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『ねないこどこだ』の門

 それから、しばらくは穏やかな眠りが続いた。深夜まで起きることを避け、健康的な生活を心がけた主人公は、異界の記憶を夢のような幻として押し込めていた。あの本のことも——表紙に「ねないこどこだ」と書かれた、古びた絵本の存在すら、部屋の片隅でただの古本として扱おうとしていた。


 しかし、ある満月の夜、奇妙な出来事が起きる。窓ガラスを叩くかすかな音に目を覚まし、ランプを点けると、壁に長く揺れる影があった。誰もいないはずの部屋なのに、まるで誰かが立っているかのような人影が床から伸びている。主人公は息を詰めて振り向いたが、そこには何もなかった。ただ、絵本がいつもとは違う場所に転がっている——眠る前は本棚にしっかり差し込んだはずなのに、今は床の中央に開かれたまま。


 「ねないこどこだ」——淡い字で書かれたタイトルが、あり得ないほど闇の中で際立って見えた。そのページには、かつて見たことのない挿絵が浮かんでいる。歪んだ家並み、曲がる木々、そして闇を漂う小さな光の粒たち。見覚えがある。それは異世界で見た囚われた魂の光、ねむらぬ子たちの微かな残響だった。


 主人公は躊躇した。もう二度とあの世界に関わらないと誓ったはずだ。だが本を放っておくこともできない。不気味な力が部屋に満ちていく感覚がある。背中を冷たい指でなぞられるような不穏な空気が、眠気をかき消し、心をざわつかせる。


 「戻らない」と決めていたのに。

 だが、気がつけば主人公は膝をつき、開かれた本を見下ろしていた。ページには濃密な闇が滲み出し、小さな青白い火花のような光が立ち昇っている。手を伸ばせば吸い込まれるように、意識が引き裂かれるように、再びあの異世界へと足を踏み入れる——そんな確信があった。


 逃げるか、受け入れるか。

 主人公は唇を噛み、覚悟を決める。このまま放置すれば、闇はこの世へにじり寄り、多くの者が再び囚われるかもしれない。あのオバケは眠らぬ者を狩り、迷える魂を繋ぎとめる存在。そして今、再度主人公を呼び戻しているのは、あの闇の支配者に違いない。


 主人公が指先でページに触れた瞬間、世界が弾け飛ぶように揺れ、耳鳴りが襲う。光と闇が反転し、足元がぐらりと歪む。目を開くと、そこは前にも来た灰色の森。曲がった木々と黒い土、冷えきった風が頬を打つ。主人公は人間の姿のまま立ち尽くすが、背後で擦れるような声が聞こえた。


 「また来たか、ねむらぬものよ」

 オバケの低い声が、闇夜に染み渡る。オバケは以前よりもはっきりとした形をしていた。ひだのついたローブ、空洞の目孔。そこに宿る闇は深く、まるで底なしの井戸のようだった。

 主人公は喉を鳴らし、言葉を探す。「なぜ、また私を……」


 オバケは微笑とも嘲笑ともつかぬ声で答える。「ねないこどこだ。ここにいるよ。君はもう眠るべき時に眠る術を得たが、その記憶が残る限り、誘いは続く。ほかの‘ねないこ’たちが、まだこの世界に囚われている。その輝きを解き放たねば、君もまた、永遠にここへ呼ばれ続けるだろう。」


 振り返ると、遠くの暗闇に小さな光がちらちらと瞬いている。それは幼子の魂なのか、大人の残滓なのか分からないが、確かに生き物の痕跡を感じる。彼らは皆、眠らぬ夜を過ごした報いとして、この異界に囚われているらしい。


 「どうすれば解き放てる?」主人公は唇を震わせて問う。これまでただ逃げるだけだったが、今度は違う。オバケは答えず、闇に手をかざすと、細い道が開けた。まるで迷路のような細い小道が、森の奥へと続いている。道の両脇には小さな光が浮遊しており、その数は膨大だった。


 主人公は恐怖と躊躇に苛まれながらも足を踏み出す。闇に覆われた迷路を歩くたび、小さな光が近づいては遠ざかる。耳を澄ますと、細い寝息のような声や、泣き出しそうな子どもの囁きが聞こえる。彼らは皆、覚めない悪夢の中にいるのだろうか。


 立ち止まり、主人公は静かに囁く。「もう眠っていいんだ。怖がらなくていい。君たちをここに囚えているものは、ただの闇の幻。目を閉じて、安心して休んで……」

 言葉は闇に飲まれそうだったが、小さな光がかすかに揺れた。まるで子どもが子守唄に耳を傾けるように。次第に光たちは柔らかくきらめき、その数が少しずつ減っていく。消えていくのではない。どこか別の場所へ旅立つように、穏やかに消散している。


 「やめろ」オバケが低く唸る。光たちが解放されることを彼は望まぬのだろう。闇の触手のような影が道に伸び、主人公を押し留めようとする。

 しかし主人公は動じない。繰り返し、優しく呼びかける。「もう遅い時間だ。安心して眠っていいんだよ。」

 影は唸り、森が震える。だが、光たちは次々と闇から解き放たれ、消え去っていく。オバケは歯ぎしりのような音を立て、最後の一つの光が消える瞬間、つぶやくように言った。「ねないこ……どこだ……」


 光が全てなくなると、闇は急速に薄れ始め、景色がぼやける。主人公は膝に力が入らないほどの疲労を感じるが、同時に奇妙な安堵が胸を満たした。子どもたち、あるいは眠らぬ魂たちを解放することで、この異界の呪縛が弱まったのかもしれない。


 再び強い耳鳴りがし、主人公は目を閉じる。次に見た景色は、いつもの寝室。窓の外には白み始めた空が広がっている。床には「ねないこどこだ」の本が閉じたまま落ちていた。

 手に取ると、以前感じたあの邪悪な気配は薄れ、ただの古い絵本に戻っているようだった。もう闇がこちらを覗き込むことはないだろう。


 主人公は本を本棚に戻し、深く息をつく。長い夜を越えた今、眠ることの意味がはっきりと胸に刻み込まれている。夜に休み、朝を迎えること。その当たり前の行為が、いかに大切な結界となるのかを知ったのだ。


 遠く、鳥が鳴く声がする。寝室には柔らかな朝の光が射し込み、もう闇の誘いは聞こえない。主人公は目を閉じ、静かに眠りへと戻ることができた——今度こそ、本当の安息に包まれて。

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