息を呑んだ。
(なにそれ……私は、ちゃんと動いてる。でも彼には、止まって見えてる?)
この世界は、完全に“共有されている”わけじゃない。
同じ空間のはずなのに——見えている世界が、違う。
(この人が嘘をついてる? それとも、私の目が……)
恐怖とは別に、強烈な違和感が胸に渦巻いた。
世界そのものが、認識の上に成り立っているなら——その認識が食い違えば、世界も歪む。
「……信用、できる?」
「どっちがだ?」
「私が。あなたの言葉を、信じていいのかって……」
一拍置いて、男の声が返ってきた。
「さぁな。でも、ここでお互い黙ってたら、たぶんどっちも死ぬぞ」
言葉は雑だったが、妙に説得力があった。
(……この人は、嘘をついてる声じゃない)
理由はない。でも、そう思えた。
シズハは壁に向かって、少しだけ体を預けた。
「……ありがとう。助けてくれたの、たぶん……あなた、だよね」
「お前、動いたな。今度は、ちゃんと動いて見えた」
「……よかった」
壁一枚の距離にいる“誰か”と、わずかに呼吸が重なった気がした。