夕暮れに潜む異界
企画初日に間に合いました!
「ああ、今日は少し遅くなっちゃったな」
下駄箱で靴を履き替えて、校門を出ると、弝は空を見上げた。
空はすでに茜色を通り過ぎ、薄紫から藍色へと移り替わっている。闇色までもう僅かもないだろう。
「少し自主練がんばりすぎた」
弝が通う高校は文武両道をモットーにしている為か、街中にありながら、学校の施設はかなり充実しており、広大な敷地を有している。とりわけ旧校舎の奥にある森は本当に都心かと思うほどに深い。
「わわ。次の電車に乗れるかな」
乗れなければ、夕食の時間に間に合いそうにない。そうなれば、弟におかずを横取りされてしまう。それだけは避けなければならない。
弝は鞄を背負いなおし、帰り道を急いだ。
駅までの道は店が殆どなく、住宅の間を抜けて行く。この時間なら、会社帰りのサラリーマンとすれ違ってもいい時間帯だ。
なのに、今日に限ってなぜか学校を出てから一人も見かけない。
前にも後ろにも。
背中がぞろりとした感覚が襲う。
「急ごう」
弝の足が自然早くなった。
空も闇に包まれている。
と、その時前方に女性が歩いているのが見えた。
どっと押し寄せる安心感。
ふう。知らず大きな息が漏れる。
あの女の人について行こう。電灯があるとはいえ、薄暗い中、1人で歩くのは不安であった。
弝は少し足を早めてその女性に近づいた。
するとその女性がぴたりと足をとめた。
これは痴漢かなにかと間違えられたか?
仕方ない。誤解を解くため、女性を追い越して先に行こう。
そう思い、弝は歩みを早めようと、前へ一歩踏み出した。
刹那。
「きけけけ」
奇怪な声が弝の耳をうった。
女性を見ると、全身を振るわせている。
奇怪な声は女性の悲鳴だったのか。
弝の行動が更に女性を不安にさせてしまったのか。
声をかけるのも違う気がするし、これは走って女性の横を通り抜けるか。
そう逡巡していた弝はあり得ない光景に、大きく目を見開いた。
「ひぃっ!」
弝の視線の先。
身を震わせていた女性の首がぐるんとこちらに向いた。
ぎょろりとした右目。その目が弝をとらえる。
そのまま、首がぎしゅぎしゅっといやな音を立てながら回り続け、完全に真後ろを向いた。
ありえない。ありえない光景。
「きけけけけ!」
奇声とともに、女の身体がブリッジした。
その体勢のまま、かさかさと足早に弝に迫る。迫る。
その動き、大半の人間が嫌う虫のそれ。
「いやああああ!!!」
弝は一目散に逃げだした。
足が動いてくれたのは、嫌悪の助けもあってだ。
けれど、女の動きは早い。あり得ないほどに!
必死に逃げなければ、すぐに追いつかれてしまう!
弝は懸命に走った。
それでも後ろから聞こえるかさかさという音は消えない。
そればかりか、徐々に近づいてくる。
「きけっ。きけけ!」
迫る! 迫る! 追いかけてくる!
なぜ、こんな事態になっているのかまったくわからない。
昨日と同じように学校から駅へ、家へと帰る道だ。
なぜどうして。
走りながら、様々な事が浮かんでは消えていく。
そうだ。ここは住宅街。
少し勇気がいるが、どの家でもいい。インターフォンをおして助けを求めればいいのではないか。
弝はやっとそこに思い至った。
一筋の光明を得て、弝は目を左右にむける。
「なっ!」
弝は絶句した。
自分の走っている両側に家がない!
あるのは木々生い茂る真っ黒な森。
弝は、いつの間にか森の中を走っていた。
そうだ。必死に走っていて気づかなかったが、駅から学校までの道で、こんなに長い直線の道はなかった。
なぜ。どうして。
更なる混乱が弝を襲う。
「まてええぇぇ」
おどろしいその声は、もうすぐ後ろまで迫っていた。
疲れと恐怖が弝の足を縛る。
捕まったら、自分はどうなる?
内臓がぎゅっとひきつれる。
弝足を懸命に動かし、再びスピードを上げた。
はやく! 速く! 動け足!
それからどれほど走ったのか。
いつの間にか後ろから聞こえていたかさかさという音は聞こえなくなった。
後ろを振り返ると、女の姿はない。
「助かった‥の?」
弝は足を緩めた。
逃げ切れた。立ち止まっても、虫女の姿は見えない。
途端、力が抜け、弝はその場にへなへなと座り込んだ。
助かった。助かったのだ。
弝はほうっと顔を上げて大きく息をついた。
見上げた先には星空ではなく、土の天井。
そこで弝は周りを見回した。
森を走っていたと思っていたが、今はどうやら洞穴の中にいるようだった。
駆けて来た後ろを振り返ると、上り坂になっている。
となると、洞穴は平ではなく下っているようだった。
必死に走っていた為、下っていたのも気づかなかった。
住宅街の中に、森やましてや洞穴があるなんておかしいー。
弝の腕に鳥肌が立つ。
それにうっすらとだが、周りが見えるのはなぜか。普通洞穴の中は真っ暗なはずなのにー。
気味の悪い場所。ありえない場所。早くここから出なければ。
一番の近道は引き返す事だ。
が、引き返してまたあの虫女がいたらと思うと、それもためらわれた。
かと言って、先に進むのもと思いつつ、視線を洞窟の奥に向けると、貧相な小屋があった。
まさに掘っ立て小屋と呼ぶにふさわしいほどの粗末な小屋。
そこから明かりが漏れている。
誰かいる。
それだけで弝はほっとした。
ホームレスの人が住み着いているのか。
危険な人かもしれないが、自分以外の誰かが、この場にいる。それだけで心が緩んだ。
そうか。洞穴が少し明るく感じたのは、この小屋の明かりのせいなのかもしれない。
小屋を尋ねるかどうか、扉の隙間、あるいは窓があればそこから中の様子を伺ってみよう。
そう思い、弝が立ち上がった時、背後から声がした。
「食べてはいけないよ。飲んではいけないよ」
「ひっ!」
瞬間、振り返った先。背中を丸めた老婆が居た。
白い着物を着ている。表情は見えない。長い髪を後ろで丸めている。
「ひい!」
さっきまでいなかったはずだ。
どこからなぜ。弝は後ずさった。
「食べてはいけないよ。飲んではいけないよ」
老婆は繰り返す。
と、すっと消えた。
「ひいい!!」
幽霊! 幽霊が出た!
恐怖が弝の背中を押した。
弝は小屋まで一目散に走り寄ると扉を叩いた。
「すいません! 開けてください! 道に迷ってしまって! 開けて!」
その声に応えるように出て来たのは、小屋に似つかわしくない美女。
「あら。こんなところに可愛らしいお嬢さんが」
綺麗な青い着物で、柄も金糸で入れられている。とても高そうだ。
「私、私、なんか、迷ってしまって」
それしか言葉が出ない。
「まあ、迷って、こんなところまで?」
美女はさもおかしいことを聞いたと言うようにコロコロ笑った。
「へ、変ですよね」
弝は苦笑いだ。
化物に追いかけられて、ここまで来たとは言えない。
言いたくない。信じてはもらえないだろう。それに自分でも信じたくない。
「さあ、お入りなさいな。何もないけどお茶を入れてあげる」
女性はためらいなく、招き入れてくれた。
「ありがとうございます」
弝は中に入ると、そこは外見からもわかるとおり、一部屋しかなかった。
入った先はむき出しの土間。そこからちょっとの高さで上がった床張りの6畳ほどの部屋。真ん中には囲炉裏が切られている。そこには赤々と火が燃えていて。
今は夏の少し手前の季節。寒いはずなどないのに。
けれど、部屋は適温。
洞穴の中は意外と冷えるのかもと、囲炉裏の手前に座りながら、弝は無理やり納得した。
「さあ、なにもないけど、どうぞ」
その言葉とともに差し出されたのは小さな白い団子とお茶。
「ありがとうございます」
弝は部活の道具を脇に置くと、それに手を伸ばした。
色々あって喉がカラカラだ。
湯呑に手を触れた途端、頭をよぎったのは先程の老婆の声。
(食べてはいけないよ。飲んではいけないよ)
弝の手がぴたりととまった。
なぜか、その言葉を守らないといけないと心の底で確信する。
「あら? 飲まないの?」
「はは。私さっき、飲んだばかりなので」
「そう」
「すいません。せっかく出してもらったのに。お腹もいっぱいで」
「そう。お腹もいっぱいなの」
「あ、はい」
「羨ましいわ」
「は?」
美女は俯いていた顔を上げると、にやりと笑った。
その笑みは禍々しさを放つ。
「じゃあ、貴女の身体を私にちょうだい。私、喉も乾いて、お腹もすいているのよ」
ゆらりと立ち上がった美女の手には、出刃包丁が握られていた。
「そうして私とともに、黄泉路の底まで下りましょう!」
美女はそういうや否や、出刃包丁を振りかぶった。
「いやあああああ!!!」
弝は信じられないほどの速さで立ち上がると、出口に走った。
扉をあけ放つと、一目散に坂道を駆けあがる。
「待ちや!!」
美女は裾をはためかせ、弝を追いかけてくる。
振り返った先の女の顔。目は吊り上がり、口は耳までめくれあがっている。そしてその額には2本の角があった。
「血をよこせええ! 肉をよこせええ!」
捕まったら殺される! 啜られる!! 食われる!!!
弝は必死に走った。
けれど、このまま昇った先、、あの虫女が待ち構えていたら。
万事休すー。
先も後もどちらもだめ。どうすればー。
そう思った時、耳元であの老婆の声が。
「弓をならしなさい」
弓を鳴らす。鳴弦。
それは古来より邪気を払うと言われている。
それを教えてくれたのはー。
弝は立ち止まり、小屋から忘れずに持ってきた部活の道具、弓を袋から出した。
そして鬼女に向けて、楽器のように弦を弾いた。
「ぎゃあ!!」
美女から発せられたとは思えない、だみ声。
弝は再び弾く。
それは古来からの神聖で厳かな音。
それが洞窟内に力強く、弝を守るように広がる。
弝はできるだけ心を落ち着けて、三度弾く。
「口惜しやああああ! ここまで下りてきた人間を逃すしかないのか!」
美女の口から怨嗟の叫び。
効いてる。退けている。
鬼と化した美女は弝に近づけない。
それに力を得て、弝は更に弓を爪弾く。
「えいい! 忌々しい! やめや!」
それでもやめず、弝は弾き続ける。
それから、いく時経ったのか。
美女はいつの間にかいなくなっていた。
そして坂道を見上げた先。地上への出口がぽっかりと口を開けていた。
弝は慎重にゆっくりと坂道を上がった。
いつでも爪弾けるように、弓を構えたまま。
そして上がった先―。
虫女もいなかった。
周りを見るとそこは森の中。
ここはどこか。
この辺で森があるのは学校。旧校舎の奥。
「帰らずの森」
数年に一度の割合で行方不明者が出ると言う学園の七不思議にもなっている森。
弝は行方不明者が出る理由がわかった気がした。
それは虫女に追われ、洞穴に追い込まれ、小屋の中の美女に振舞われたお茶と菓子を口にする。
もしそうしていたならば、弝も洞穴の奥底へと連れて行かれてしまったのではないか。
そして二度と帰れなかったのではないか。
弝はそこで首を振って考えを断ち切った。
「帰ろう」
ふらりと前に進んでから、弝振り返った。
そこには洞穴は跡形もなかった。
後日。
弝はお墓の前に立っていた。
「おばあちゃん、助けてくれてありがとう。すぐにわからなくてごめんね」
洞穴で弝に忠告をしてくれたのは、亡くなった弝の祖母だった。
耳元で囁かれて、やっとわかったのだ。
弓を教えてくれたのもその祖母だった。
もう何年も前に亡くなったのに、今でも祖母は自分を見守ってくれていたのか。
祖母の優しい笑顔が瞼に浮かぶ。
「おばあちゃん、これからは暗くなる前に家に帰るようにするね」
もう、今回のような事はこりごりである。
「おばあちゃん、弓を教えてくれてありがとう」
そうして手を合わせた弝の頭をふわりと風が撫でていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
少しでも怖かったと思っていただけたら、嬉しいです。
そして☆をぽちりとしてもらえたら、とても励みになります。
よろしくお願いします。
少し修正しました(23年7月3日18時)