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嘘と真実の狭間  作者: 柊れい
第2章
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第2章 第1話: 戻る日常、知らない生活

病院を出てから、どれだけの時間が経ったのだろう。退院の日、私を迎えに来た母さんの穏やかな笑顔が脳裏に浮かぶ。けれど、家に戻ってからの生活は予想以上に重たく感じられた。自分の部屋、家具、ベッド。すべてが私のもののはずなのに、どこか他人の暮らしを覗き見ているような違和感が拭えない。


「あんた、前はよくこの部屋で音楽聴いてたじゃない」


母さんがそう言って笑う。部屋の中に置かれたスピーカーやCDの棚は、確かに長い間使い込まれた雰囲気があるけれど、それが自分の趣味だったとは思えない。あまりにも生活が馴染まなくて、私は頭の中でひたすら考え続ける。過去の私はどういう人だったのか、何が好きで、どんな夢を抱いていたのか——まるで誰か別の人間の人生を手探りで辿っているようだ。


「少しずつ慣れればいいよ。焦ることないわ、沙耶」


母さんは優しく言ってくれるけれど、その言葉を受け取るのもどこかぎこちない。退院したばかりの私は、まだ外の世界に出ることを恐れている。自分が本当に元通りの生活に戻れるのか、その不安が押し寄せてくるたび、動くのが億劫になってしまう。


「今日、悠斗くんも学校で待ってるって言ってたわよ。彼がいるなら、少し安心できるんじゃない?」


母さんの言葉に頷きつつも、心の中ではどこか引っかかるものがあった。悠斗は毎日私を支えてくれるし、私の記憶が戻るまで一緒にいると言ってくれた。でも、どうしても彼の言葉を全面的に信じ切れない自分がいる。写真や動画の「私」が映し出す幸せな姿と、今の私はどこか違う。悠斗と過ごした日々が、まだ心の中に実感として根付いていないからだろうか。


そんなことを考えていると、スマホの通知音が鳴った。悠斗からのメッセージだ。


「今日、学校の近くで待ってるからさ。久しぶりの登校だし、俺が一緒にいてやるよ」


彼のメッセージは相変わらず軽い調子だけど、そこに込められた優しさが伝わってくる。悠斗の存在が少しずつ私の中で大きくなっていくのを感じながら、私はスマホを握りしめた。


++++++++++


初めての登校日は、何とも言えない緊張感に包まれていた。通い慣れたはずの学校が、今の私にとってはまるで見知らぬ場所のように感じられる。制服を着ることさえ不自然に感じるのだから、日常がどれほど遠くなってしまったのか痛感させられた。


「沙耶! こっちこっち!」


校門をくぐると、すぐに悠斗の声が聞こえた。彼は校門の近くで待っていて、私に手を振っている。今日も少しチャラい印象だが、その無邪気な笑顔には安心感がある。


「おはよう、沙耶。緊張してる?」


悠斗が軽く肩を叩いてくる。彼の言葉に私は微笑んで「少しだけね」と答えた。実際は「少し」どころではなかったが、あまりにも不安を全面に出すのは良くないと思い、笑顔を作った。


「まあ、最初は誰だってそうだよ。俺も初めて沙耶と一緒に学校来たとき、ちょっと緊張したもん。お前が隣にいてくれて、心強かったな」


彼はあくまでも自然体だ。そんな悠斗に励まされながら、少しずつ緊張が和らいでいくのを感じた。


校内に入ると、何人かのクラスメートが私に声をかけてくる。彼らは笑顔で「おかえり」と言ってくれるが、私はその誰一人の顔も覚えていない。友達だったのだろうか、それともただのクラスメートだったのか——記憶がないせいで、すべての関係が不透明に思える。


「沙耶、席はあっちだから。俺、今日はちょっと教室まで送るよ」


悠斗がそう言って、私を案内してくれる。彼の隣にいると、少しだけ安心できるような気がした。彼が私の「彼氏」だということは、写真や動画で証明されているし、彼自身もそのことを強調している。だけど、その関係が今の私にとってどこまで実感として持てるのか、まだ答えは出ていない。


教室に入ると、周りの視線が一斉にこちらに集まる。皆、私の退院を知っているのだろうか。クラスメートの中には、心配そうな顔をする人もいれば、何か言いたげにこっちを見ている人もいる。そんな視線の中、悠斗はまるで自分のことのように堂々と振る舞っていた。


「みんな、沙耶が戻ってきたからよろしくな!」


悠斗の軽い言葉に、教室が少しだけ和らいだ。彼は本当に自然体で、他人を気遣うことに長けている。そんな彼の態度が、少しだけ羨ましく感じた。


「大丈夫? 緊張してる?」


隣の席に座るクラスメートが、小声で私に声をかけてきた。私は少し戸惑いながら「うん、大丈夫」と答えた。彼女の顔にも覚えがないが、その優しげな表情に少し救われた気がする。


授業が始まると、教室の中は一気に静かになった。黒板に書かれる文字を追いかけるけれど、頭に入ってくるのは断片的な情報ばかりだ。学校の生活が再び始まったとはいえ、記憶のない私にとってはすべてが新しいことのように感じられる。周りの人たちとの会話や、教室の空気感——どれもが以前の私にとっては当たり前だったのかもしれないが、今の私にはまるで知らない世界だ。


授業が終わると、悠斗がまた私のところに来て、軽く肩を叩いた。


「お疲れ、沙耶。どう? 久しぶりの学校は」


「うん……まだちょっと慣れないかな。でも、みんな優しくしてくれてるから、ありがたい」


そう答える私に、悠斗は満足そうに頷いた。


「そうだろ? みんな、お前のこと待ってたんだよ。これからも少しずつ慣れていけばいいさ。俺がそばにいるからさ、安心しろよ」


悠斗の言葉に、私は微かに安堵を感じた。彼の存在は確かに私を支えてくれている。だけど、その支えが今後どれほど強くなるのか、それとも弱くなるのか——まだ分からない。


校舎を出る頃、夕方の光が差し込んで、校庭が美しく輝いていた。悠斗と一緒に歩きながら、私はこれからの日々に向き合う覚悟を少しずつ固めていく。


「さ、帰ろうか」


悠斗の声に、私は小さく頷き、彼と並んで歩き始めた。

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