闇夜へ堕ちる長耳の影
深夜。いつのまにか日の光を忘れた世界で、ウサギは震えていた。灰色の木々がうねり、その枝の先端には見知らぬ者たちの影が揺らめいている。まるで、ここはこの世の狭間——否、既にこの世ではない、どこか歪んだ異世界。その世界にウサギが転生してどれほど経ったか、もはや覚えていない。時間の概念はとうに捻れ、ただ暗闇と冷たい風がウサギの長い耳を撫でるだけだった。
記憶は断片的だ。ウサギは元々、人間だった——そのはずだ。仕事に疲れ、深夜までネットや仕事の資料を漁り、寝る時間を惜しんでいた。あの頃、寝不足で苛立ち、部屋の灯りを落としても眠れず、夜更かしの習慣が体と心を蝕んでいた。そんなある日、ふと目を上げると、書棚に古びた絵本が立っていた。その絵本には「ねないこどこだ」とタイトルが記されていた。子どもの頃、誰かに読んでもらった記憶がよみがえる。夜更けまで起きている子どもはオバケに連れていかれる、という警告めいた物語だった。
その晩、ウサギ——いや、その時はまだ人間だった彼は、ふとした悪戯心で絵本を読み返した。「ねないこ、どこだ?」ページをめくるたび、幼い頃は単純な怖さだったものが、今や得体の知れない不安を掻き立てる。ページの中のオバケは不気味に笑い、まるで彼に語りかけるようだった。「寝ない子はオバケに連れていかれるよ」と。そうして最後のページを閉じた瞬間、部屋の中に冷たい風が吹き抜けた。背後で、何かが囁く。「まだ起きているの?」
次の瞬間、彼は全身を凍らせた。明かりを消したはずの闇の中に、歪んだシルエットが浮かんだ。それは、絵本に出てきたオバケによく似ていた。顔のない、けれど確かな存在感を放つ、その影がゆっくりと彼に近づく。「おやすみの時間だよ、ねないこさん。あなたを新しい世界にお連れしましょう」——その声を聞いた途端、目の前が真っ暗になった。
意識を取り戻した時、彼はウサギになっていた。人間だった自分は消え、長い耳と灰色の毛並みを持つ小動物の身体がそこにあった。それは、夜更かしを罰する奇妙な異世界。「ねないこはどこへ行くのか?」そう問いかけた絵本の問いに答えが示されたかのようだ。ここは、夜更かしで乱れた魂が集まる領域かもしれない。時間が凍てつき、生者と死者、現実と幻が入り混じる奈落の底で、ウサギはひたすら彷徨った。
ある夜、月の形が微笑むように欠けた闇の中、ウサギは古びた洋館を見つけた。軋む扉を押し開けると、中には数多の枯れたランプと埃をかぶった鏡が並ぶ部屋があった。その鏡の一枚に、自分の人間だった頃の顔が映り込む。そこへ、するりと差し込まれる影。オバケが再び現れた。
「君はまだ眠らない。まだ、この世界の中を漂っている。ねないこは、いつまでも闇に捕らわれるのさ」そう囁くと、オバケはランプの一つに冷たい息を吹きかけた。青白い火がゆらめき、部屋中に異形の影が踊りだす。ウサギは声にならない悲鳴を上げ、逃げ出そうとする。しかし、閉じた扉には錆びついた鍵がかかっていた。
オバケはゆったりとウサギを取り囲む。触れるわけではないが、その存在はウサギの鼓動を縛る。「どうして眠らなかった?」その問いは、子どもに向ける叱責でもなければ、哀れみでもない。淡々とした、運命を告げるような響きを持っていた。
ウサギは震えながらも答えようとする。だが、口を開いても声は出ない。かつての自分がなぜ夜更かしに執着していたのか——仕事? 趣味? 自由な時間を求めたから? そんな大人の理屈は、この異界の存在には通用しないのだろう。
その時、ウサギは気づいた。鏡の向こう側に、朽ちたベッドがある。枕元には、見覚えのある懐中時計。かつて、毎朝気だるく起きる自分を嘲笑うようにチクタクと刻む時計だった。
「眠るべき時に眠らぬ者は、時を失い、行き場をなくす」とオバケが呟く。ウサギは覚悟を決め、鏡に向かって跳びかかった。ガラスが割れ、冷たい破片が舞う。その先には、錆びついた古時計と、粗末な寝台。そこで眠ることができれば、この異界からの脱出が叶うかもしれない——そんな直感が走る。
オバケは手を伸ばした——いや、手のような輪郭をした影を、伸ばした。冷たい闇がウサギの体毛を撫でる。その時、ウサギはぴたりと止まった。今こそ理解したのだ。この世界は「寝ない子」を罰するための檻。抜け出すには、結局「眠る」という単純な行為が鍵になる。
ウサギは壊れた鏡の向こうで身を丸めると、そっと目を閉じた。夜更かしをした自分が招いた報い。その報いを受け止め、素直に休息を受け入れることで、魂は解放されるのかもしれない。
オバケは長い沈黙の後、微かな笑い声を上げた。それは冷たい嘲笑でも、愉悦でもなく、ただ静かな許しの響きのようにも感じられた。
次にウサギが目を開いた時、そこは見慣れた自分の寝室だった。窓からは早朝の日差しが差し込み、布団の柔らかい感触が心地いい。床には「ねないこどこだ」の絵本が開いたまま転がっていた。
時計は深夜を過ぎ、早朝へと移っている。彼はゆっくりと起き上がり、瞼に残る残像を振り払う。まだ少し震えが残るが、あの異界とオバケ、そしてウサギだった自分は、全て幻だったのだろうか?
だが、かすかに残る冷気が、彼の背中をひやりとさせる。あの異世界で学んだことがあるとすれば、それは「人は眠るべき時に眠らなければ、闇に捕らわれる」ということ。彼は静かに布団に戻り、ゆっくりと眼を閉じた。寝ない子に待ち受ける世界——それは、もう二度と見たくない。
外では朝の鳥が鳴いている。その囀りは、闇と眠りから解放された新たな一日の始まりを告げていた。