眠らぬウサギとオバケの再びの誘い
朝日が差し込む寝室で目を覚ましてから、幾晩が過ぎただろう。人間の姿に戻った主人公は、あの異界で体験した悪夢のような出来事を、曖昧な幻だったと思い込みたかった。以前のように夜更かしはしない。健康的な生活を心がけ、余計な刺激は避ける。それでも、寝室の本棚に挟まれている古い絵本「ねないこどこだ」——その存在だけは拭い去ることができなかった。捨てようと手に取る度、なぜか奇妙な躊躇が胸を刺す。
深夜、ベッド脇の時計は静かに刻を刻んでいる。いつもならすでに眠りについている時間、しかし今宵は不安に揺れる心のせいか、主人公はわずかな物音にも敏感だった。風が窓ガラスを撫で、カーテンの隙間から闇がのぞく。意を決して電気を消し、まぶたを下ろすと、しんとした闇の中で、あのウサギの影が脳裏をかすめた——長く垂れた耳、灰色の毛並み、そして血の気を失った異界の風景が、薄膜の向こうで瞬いた。
ふと、誰かの声が聞こえた。それは耳元で囁くような、風に溶けるような、かすかな声。「ねむらないのかい?」低く、湿った音が部屋に滲み出る。息を飲んで目を開くと、暗闇の中で本棚がかすかに揺れている気がした。いや、気のせいかもしれない。先日までの体験は幻覚だったはず。そう自分に言い聞かせる。
それでも、恐る恐る枕元のライトを点け、部屋を見回す。何もないはずの床に、どこからか灰色の毛が1本、すっと落ちている。震える指先で拾うと、それは確かにウサギの毛に似ていた。頭の中で警報が鳴り響く。再び、あの世界がこちらに忍び寄っているのか?
眠りを拒む者が異界に引きずられる、その法則はもう理解している。だからこそ、今度は違う。主人公は恐怖を感じながらも、あえて絵本へと手を伸ばす。「ねないこどこだ」。開けば、懐かしいはずのイラストがぐにゃりと歪み、絵本中のオバケが紙面から抜け出してくるような錯覚を覚える。かすかな笑い声が頭の奥で反響する。
主人公は心中で呼びかける。「あの時は眠って逃れた。でも今度は逃げずに向き合うべきなのか?」寝台に腰掛け、絵本を膝上に置く。再び目を閉じると、まぶたの裏で世界が揺らめく。急に鼓動が重くなり、呼吸が浅くなる。光と影が反転する瞬間、主人公は再びあの異界へと足を踏み入れていた。
今度はウサギの姿ではない。人間のままだ。しかし足元は灰色の土、周囲の木々は腐敗した手足のようにねじれている。遠くで、あのオバケがふわりと浮かんでいるのが見える。前よりもはっきりした輪郭を持ち、深い影色のマントのようなものを纏っている。オバケは主人公を見つめ、諧謔的な声をあげる。
「ねむらぬものよ、なぜまたここへ?」
主人公は唇を噛みながら答える。「もう逃げない。なぜ私をここへ誘う? なぜ、私をウサギにした?」問いは震え混じりで、声も上擦っている。闇夜の世界は、再び時が凍りついたように静まった。
オバケはゆっくりと近づき、まるで絵本から抜け出た挿絵のように、不自然な動きで宙を歩く。「ねないこは、ここに集まる。君だけじゃない。多くの ‘ねむらないもの’ が、闇に足を取られている。」そう言ってオバケが手を掲げると、遠方の空に小さな光が瞬いた。それは、数え切れないほどの眠らぬ魂が囚われているかのようだ。
主人公は愕然とする。自分一人の過ちではなかった。無数の眠らぬ者たちが、この世界に微かな光として閉じ込められている。中には子どものような小さな光もあり、弱々しく明滅している。思わず手を伸ばすが、届かない。オバケは静かに言う。「これが ‘ねないこ’ の末路だ。君は一度、眠ることで逃れたが、その記憶が残る限り、呼び声に応える限り、ここから真に解放されることはない。」
主人公は歯を食いしばる。ならばどうすればいい? ただ眠るだけでは足りないのか? 今度こそ、絵本を捨て、夜更かしを断ち切り、闇の誘いに耳を貸さぬ生き方を選ぶしかないのか。オバケは影の指を伸ばし、主人公の胸元をそっと撫でる。「ねむれ、そしてもう二度と戻るな。さもなくば、君もまた、ここで揺らめく光となる。」
遠くで小さく鳴く声が聞こえる。それはウサギの鳴き声にも似ていた。かつてウサギだった自分が、この世界の一部として鳴いているのかもしれない、そんな錯覚。主人公は苦悶し、瞼を無理やり閉じる。もう二度と、この闇に足を踏み入れないために。
目を開くと、再び自分の寝室、硬い現実がそこにあった。絵本は膝上から落ちて床に転がっている。時計はまだ深夜に差し掛かったばかり。主人公は震える呼吸を整えながら、本を拾い上げる。そして窓を開け、冷たい空気を吸い込み、静かに本を閉じた。
「ねないこどこだ」——もうこの問いには答えぬと、心に誓う。夜更かしをやめ、健康な日々を過ごし、闇の誘いを断ち切ろう。何度も同じ螺旋に陥らぬために。オバケの視線が未だどこかで見守っている気がしたが、主人公は深く息をついて床に就いた。
静寂の中、遠くでかすかな囀りがする。鳥の声ではない。だが、もう振り返らない。そう決めたからこそ、主人公は穏やかなまどろみに身を沈めていく。夜明け前の部屋で、絵本の表紙は硬く閉ざされ、部屋にはただ深い静寂が横たわっていた。