突然の同棲生活①
日が大分傾き、遊び疲れた子供達が家へと帰る声が響いてくる。私は寝室の扉をそっと開き、足音を立てないようにベッドへと歩み寄った。
私のベッドですやすやと心地よさそうな寝息を立てているのは、もう二度と言葉を交わすこともないだろうと思っていたこの国を統べる王。運び込まれて半日ほど経過していたが、ソファベッドがガタガタと運び込まれても起きる気配すら感じられなかった。すっかりやつれてしまったその頬に指先を伸ばそうとして、やめた。そもそも彼は、私が軽い気持ちで触れていいような人物ではない。身分差の上でも、私の気持ちの上でも。
気づいてしまったこの気持ちは、決して実を結ぶことはない。そんなことは、この世界の小説を何度も何度も読み返した私だからこそ、誰よりもよく知っている。私は、この世界でヒロインになることはないのだから。
馬鹿だなぁと自分でも思う。叶うことのない強い願いは、身を滅ぼすだけだ。そうだと解っているはずなのに、生まれたばかりのこの想いは、既に溢れ出しそうなほどに膨らんでいた。
眠っている彼の表情は、普段より少し幼く見える。初めて目にした彼の寝顔にとくとくと高鳴り始める鼓動を諫めようと胸元を強く握ったその時、ベッドの上のアイザックが短く呻いて、閉じられていた瞼がゆっくりと上がる。現れたアレキサンドライトの瞳は茫洋としていて、何を映しているのか分からなかった。
「王様!? 気づかれました!?」
ガバッと彼に覆いかぶさって顔を覗き込む。焦点の合っていないような瞳を目にして、今度はどくりと心臓が嫌な音を立てた。
「王様?! 王様、私が分かりますか?」
数か月だけだったけれど、貴方の側室だった者です――そう言葉にしようとしたその刹那、王様のかさついた唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「リコ、リス……」
確かに聞こえた私の名に、体中が歓喜する。王様が、私を覚えていて下さった! たったそれだけのことが、こんなに嬉しいなんて。目頭が急に熱を帯びる。滲みそうになる視界に必死に耐えていると、するりと長い腕が上げられて。
「リコリス……」
耳元で響く低音に、びくりと躰を揺らす。気付いた時には、私は王様に抱き寄せられていた。
「王、様……?」
これは一体、どういうことだろう?
思考が完全停止して、今の状況が全く理解できなかった。
どうして私は王様に抱きしめられているの?
「リコリス……」
再び名を呼ばれ、更に強く抱き締められる。埋めた胸元から彼の匂いを感じて、体中の血液が沸騰しそうだった。
何がどうしてこうなったのか。
しかもこんな風に彼の熱を感じてしまっていては、思考が正常に回るはずもない。
ただただバクバクと煩い自分の鼓動を感じていると、ふと私を抱く腕の力がするりと抜けて、アイザックの腕がベッドに落ちる。耳元から伝わってくるのは、規則正しい彼の寝息だった。
「え? もしかして、また寝ました?」
そろりと頭を上げてみれば、視線の先には穏やかな寝顔があった。
完全に寝惚けられてた! それはそうだ、そんな状況でもなきゃ、王様が私を抱き寄せるはずなんてないじゃない!
その事実に気付いて、一人カァッと頬を染める。自惚れにも程がある。王様がもしかして私のことを……なんて、愚かなことを! 王様が眠っていてくれたことに感謝する。今、彼にこんな赤い顔を晒すわけにはいかなかったから。
暫く待っても再び目を覚ますことのなかった王様をベッドに残し、私は夕食の支度に取り掛かる。普段なら自分一人の分だし、軽く済ませてしまうのだけれど、今はそういうわけにはいかない。与えられた食糧は馬鹿みたいに多くて、腐らせてしまうのではないかと不安になる量だった。これを少しでも多く王様に食べて貰うべく、あまり得意ではない料理に必死に取り掛かった。
栄養失調という診断から、王様はあまりまともに食事を摂っていなかったことが考えられた。そうなるとあまり脂身の多い料理はまだ無理だろうと判断し、とりあえず野菜をたっぷり煮込んだ物に少しだけ鶏肉を入れてスープを作った。
外は既に薄暗くなってきており、4本の蝋燭に火を灯す。3本はテーブルの上の燭台に立て、残り1本を手に再び寝室の扉を開ける。ベッドの上の彼はやはり瞼を落としたままだったが、明かりを寄せて顔を覗き込むと、眩しかったのか瞼がぴくぴくと震える。
「……ん」
眩しそうに手を翳した彼から、蝋燭をそっと離す。
「気付かれましたか?」
ベッドサイドのチェストの上に燭台を置いていると、アイザックはもそもそと起き上がろうとする。
「無理に起き上がらない方が宜しいかと!」
「そなたが、どうして、此処に……?」
慌てて彼の肩を軽く押してベッドへと戻すと、アイザックが瞳を彷徨わせていた。それもそうだ、アイザックの中では、アンヴァルの背中の上が最後の記憶なのだろう。目覚めたら知らない場所で、見覚えのある女に顔を覗かれているなんて、想定外もいいところだ。
「ここは私の家です。南の砦に向かわれる途中で意識を失って落馬したんです。覚えていらっしゃいませんか?」
「落馬……私が?」
「はい。幸い近くの歩兵が受け止めてくれたようで、大事には至らなかったですが」
左手で額を押さえてアイザックが黙り込む。記憶が飛んでいるのだから、混乱するのも無理はない。
「えぇーっと……王様、私を覚えていらっしゃいます?」
まずはそこからと思い尋ねれば、アイザックが眉間にくしゃりと皺を寄せた。
「リコリスだろう」
先程抱き寄せられた時とは大違いで、若干棘を含んだような声で名を呼ばれる。いや、これが正しい私の名の呼び方なのだろう。
「そうです、覚えていて下さって、光栄です」
出来るだけ笑ってみたつもりだけど、ちゃんと隠せたかな? 少しでも傷ついてる顔なんて、見せるわけにはいかない。
「それで? ここはそなたの家なのか?」
「そうです。広場で落馬された王様を、こちらに運ぶようにとレオニード様から指示されまして」
「レオニードが?」
側近の名を聞かされて、王様の機嫌が更に降下した気がした。前髪をぐしゃりと掴むその手からも、その様子がありありと感じ取れる。
「医師の診断ですと、過労と栄養失調とのことでした。十分な睡眠と休息、そして栄養のある食事をたっぷり摂れば、回復されるとのことでした」
「過労と栄養失調……」
聞かされた診断に、身に覚えがあったのだろう。そのまま黙り込むアイザックに、私は苦い笑みを浮かべる。
「ですから、数日こちらでお休みになられれば、すぐに王城にお戻りになれます」
アイザックにしてみれば、1分1秒たりともここには居たくないのかもしれないけれど、体のことを考えれば、仕方のないことだと諦めて貰おう。
「狭い家ですが、食料や医療品などの必要な物はレオニード様が運んで下さいました。どうぞ出来るだけ心穏やかに、早く回復されますよう」
ぺこりと頭を下げてくるっと彼に背を向ける。私は最早彼の側室でも何でもない。今はただ、身の回りの世話する一般平民だ。出来るだけ彼を不快にさせることのないようにと、足早に寝室をあとにする。
キッチンに戻った私はスープを多めによそってパンを添える。王の口に合う自信は皆無だったが、数日だけ辛抱して貰うしかない。ノックをしてから寝室に戻ると、アイザックは起き上がってヘッドボードにもたれ掛っていた。
「起き上がって大丈夫なんですか?」
「あぁ、問題ない」
ぶすっと返すその口調は、明らかに不満そうだ。そりゃそうか、こんな汚い部屋に押し込められていれば、不満にもなるだろう。
「スープをお持ちしました。味は……保障出来ませんが」
トレーに乗せたまま彼の膝の上に置くと、彼はぱちぱちと瞬きをしてスープを眺めていた。
「これは、そなたが作ったのか?」
「えぇ、ですから、味の保障は出来ないと」
軽く肩を竦めてみせると、アイザックはスプーンを手にしてスープを一匙掬う。それをそのまま口元へと運んで、口内へと流し込んだ。
「…………」
スプーンを手にしたまま固まっている姿から、彼の思考が読み取れた気がした。そりゃそうでしょう、私は宮中の料理人ではないし、彼の口に合う料理なんて作れるはずもない。
「不味いとは思いますが、出来るだけ召し上がって下さい。食べなければ、回復は出来ませんので」
そう言い残して私は寝室を出た。そのまま竈に向かって、自分の分のスープをよそう。パンを片手にテーブルに着くと、いただきますと手を合わせてスープを一匙掬う。うん、そこまで不味くないと思うんだけどなという言葉は、自分の中で飲み込んだ。
10分ほど待ってから寝室に戻ると、アイザックはトレーを既にチェストの上に置いていた。大量に残されてるんだろうなと歩み寄ってトレーを覗き込めば、そこには空っぽの器とスプーンだけが残されていた。
「……全部、召し上がったのですか?」
「残した方が良かったのか?」
質問に質問で返されて、私は思わず『いいえ』と答えてしまう。
「でも、あまりご無理をなさらないでください」
美味しいと思えない物を無理に食べるのは、ストレスになる。体力が回復する最低限の食事さえ摂ってくれればいいのだからと暗に示せば、何故かアイザックが不服そうにしていた。
夜が更ければレオニードが用意してくれたソファベッドに寝転んだ。その驚きの寝心地に寧ろ感謝したくなる。流石高級品は違うんだなぁと改めて生活の質の差を感じてしまった。
翌朝、寝室の扉を開いてそっと中を窺えば、薄闇の中すやすやと眠るアイザックの姿があった。不眠症気味だと聞いていたけれど……という疑問が湧いたが、きっとそれ以上に疲弊していたのだろうとあまり深くは考えなかった。
朝の身支度を済ませ、竈の前に立つ。今日は卵くらいは食べられるだろうかと首を捻っていると、徐に寝室の扉が開く音が聞こえてきた。
「……! お早う御座います。ご気分は、いかがですか?」
寝ぐせのつけられたサファイアブルーの髪を目にするのも、当然初めてのことだった。
「大分良い。ところでそなたは昨晩どこで眠ったのだ?」
朝からまた不機嫌そうな声で尋ねられる。まぁ、こんな狭小住宅に押し込められていれば、無理もないか。
「レオニード様がソファベッドを下さったので、そこで。とても素晴らしい寝心地でした!」
私のベッドよりも寝心地が良いかもしれませんと付け加えれば、アイザックの眉間の皺が更に深くなる。
「ならば、今宵は私がこちらを使わせて貰おう」
「そういうわけにはいかないです」
寝心地はいいが、所詮はソファベッドだ。まして手足の長いアイザックが使ったら、窮屈で堪らないに決まっている。即座にお断りをすれば、アイザックはまたしても不服そうだった。そのまま彼はツカツカと竈に歩み寄る。足取りからみて、確かに大分体調は回復したのだろう。
「何を作ろうとしている?」
竈に乗せらえた空っぽのフライパンを目にして、アイザックが尋ねてきた。丁度いいから、直接訪ねてしまおうか。
「卵を焼こうと思っていたんです。王様は卵焼きと目玉焼き、どちらがお好きですか?」
庭で飼っている鶏が朝産んだばかりの卵だ、新鮮さには問題ないだろう。では焼き方をどうするかと尋ねたのだけれど。
「めだまやき? それは何だ?」
返された答えにこちらが『えっ?』となってしまった。冷静に思い返してみると、確かに王宮の食事には目玉焼きなんて出された記憶がない。
「卵の黄身を崩さすにそのまま焼くんです。ご存じないですか?」
そもそも卵料理自体があまりなかったかもしれないと思い至る。こちらの世界ではあまり卵の需要がないのかな?
「知らないな。ならばそれを所望する」
所望されるほど高度な料理でもないんだけどと思いながら、『かしこまりました』と返事をする。フライパンにバターを引いて、卵を二つ少し離して落とした。
「そんなことをして、くっ付いてしまうのではないか?」
「多少はくっ付きますが、白身はすぐに切れますし」
じゅわじゅわとバターの焦げる良い匂いが空腹を刺激する。少ししてから蓋を被せると、代わりに隣の鍋の蓋を開ける。あまり変わり映えはしなかったが、野菜スープが入っていた。
「卵は蓋をしてしまうのか?」
「少し蒸すんです。黄身が少し固まっている方が美味しくありませんか?」
白パンを2個ずつ皿に乗せてテーブルへと運ぶ。竈に戻ってフライパンの蓋を取ると、白い蒸気の下には、丁度いい感じに火が通った目玉焼きが出来上がっていた。
「色が変わった」
「うん! いい感じに焼けたようです」
フライ返しなんて物は存在しないので、木べらで代用。白身の下に滑り込ませて目玉焼きを持ち上げると、皿に盛りつけた。日本の朝なら見慣れた食事だけれど、王様にとってはそうではなかったらしい。
「さぁ、どうぞ」
テーブルには目玉焼きと白パンとスープ。デザートはこの時期が旬のアモラと呼ばれるプラム系の果物だ。王様にとっては質素極まりない朝食だろうが、私にしてはかなりの贅沢である。早速テーブルについた王様は、フォークを片手に不思議そうに目玉焼きを眺めていた。
「こんなに柔らかいが、食べられるのか?」
なるほど、卵を生で食べる感覚って、この世界でもあまりないのかも。私は見本を見せるように目玉焼きをフォークで突いてみせる。途端に黄身がとろとろと溢れ出した。それを白身と合わせて掬うと、零さないように口へ運んだ。醤油がないのが残念だなーと塩味卵を味わっていると、王様も私の真似をして目玉焼きを掬って口元へと運ぶ。フォークが口元から離されたその時、アレキサンドライトがぱちぱちと瞬いた。
「……濃厚な味だ」
「もっと沢山の卵を使って、フワフワのオムライスにしても美味しいですよ」
卵料理は幅が広いですよね~なんて言いながら、白パンを千切る。
「おむらいすとは、何だ?」
えぇー、それも存在しないの? とも思ったが、キラキラと瞳を輝かせている彼の前では、そんなことも口に出来なくて。
「機会があれば、お作りいたします」
それだけ答えて、そのあとはあまり余計なことを口に出さないように気を付けた。
アイザックは熟睡して食事もそれなりに摂れたせいか、大分調子が良さそうに見える。しかし無理は禁物だと、その日は一日ベッドの住人となってもらった。夕方に姿を見せたレオニードに王様の様子を伝えれば、彼は顎に手をやって何か考え込んでいる様子だったが。
「直近で王様にご決断頂かねばならない重要案件はそこまで御座いません。その他の庶務は私の方でなんとか処理できますので、今しばらく王様をこちらで療養させていただくことは出来ますか?」
一瞬、えぇー……とも思ったが、この国の元首であるアイザック王のためとなれば、断ることなど出来るわけもなく。
「まぁ、そこまで長期的でなければ、なんとか」
そう答えれば、レオニードは心底安堵したように『有難う御座います』と礼を述べた。
「けれど、王様がお城に帰られたいのでは御座いませんか? こんな、狭くて汚い家など、苦痛でしかないでしょう」
私は構わないけれど、王様の方が嫌なのではないか。当然のことを尋ねれば、レオニードはなんてことはない様子で返してくる。
「王様は実に興味深いと仰っておいででした。何か特別なことをなさったのですか?」
興味深いって、目玉焼きが? 卵を落として焼くだけの料理で王様の胃袋を掴めるなんて、思ってもみなかった。